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『修復失敗芸術に関する考察と創作』

皆さんは「修復失敗芸術」をご存知でしょうか。この言葉自体は私が勝手に呼称している造語なので耳馴染みはないでしょうが、字面から「あのことかな?」と想像がつく方もいらっしゃるかもしれません。

事例

修復失敗芸術とは

芸術界隈では2010年代より、経年劣化した作品を一般人が善意で勝手に修復しようとし、案の定見事に失敗してしまう事案が度々発生してきました。(詳細は下記の各参考記事を参照)

主な修復失敗事例
2012年、スペイン(ボルハ)の壁画「この人を見よ」
2013年、中国(遼寧省)の壁画
2019年、スペイン(ナバラ)の木彫「聖ホルヘ像」
2020年、スペイン(ヴァレンシア)の壁画「無原罪の御宿り」
2020年、スペイン(パレンシア)の建築彫刻
2024年、中国(四川省)の仏像

この通り、有名どころだけでも2012年のスペイン・ボルハで起きた壁画修復失敗事案から、2024年に中国・四川省で起きた仏像修復失敗事案まで、様々な地域で修復失敗事例が定期的に話題となっています。

私はこれらを概して「修復失敗芸術」とカテゴライズし、この手の話題が報じられるたびに興味深く情報を追いかけ、いつかこれらをテーマに何かしらのアウトプットがしたいなと予てより考えていたのでした。

修復失敗事例の参考記事

考察(の皮を被った詭弁)

素人の安易な手出しは慎むべき

上記の修復失敗事案では、作品価値の毀損や文化的遺産の損失につながるといった批判の声が次々に上がっています。
作品には作者の意図や時代背景など複雑な要素が込められており、修復には技術力や素材知識、文脈理解など様々な専門性が欠かせません。
本来は専門家が適切なアプローチで修復すべきであり、例え善意があっても素人が勝手に手を加えることは当然ながら慎むべきです。

素人の造形にも魅力はある

一方で作品本来の姿や価値を脇において眼の前に存在する(失敗した)修復品そのものを見ていると、個人的には何ともいえない趣が漂っているようにも感じられます。
どこかアンニュイで、それでいて愛着がわく魅力的な表情をしており、プロフェッショナルの手による洗練された仕上げとはまた異なる、アマチュア作家が作るハンドメイド作品特有のぬくもりというか、ある種の「ヘタウマ」的な魅力がにじみ出てはいないでしょうか。
善意による愛情が付与されているだけあって、善意修復(修復失敗)された作品にはそれまでには無かった魅力が備わりうる側面もありそうです。

作品の変容を許容できるか

ただいくら魅力的であろうと、修復という行為を経てさらには復元失敗となると、本来の作品からはそれなりに変容してしまうことが避けられず、これはやはり問題かもしれません。
しかしよくよく考えてみると、仮に修復が成功したとて作品完成当初と全く同じ状態に復元できるわけではないでしょう。例え見た目が上手に再現できていても、極端な話、分子単位で見れば完全に元通りとはなり得ないはずです。

では作品そのものの本質的な姿とは一体なんでしょうか。
完成した時点での作品が唯一絶対の本質的な姿でしょうか。
完成時の状態から僅かにでも変化すればそれは許容されないのでしょうか。
或いは原型を留める程度であれば僅かな変化は許容されるのでしょうか。
多少の変化が許容されるのであればその線引は⋯

そもそも作品というものは完成した次の瞬間から経年の波にさらされ続けることになります。作品は時間の流れとともに変化(変質、変形、変色など、いわゆる経年劣化)を纏っていくものであり、経年による変化は作品の一部であるとも言えます。つまり作品が完成時点の状態から変化すること自体は元より許容されるべきものと考えられるはずです。

さらに解釈を拡大すると、経年変化に伴う修復という形で人が作品に手を加えた結果の変化もまた、その作品が経年とともに纏った変化の一部であると言うこともできるかもしれません。

なぜなら修復が成功し、完成当時に近い見た目を復元できたとしても、分子単位で見れば完成当時のオリジナルとは異なるものであり、物質的には不可逆的に変化したままであるという点では、経年劣化状態も、修復成功状態も、修復失敗状態も本質的に変わらないからです。

このように作品が時間とともに少しずつ変化し、後年にはその時代その時代で作品を取り巻く環境が変わり、その時々の状況に応じて人の手が加えられることがあるのは、どれもごく自然なことです。
こうした時系列の上にある変化も作品そのものの姿として包含できるものだと考えれば、経年変化した状態に加え、修復が成功した状態も、修復が概ね成功した状態も、修復が僅かに失敗した状態も、修復が大きく失敗した状態も、全てが「その時点におけるその作品の最新状態」として許容されて然るべきではないでしょうか。

