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うっかりからの、「しっかり2.0」(前編)|大和田奈津|2023-24 essay 10 【竹端ゼミ・フィールドワーク】

所属や分野・領域の垣根を超えて多様な人たちが集まり、対話し、実践的に学び合う「ふくしデザインゼミ」。2度目となる今年は、28名の学生と若手社会人が、東京八王子、伊豆大島、滋賀高島、長崎諫早の4地域をフィールドに「福祉をひらくアイディア」を考えてきました。

正解のない世界を漂流する2ヶ月のプロセスのなかで、若者たちは何を感じ、何を思うのか。このエッセイでは、ゼミ生一人ひとりの視点から、ふくしデザインゼミを記録します。essay 07からは、フィールドワークのお話です。

こんにちは。ふくしデザインゼミの竹端先生のゼミで活動している大和田奈津(なっちゃん)です。大学院で社会学の観点から地域コミュニティの研究をしながら、地元の役場で若者のまちづくりの仕事をしています。

竹端ゼミでは長崎・諫早にフィールドワークに行ってきました。前編、後編にわけて記録します。


生の充足と、しっかりと、うっかり

竹端ゼミでは、職員さん、利用者さんと、人と人として出会い、「友だちのような関係」を築き、「会いたい人に会いに行くフィールドワーク」にするために、1か月間準備してきた。お手紙を書いて、合計8人とオンラインでお話をした。

そうして向かえた、FW初日。飛行機のなかでは、ゼミ生のかめかめとあっこちゃんといろいろなこと(「友だち」って何?とか、なぜ福祉のお仕事は低賃金なの?とか)を議論し、気づいたら長崎に着いていた。

曇天。だけど、なんか清々しかった。長崎空港は海に浮かんでる。だから空港を出ると海が見える。

諫早行きのバスに乗るまで時間があったので、一緒に飛行機に乗ってきたメンバーで海を見た。「潮のにおいがする~!」とにこにこするゼミ生のおひよ、ほかのメンバーもわいわい海を見て海を感じて楽しそうだった。そんな姿を運営のよりちゃんが写真におさめてくれた。

海にはしゃぐゼミ生

バスに乗って諫早駅へ向かい、駅で他のゼミ生と竹端先生、南高愛隣会の下田さん・渡部さんと合流。下田さん・渡部さんが運転する車で南高愛隣会に向かった。

一日目の午後は、南高愛隣会の複数の施設に滞在して「ただいる、ある」を実践した。学生が施設を見学するというスタイルではなく、一人の人間が施設に「ただいる、ある」ということに徹した。

「ただ、いる」を実践する大和田

施設に「ただ、いる」ことを実践して一番感じたことは、「生が充足している」ことだった。利用者の行為、言葉を職員が受け止め、反応する。一緒に何かやる。そこでは予想もしないことも「うっかり」起こったりする。

そんな福祉の営みは、私の日常生活ではなかなか見られない風景だった。仕事や研究をするなかで私は時々、自分の感情や思いを犠牲にしないといけないことがある。それなりの大学を卒業し大学院で研究する身としては「しっかり」しないといけないことが多い。「しっかり」するなかで失われるもの、つまり「人間らしい生々しさ」が目の前にあった。

利用者さん、職員さんに見守られながら輪投げをする私

ある事業所TERRACE やまびこで、レクに参加した。利用者さんと一緒に玉入れをした。全部入ると嬉しそうにハイタッチしてくれた。職員さんは、「いつもはこんな表情しないよ~」という。ああ、自分たちが施設に来ることで施設や利用者さんが「うっかり」「ひらかれている」のかなと思った。

南高愛隣会ではホースセラピーにも取り組んでいる。利用者さんが馬に乗ること、馬と触れ合うことを通して心が落ち着いたり、身体が鍛えられたりするそう。

ホースセラピーの拠点は、ほかの事業所から歩いて5分程度の場所にある。そこまでみんなで歩いた。山が見え、鳥がさえずり、足もとに目を向けるとたんぽぽや菜の花といった春に咲くお花が咲いていた。乗馬する場所に行くと、草と馬の匂いが。「ああ、自分は生きている」と普段は使わない五感を通して諫早の風景にふれることで感じていた。

馬に会いに、諫早を歩く

自分は東京の都心にある大学・大学院に計6年通っている。正直、東京にいるとせかせかしないといけなくてしんどくなって体調を崩したときがあった。それは、多分乗馬の時に感じた「ああ、自分は生きている」という感覚が東京では失われてしまっているのかも?と思った。

馬に揺られてぼーっとしている私

私も乗馬を体験した。「遠くを見ていてくださいね」と職員さんに言われ、ぼーっと遠くを見た。なんか心が落ち着いた。

入社して3-4回ほど乗馬を経験している渡部さんが「ほかの職員さんも乗ったらいいのに」とこぼした。職員さんは滅多に乗馬しには来ないという。東京では感じられない、馬や自然に触れることのよさがここにはあるのに、ちょっともったいないなあ、と感じた。

