見出し画像

あなたも私も、一緒に「ふくし」の輪の中で|椎名遥|2022-23 essay 09

「ふくしデザインゼミ」は、福祉やデザインに興味のある学生たちが、実際の福祉法人を舞台に、分野や領域の垣根を越え、実践的に福祉を学ぶプログラムです。いまはまだ福祉の外側にいる学生たちが、福祉施設をめぐり、その担い手と対話を重ね、図鑑記事を執筆する。編集やデザインの考え方を活用しながら、より本質的なかたちに整えてゆく・・・。このエッセイは、そのプロセスを通して、試行錯誤を重ねた学生たちの思索の記録です。


未開の地、福祉施設

管につながれた5歳の子どもを見たとき、涙が出そうになった。

24時間、自分につながった管を通して栄養が運ばれてきて、常に機器と隣り合わせで移動しているのだという。これが外れたら命に関わることになる。そんな子どもを目の当たりにしたのは初めてだった。それでもこの子はゆっくり成長していて、これからもずっと、この装置と暮らしていく。この子にとっては普通のことでも、どうしても「辛い境遇でも一生懸命生きている人」という目で見て涙が出そうになっている、そんな自分が嫌になった。

介護が必要な人と関わりを持ったことがほとんどなかった私にとって、初めて訪れた介護福祉事業所は、なんだか居心地が悪かった。さっきのような子どもをはじめ、1人でご飯を食べられない人とか、車椅子に乗って押してもらわないと移動できない人とか、コミュニケーションが難しい人とか。じゃあなんで私はこんなにも「普通」に生きているんだろう、と思わずにはいられなかった。

職員さんの話をききながら思いをめぐらす

でも、それから何日か経って、ふと思い起こしたことがある。私の「普通」とはなんなのか?ということだ。

というのも、最近、自分のだらしなさに嫌気がさすことが何回もあったのだ。物を同じ場所に戻さないからすぐになくすし、目覚ましの音が聞こえなくて寝坊するし、時間通りに家を出発できないし…(いつも迷惑をかけてる人、ごめんなさい)。自分はなんでこんな「普通」のこともできないのか、だらしないのかを自問自答して、自己嫌悪に陥ることもある。

でも、もしかしたら、誰しもができないこと、苦手なことを抱えていて、あるラインを越えると一般に「障害」と言われるだけのことなのではないか、と思ったのだ。そして、そのラインというものは社会によって規定されていて、ラインより上か下か、近いか遠いかという、まるで数直線上で自分の能力が測られている幻想を見せられることによって、自分よりできる人/できない人という判断がされてしまうのではないか。

はじめての福祉施設、取材、編集。しっかり疲れた

「ない」ことって、悪いこと?

そもそも「できない」のは悪いことなのか。「すぐ物をなくす人」は物を管理する能力がない、それを正すことが善とされる価値観がそこには潜んでいるように感じる。「ない」ものは手に入れるのが、よいことのように語られる。「お金がない」「コミュニケーション能力がない」とかも同じだ。「二重がいい」とか「痩せたい」とかも自分が持っていないことを嘆いて、ある方がいいっていう価値観に囚われているんじゃないか。

だから「ない」こととか「できない」ことがみんな怖くて、そこから脱しようとする風潮がある。そこから脱しようと努力することが賛美されることもある。だけど、その価値観が蔓延した世界で、私たちは本当に生きやすくなるだろうか。このままいくと自分にも他人に対しても、できるかできないか、できるように努力しているのか、ばかりで判断するようになってしまうのではないか。

そんな不寛容な世界に、私は生きていたくない。生きられない。

誰もが「できない」を抱えている。その要素だけで自分も人も評価して比較するんじゃなくて、その「できない」をできないまま自分自身だと、その人自身なのだと受け入れられないだろうか。人間をもっと丸ごと許容して愛を持つことができれば、社会は生きやすくて、みんなに優しい世界になるんじゃないか。

だからこそ武蔵野会の「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という理念はとても素晴らしい。まずは、自分を許し、優しくなるところから他人への愛は始まると思うから。

|このエッセイを書いたのは|

椎名 遥
(津田塾大学 学芸学部多文化・国際協力学科3年)

お知らせ ~ふくしデザインゼミ展を開催します!~

ふくしデザインゼミ展は、福祉と社会の関係をリデザインする実践的な社会教育プログラム「ふくしデザインゼミ」の成果を、さまざまな形で鑑賞・体験する企画展。ゼミ生が制作した『ふくしに関わる人図鑑』に関する展示を中心に、トーク、ツアー、さらには「仲間さがし」に至るまで。福祉を社会にひらく、さまざまな企画を予定しています。ぜひお越しください。


いいなと思ったら応援しよう!