死がエモくなくなる時
35歳のうつ病でフリーターのおじさんになっても人生は続いていく。
このnoteでは主に子供の頃や20代の頃に起きた出来事を回想して書いている。もちろん脚色をくわえたり、出てくる人物の特定を避けるため多少フィクションを織り交ぜたりはしているが、起きたことはおおむねその通りであり、ものごとの本質を大きくずらしてしまうようなことは書いていないつもりである。
周囲にいる多くの友人や知り合いが、若いうちに死んでいった。おそらく類は友を呼ぶということだったのだろう。昔から私のまわりにはネガティブな人間が多かった。そういった人たちはだいたい20代のうちに振り切れて死んでいった。
このnoteでは私とかかわった人たちの死について何度かふれているが、ほかにも知り合いや友人はたくさん死んでいる。ほとんどは自殺である。あらためて今数えてみると、ずいぶん多くの知り合いが自殺でいなくなってしまったように思う。
色々な作品や物語の中で「死」が、いわゆるエモいものとして描かれる。私は20代の中ごろくらいから、そういったものに感動したり、感情を強く動かされることが少なくなってきてしまった。
20代の頃、私にとって死は差し迫った脅威だった。
私はnoteで人々の死について書いているが、別にエモさを出したくて死を書いているつもりはない。そこにエモ味のようなものを感じて読んでくれる人もいるのかもしれないが、先に書いたように、基本的にここに書かれていることは事実ベースであるから、実際に起きた「死」は、書いている当人としてはあまりに差し迫っていて、エモいどころの話ではなくなってしまうのだ。エモさとか冷笑的に死を書くつもりはまったくない。
彼らのことを覚えているため、彼らと過ごした時間を記録しているために、私はここで文章を書いている。別に読む人がえも味を見出してもらうのは構わないけど、私はあんまりそういう感じではない。
まだまわりでボンボン人が死んでいなかった20代前半の頃は、死にエモさを感じることができていた。死は物語を物語として機能させるためのとても重要な要素であることはよくわかるし、そういう物語に感動したり、心を動かされていたこともあった。
子供のころ「天の笛」という、長い冬で凍える動物たちのために、勇敢な鳥が命をかけて太陽のかけらをとりに行くという内容の絵本を読んだ。
学校の図書室で読んで、まわりの目も気にせず感動で涙を流した。言い訳のようになるが、死が差し迫っていなかった頃はちゃんと死の物語性に感動できていたのだ。
だが、まわりで実際に人が死にはじめると、そういう気持ちはすっかりなくなってしまった。死は死であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。ソリッドで、冷たいものだった。死はシベリアかどこかの凍土で100年くらい凍っていたカロリーメイトのようなものだった。私はリザが死んだとき第一発見者になった。今でも眠るように死んでいる彼女のことを思い出すと、呼吸が荒くなり、悲しくなって涙が出る。
死はすっかりディティールをもったものとして私の隣に寄り添うようになり、遠く離れた物語ではなくなってしまった。
死から完全に物語性が失われて、輪郭のある、リアリティなものとして真に迫る瞬間というものが人間にはあるのだろうと思う。私にとってそれは友人、知人の死だった。私は死が目の前にあらわれるタイミングが同年代のほかの人たちより少し早かっただけだろうと思う。それが幸運なことなのか、不幸なことなのかはわからない。
35歳になった今、早い人では両親のどちらかが認知症になったとか、ボケの兆候が見られるという人もまわりに出てきた。ようやくみんな「死」を意識するようになってきた。
死が目の前にあらわれたときに、私たちにできることはなにもない。ただ死を眺めたり、おろおろすることしかできないのだ。私たちが死に対して対抗できることは、おそらくなにもない。