「実践的な学び」って何だろう?|佐藤由|2022-23 essay 05
「ふくしデザインゼミ」ってなんだったんだろう?
今日は20時から、小松理虔さんの「エッセイ講座」だ。学生編集部に課せられた「ふくしデザインゼミをふりかえるエッセイを執筆する」というミッションのヒントになればと理虔さんが時間をつくってくださった。
帰省先から大学のあるまちへ戻るため、20時半の新千歳空港発の飛行機を目指し、私は空港へと向かっていた。翌日は授業がある。フライト直前で、残念ながら講座には参加できない。はずだった。しかし、搭乗30分前、まさかの大雪で欠航。計画通りにはいかないものだ。預けた荷物が手元に戻るのを待つ間に、エッセイ講座を聴きはじめた。
理虔さんのコメントは、一言、一言に納得感があり、うおおなるほど! ああ、わかる。え、そんなこともできるのか! と感動しっぱなし。これは、エッセイ講座に限ったことではない。理虔さんは、ふくしデザインゼミの18本の取材のうち13本に同行。インタビュー、撮影、原稿内容の検討、編集や手直しまでのプロセス全てに向き合ってくださっている。
理虔さんだけではない。デザイナーの田中悠介さんは、ふくしデザインゼミの提案者。プロジェクト全体のデザインから、関係者とのつながりのデザイン、一ページ一ページのレイアウトのデザインまで、すべての過程で設計と進行に関わっている。
ふくしデザインゼミは、「福祉やデザインに興味のある学生たちが取り組む、福祉法人を舞台にした、分野や領域の垣根を越えた実践的な学びのプログラム」。学生編集部には、福祉学生、デザイン学生、領域を問わず社会について学ぶ学生など、まさに「分野や領域の垣根を越えた」メンバーが集まっている。講師も一流のデザイナーと編集者。さまざまな価値観、経験を持ち寄った取材・編集のプロセスでは、気づきが多い。今まで同質性の高い場でしか学んでこなかったことを痛感させられる。
だが「実践的な学びのプログラム」を通して、私たちが必ずしもプロのデザイナーやプロの編集者を目指しているわけではない。福祉、まちづくり、プランナー、コミュニティ運営など、わたしたちが将来的に生業にしていきたい分野や領域は、さまざまである。だとすると、ここでの「実践的な学び」とは、なんだろう?どこで、どう活きる学びなのだろう?メンバーがこのプロジェクトの期間に学んだことを、捉え直してみようと思う。
必死で向き合った、言葉、人、時間
この期間、私たちは何に一生懸命に向き合ったのだろうか?
まずは、「言葉」だと思う。インタビューをするなかで、「なぜその言葉を使って聞いたのか」「なぜ相手は、その言葉を使って話してくれたのか」に神経をとがらせた。その人らしさを記事に落とし込むために、「どうしてこの言葉で表現したのか」「この内容によって、その人の何を伝えたいのか」を何度も考えた。考えて考えて、行き詰って、書くことがつらくなったメンバーもいた。語彙のなさに絶望した。逆に、言葉選びや背景を考えるのが楽しくてしょうがないメンバーもいた。表現についての議論は自分の感性や自分にない感性について気づかせてくれた。言葉に向き合うことは、自分に向き合うことでもあったのだと思う。
そして私たちは、「人」にも向き合った。
「この人はなぜ福祉を選んだのだろうか」。その人の歴史、環境、信条、特性。たった一時間の対話から、その人らしさを見出す。ものがたりとして私たちなりに捉え直す。そして、そのことによって、私たち自身のものの捉え方や考え方のくせに気づいた。相手に向き合うことで、やはり自分に向き合うことにもなったのだ。
それだけではない。学生どうしも向き合った。なぜデザインゼミに関心をもったのか。将来はどうやって生きていきたいのか。記事を書く苦しみや行き詰まり。生きづらさや葛藤していること。取材や執筆を支えあうために、互いのこれまでやこれからについて、気にかけあうような関係になりつつあると思っている。
そして、私たちは「時間」にも向き合ってきた。