経年に伴う変容も作品の一部

いずれにしてもあらゆる作品は完成した次の瞬間から変化を始めています。経年による変化も、そこに人の手を加え復元した状態も、時には修復に失敗した状態への変化も含め、作品は作者の手を離れてからも様々に変容していくものです。
そしてこれら全ての歴史をひっくるめて現存しているものが「現在時点における当該作品」であると捉えれば、「修復失敗芸術」もその作品自体の歴史的変容過程における一形態として受容することができるでしょう。

こうした観点によれば「修復失敗芸術」も愛すべき芸術カテゴリーの1つとして成立しうるかもしれない、そのように思うと次第に創作意欲が掻き立てられてくるのです。

創作

ニケを善意で修復し、失敗へ

このような考察を元に、満を持して私自身も善意の自称芸術家となり、「修復失敗芸術」の創作に取り組んでみようと考えました。

手始めのモチーフとしてわかりやすく損壊している既存作品を取り上げようと考え、両腕と頭部が完全に損失していることで有名な「サモトラケのニケ」を選定。

まずはニケのレプリカを手配し、早速これを入手。

サモトラケのニケのレプリカ

手元に届いた小さなサモトラケのニケは頭部と両腕が見事にもげており、テレビや写真で見ていた通りまるで原型を留めていません。それでいてこの美しいボディラインと勇壮な両翼、さすが勝利の女神と謳われるだけのことはあります。レプリカからでもその魅力が十分に伝わり、そして本来の姿を取り戻してあげたいという善意がムクムクと湧き立ってきます。

善意を抑えきれず、早速修復に着手

修復過程では、先人(善意の修復芸術家)たちの気持ちを想像しながら、経年と共に失われた作品の姿を復元していきました。

頭と腕が蘇り始めるサモトラケのニケ

顔の向きやヘアスタイルなどはサモトラケのニケ本来の再現予想図などを参考に、アンニュイな表情はスペインの修復失敗過去事例などを参考に、両腕の形状は元々のボディライン等から逆算して然るべき造形を進めました。

各パーツのディテールは「素人なりに精一杯頑張っている感」を出すことが肝要と心得て、上手過ぎず下手過ぎずな塩梅を目標にしました。とはいえ元より私の造形技術が素人並みだったため、普通に頑張って仕上げてみたところ目指すところに近いクオリティにたどり着けた気がします。

要するに頑張って修復し、当然のごとく失敗することができたわけです。

こうして完成した「修復失敗サモトラケのニケ」は、これまでに話題となってきた世界中の修復失敗事例と同様になんとも言えないアマチュア感やニセモノ感を醸し出し、それでいて憎みきれない愛らしさを兼ね備え、修復失敗芸術の特徴を詰め込んだ作品として仕上げることができました。

完成した修復失敗ニケ
アンニュイな表情の修復失敗ニケ
西陽が眩しい修復失敗ニケ
パパラッチを警戒する修復失敗ニケ
堂々と天を仰ぐ修復失敗ニケ

修復失敗芸術が根付く未来

考察の過程で回りくどく述べてきた通り、世の中は諸行無常ですから、完成時の姿を保ち続けることのみが作品のあるべき形とは限らないように思います。
であるならば、時を経た作品が辿り着く1つの形として「修復失敗芸術」というカテゴリーも受容されて良さそうな気がするのですが、皆様はいかが思われるでしょうか。

最後に、もしもこの先「修復失敗美術」が根付くとした場合のことを少し妄想してみましょう。「修復失敗芸術」が大衆化することになる後世では、今回の「修復失敗サモトラケのニケ」もエポックメイキングな作品の1つとして名を馳せているかもしれません。
そして本作もいずれ劣化し、誰かの手で勝手に修復されるも上手くいかず、「修復失敗修復失敗サモトラケのニケ」が現出するかもしれません。そんな未来を想像すると少しばかりワクワクしてきます。

友を見送る修復失敗ニケ

いかがでしょう、皆様も経年と共に損壊した有名作品を自ら修復してみたい気持ちが膨らんできた頃合ではなかろうかと思います。そこで最後の最後に注意点を1つ。

わたし自身は「修復失敗芸術」が世の中に受け入れられる可能性のあるものと考えていますが、もちろん修復元となるオリジナル作品の価値を保護する観点、また作者が持つ著作権を保護する観点も重要です。
もし皆様の中で「修復失敗芸術」に興味を持たれた方がおられましたら、まずは手始めに近世以前の芸術作品のレプリカを用いて、修復失敗芸術の制作を試されてみてはいかがでしょうか。

それではまた次回の作品解説でお会いしましょう。

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