それから、利用者さんがいるスペースと事務を行うスペースにはなにか、ギャップを感じた。1階では様々な年齢の利用者さんがわいわいやっていて、2階に上がると事務の職員さんがもくもくと仕事をしている。2階は「東京の高層オフィス」と説明しても違和感がない感じ。これって、「うっかり」と「しっかり」の境界線かな?とみんなで考えた。

かめかめがこのギャップに気づいたので、ゼミ内では「かめかめの境界線」と呼んでいる

違いは、ひらくことで見える

施設での滞在の後は、諫早駅前のおいしい居酒屋で職員さんたちとの懇親会。フィールドワーク前のお話会で話していた職員さんが来てくれた。

ご飯の場だから、話せることがあった。自分の近くに座っていたゼミ生のいじろんは、同年代の職員さんと「社会人1・2年目の悩み」について語り合っていた。私は、目の前に座っていた渡部さんと積もる話に花を咲かせた。

ジャーナリストを目指していた渡部さんがなぜ南高愛隣会に入ったのか?なぜ仕事に必ずしも直結しないことに向き合いたいと思うのか?実は渡部さんと自分は同い年。だけど二人とも全然違う道を歩んでいる。違うから面白いと思うし、知りたいと思うし、自分を大切にしよう~と思う。そんな場だった。

あと、ある職員さんとも深い話をした。その職員さんが「大人になるまで障がい者を見たことがなかった。でも、実際にはいる。見えないっておかしいよね」と言っていた。多分、日本で生きていると多くの人は障がい者と関わらないと思う。

自分は、実家が社会福祉法人を運営していて小さいころから利用者さんに可愛がってもらったり一緒に干し芋を作ったりしていたから、「当たり前」だった。でも、多くの人にとってはそうではない。「いない、見えないことが当たり前」になっている。

ふくしデザインゼミでは「ふくしをひらく」をテーマにしているけど、まさに「ふくしをひらく」ことで自分と違う人のことが「いる、見えるが当たり前」になるのかなと思った。

おいしいお肉。南高愛隣会の農場からも卸しているお肉だとか。

福祉とふくしの違いって?幸せってなんだろう?

懇親会の後は、なんかおしゃれなバーで23時過ぎまでゼミ生と議論した。そこでゼミ生のこもちゃんが「事業所を見ていて、解決するべき課題がない気がした」と言った。自分もなんかそんな風に感じる部分が強かった。きれいでオープンな空間で他の法人ではできないことを沢山やっている。少なくとも実家の施設よりもすごいのは確かだ。

でも、ゼミ生のあっこちゃんが「私は変えなきゃいけないと思う。自分が関わっている施設の利用者さんが好きな曲は美空ひばりなの。どの世代も。それはね、親の影響なの。逆に親以外の影響がないの。選択肢がない。それって不幸なことだと思う。」と言った。

自分はハッとなった。制度や法律で定められた「福祉」を行うなかでは課題はないように見えるかもしれないけど、制度や法律ではなんともできない・しづらい「ふくし」を行うなかでは課題があるのではないか。選択肢があること、選べることが利用者さんは十分に出来ているのか?

自分は、日常のモヤモヤと重ねながら、「幸せって何だろうって思う。楽することが幸せなのかな?」と言った。

今の世の中はどうやらいろんなことを「コスパ良く」行うことが良いとされ、そのためにいろんなサービスが存在するし、コスパ良く行えること、つまり楽できることが「幸せ」になっている気がする。でも、楽するだけでは得られない幸せもあるし、今の社会ではそういうものが失われつつあるのでは?と社会学を専攻する者として思う。

そんな日常のモヤモヤと、施設に滞在して見たり感じたりしたことが重なっていく。じゃあどうしようか...と延々に議論をして一日目は終了した。

朝からずっといろんなことを考えて感じて...の一日だったのでとても疲れていた。たぶん端から見たら「コスパ悪い」ことをしているけど、一日目を終えたとき自分は「幸せ」だった。こんな「幸せ」を、利用者さんも職員さんも、みんなが享受するにはどうしたらいいんだろう、と考えた夜更けだった。

(後編は、こちら

|このエッセイを書いたのは|

大和田 奈津(おおわだ なつ)
早稲田大学大学院教育学研究科社会科教育専攻修士課程2年

お知らせ ~公開プレゼンを開催します!~

3月3日(日)には、正解のない世界を漂流した2ヶ月のプロセス、そしてアウトプットを共有し、みなさんとともに思考と対話を深める、公開プレゼンテーション〈「ふくしをひらく」をひらく〉を開催します!
エッセイを綴るゼミ生たちがみなさんをお待ちしています。ぜひご参加ください!


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