言葉や人に向き合うほど、執筆や編集にはとてつもない時間と精神的なエネルギーがかかる。だが、プロジェクトは進行していく。入稿の締め切りにも向き合わなければならない。そもそも、私たちの時間は無限じゃない。ほかの活動や学業など、それぞれがやらなければならないことを抱えながら、言葉に、人に対峙しなければならなかった。
ナマモノをあつかう、「生きた」学び
言葉、人、時間に切実に向き合わざるを得ない環境のなかで、私たちの学びは「生きている」と思う。生身で、リアルで、モヤモヤや葛藤といつもとなりあわせ。これも大事にしたいが、あれも捨てられない。わりきれなさのなかで、断念しないといけない機会もある。この表現は削ろう。ここは理虔さんが引き取ろう。今日はこっちの予定をあきらめよう。なんでも計画通りにはいかない。人間らしく悩み、もがきながらの、「生きた」制作過程の、「生きた」学びだったんじゃないかと思う。
では、「死んだ」学びってなんだろう? 机上で、生活と乖離した場所で、生きることや日々の暮らしとは程遠い学び。私たち大学生のキャンパスでの学びは、「死んだ」学びにはなっていないだろうか?私の場合はそうだと思った。教授が一方的に話す録画を、眠気に耐えながら聞き、テストやレポートで最低限を抑えられればよし、という姿勢。そこにある言葉や人に向き合わず、ただ限られた時間をむだに浪費するような授業。これについての議論は20年も前からあったらしい。ある文献では、「勉強はするが主体性を持たず漫然と講義だけを受ける者」のことを「生徒化した学生」と定義している。
大学のせいにすることもできるだろう。(そうしてきたし今もそう思う部分はある)。ただ、私たちはきっと、どこにいても「生きた」学びを重ねていけるはず。目の前の言葉や人の、一つ一つに意味を見出し、らしさを見出すこと。お互いの表現やその背景を考え、伝え合うこと。生きる時間の有限性に自覚的であること。
ふくしデザインゼミでの、理虔さん、田中さん、武蔵野会の職員さん、インタビューさせていただいた大人たち、そして学生どうしとの「実践的な学び」。それは、「言葉、人、生きる時間にどう向き合うか?」という問いであり、それを共有しながら生きていくプロセスだったんじゃないか、と私は思う。
ただ、だからといってプログラムの内容がなんでもよかったわけではない。福祉、デザイン、編集、武蔵野会、それぞれの「らしさ」があり、それら分野や領域の垣根を越え、広義に捉えなして学ぶことに意味があるはず。そのことについては、ほかのメンバーがエッセイにしてくれるだろうと思うので、ここでは扱わないでおく。
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空港から実家までの車中、ずっとエッセイ講座を聴いていた。書きたくてうずうず。自室に戻り、すぐにPCをひらく。さて、どれくらい「生きた」言葉を並べられただろう?ふくしデザインゼミを通して出会った言葉や人に想いを馳せながら書く時間は、たのしく幸せな気持ちになった。「生きた」学びとつながりの機会をつくってくださったすべての関係者の方々に感謝したいなあと思う。
今日この講座を聞けてよかった。明日のフライトは欠航にならないで欲しいけれど。
|このエッセイを書いたのは|
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お知らせ ~ふくしデザインゼミ展を開催します!~
ふくしデザインゼミ展は、福祉と社会の関係をリデザインする実践的な社会教育プログラム「ふくしデザインゼミ」の成果を、さまざまな形で鑑賞・体験する企画展。ゼミ生が制作した『ふくしに関わる人図鑑』に関する展示を中心に、トーク、ツアー、さらには「仲間さがし」に至るまで。福祉を社会にひらく、さまざまな企画を予定しています。ぜひお越しください。
このエッセイを執筆した佐藤は、「ふくし × はたらく(スナックふふふ番外編)」で登壇予定!
社会福祉法人武蔵野会の福祉の支援現場で働く職員さんも一緒です。お酒を片手に、「ふくし」と「はたらく」の新たな関係をみつけてみませんか?