河川敷
子どもの頃、正月の親戚集まりの時期になると、叔母が私を外に連れ出してくれた。
実家に私の居場所はなく、親戚集まりでは手伝いばかりさせられて、つまらなかったから、ちょうどよかった。
以前ほかの文章でも書いたように、叔母は新興宗教に入っていた。もちろん親戚の中でも叔母は特殊な存在で、親戚はみな彼女に対し、はれ物を扱うように接した。
なので叔母が私を連れ出しても、親戚集まりの途中で席を外しても、あまり文句は言われなかった。私は次男坊で存在感が薄かったし、親戚からはあまりかわいがられてはいなかったから。
そういうところで、私と叔母とは、なにか特殊な連帯感のようなものがあったように思う。
叔母が、「いいところ」に連れて行ってくれると言って、私を連れ出した。
「ここの河原はね、いいところなのよ」
実家から車で30分ほどの、小さい川の河川敷へ着いた。
「よく大人が川や海に近づくなってよくいうでしょう、あれって本当に正しいの」
「水ってかたちがなくて曖昧なものだから、同じように曖昧なものと相性がいいのよね」
「だからお化けとか幽霊って、水の近くが好きなんだと思う」
「子どもってまだ心の境界が曖昧だからね」
「ふうん」
私は買ってもらった肉まんを食べながら、冬の澄んだ日ざしできらきら光る川をぼんやりと見ていた。とても寒かったのを覚えている。
夏に来たときはたくさん水があったような気がしたけれど、その時は川の水はとても少なく、砂利が露出していた。
正月の休みで、土手を同い年くらいの子どもと、両親が手をつないで歩いていた。
「おばさん」
「なに?」
「どうして僕のお母さんとお父さんは僕のことが嫌いなんだろう」
「うーん、たとえば交通事故があるじゃない?」
「は?」
「こうつうじこ」
「交通事故、うん」
「当たり前だけど、誰も事故を起こしたくて起こしてるわけじゃないのよ。それはわかるわよね?」
「うん」
「それでも、ニュースを見たら、毎日まいにち、事故で誰それが死んだとか、何人死んだとか、流れてくるじゃない?」
「うん」
「あなたのおかれている状況もそれと一緒よ。事故にあったみたいなもの」
「うーん」
「納得できないのもわかるけどね」
「うん」
「ようは自分の運命を受け入れなさいってことよ。まだ難しいかもしれないけどね」
「運命」
「そう。運命。受け入れて、一度はくじけてもいいけど、なにくそって立ち上がらないと、あなた一生このままよ」
「一生」
「そう。今のあなたにはわからないかもしれないけど、ちゃんとわかる日が来るから。それまで辛抱よ。あ、あそこ見てみなさい」
叔母が私の肩に手を置いて、河原の向こう岸を指さした。
女の子がひとりで河原に座っていた。たぶん、歳はそのときの私と同じくらい。洋服を着ていたけど、着ているものは遠目からみてもすごく汚れているのがわかった。体育座りをして、身体をもじもじとふるわせて、とても寒そうにしていた。
「くしゅん」
その子がくしゃみをした。
「あの子もね、お母さんに愛されなかったのよ」
「どうしてわかるの?」
「その肉まん、少しわけてあげなさい」
「わけるっていったって、向こう岸だよ」
「大丈夫」
叔母に言われるまま、まだ暖かい肉まんを半分ちぎって、たいらで大きめな石を探して、その上に置いた。
「くしゅん」
すぐ近くでくしゃみの音が聞こえた。
「今はまだいいけど、お彼岸の時期にここの河原、ぜったいにひとりで来ちゃだめだよ」
くしゅん
ずるずる。すぐ隣で、鼻をすする音が聞こえる。
「あなたはまだ生きている」
叔母がコートのポケットから数珠のようなものを出して、ちいさな声でなにかのことばを唱えた。
「それだけでも幸運に思いなさい」
くしゅん
私はそのあと、とてもひどい風邪を引いて、しばらく家にこもりきりになった。
その間だけ、両親はいつもよりほんのすこしだけ優しかった。
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