『早稻田學報』訃報データベース①明治30年代編

『早稻田學報』といふ早稻田大學の廣報誌がありまして、「校友動靜」欄等で早稻田大學卒業生や關係者の訃報が記載されてをります。
 早大關係者に關しては、人物事典や新聞の訃報欄ではなく、この雜誌の訃報欄で沒年を確認するケースもしばしばあります。(ちなみに沒年の確認が必要となるのは、著作權保護期間が滿了してゐるかどうかを確認するためです。)
 自分が知ればそれで良いとも思ふのですが、意外と昔の人物や著作について調べてゐる方はそこそこ居るやうです。そこで、『早稻田學報』で確認出來る訃報(つまり早大關係者の沒年)をまとめたいと思います。

 ここでは、1號から142號まで、すなはち、1897(明治30)年から1906(明治39)年までの分について收載します。表記内容は底本に準據してゐます。但し、氏名については太字にしてゐます(底本では傍線や傍點が附されてゐます。)。
 ちなみに(半世紀以上昔の)『早稻田學報』を普通に讀みたい方につきましては、藏書のある圖書館に赴くか、『早稲田学報』記事データベースをご確認ください。


1897(明治30)年

第1號・明治30年3月30日發行

○石田、齋藤、矢野三氏 廿七年政治得業生石田與一氏は昨年末、廿九年政治科得業生齋藤文藏氏は同じく昨年末、同年政治科得業生矢野米次郎氏は本年一月、何れも病氣に罹りて死亡す、痛嘆の至りに堪えざるなり、

第3號・明治30年5月25日發行

大木亮氏 十九年政治科終業の氏は腸チブス病に罹り去四月廿七日逝去し同丗日神奈川町東光寺に葬らる、氏は本校卒業後横濱ワトソン商會に入り後ち田原榮氏が漆器製造業を創むるや同製造所の支配人となり海外内地の販賣に付き大に努むる所ありしか惜かな天年を假さず、病床に在る月餘にして遂に起たず、當日校友の會葬者は田原榮、田中唯一郎(本校長の吊詞を齎らす)、黒川九馬(郷友及同窓を代表して吊詞を捧讀す)三浦力太郎、關屋巨重郎等の諸氏なりき

第5號・明治30年7月31日發行

木村眞一郎氏(二十八年英政)は去六月廿五日病死、

第8號・明治30年10月25日發行

天野清五郎(二十五年行政)氏は去九月七日病死

第9號・明治30年11月25日發行

石濱忠士(廿五年行政)氏死亡

1898(明治31)年

第11號・明治31年1月25日發行

三澤常次郎(廿六年法律)氏は曩に改進黨々報を發行し大に黨勢擴張に盡力し爾來引續國事に盡瘁せしが二年以前より肺患に罹り本月十日死亡す
伊藤正亨(廿一年政治)氏は本校卒業後會計檢査院屬となり最も敏腕の聞ありしが肺患に罹り療養中の所本月上旬死去す、

第14號・明治31年4月25日發行

中村高義氏(廿六年行政)は死亡す、

第25號・明治31年5月25日發行

儘田甚太郎(二十六年行政)氏は肺病に罹り去三十日死亡す

第16號・明治31年6月25日發行

秋山源太郎(廿四年政治)氏は肺病に罹り去五月京都病院にて死亡
只見進(廿八年英政)氏は三四ヶ月以前より肺病に罹り千葉縣病院にて治療中の所本日十九日死亡

第19號・明治31年9月25日發行

石崎正治(廿八年政治)は久しく病氣の處去四日死亡

第22号・明治31年12月25日發行

⦿矢野米次郎中村高義樋口長次郎佐藤茂水沼規矩麿京口玄二柴田善一郎但田喜一郎等の諸氏は今回校友名簿調製に際し、本校より書状を送りたるに遺族より死亡の返報に接し鳩山校長より吊詞を發す實に悲痛の至りと云ふべし

(中村高義は第14號に記載があるのでは……?)

1899(明治32)年

第24號・明治32年2月25日發行

吉田友吉氏(廿六年英政)は昨年迄本校寄宿舍長勤務なりしが肺患の爲め此程郷里岩手に於て死去す其の人と爲りは次號追悼會記事を見て知るべし

第26號・明治32年4月27日發行

藤本智暘氏(三十一年文學)は本月六日郷里信州に於て逝去す痛惜の至りなり、

第29號・明治32年7月28日發行

澁谷瀏(廿八年文學得業)、黒川潮(三十年文學得業)今泉音吉(廿五年英行得業)三氏は疾病に罹り藥石效なく永眠す痛嘆の至なり

第32號・明治32年10月10日發行

伴定夫氏(二十一年政治得業)は肺患に罹り本月死亡す
柏金三氏(廿七年英政得業)は不慮の災にて死亡す

第33號・明治32年11月25日發行

加藤龜之助氏(三十二年邦政得業)は病氣死亡す

1900(明治33)年

第35号・明治33年1月25日發行

佐藤三郎氏(二十六院行政)は肺患に罹り十二月十七日死亡

第36號・明治33年2月25日發行

◎講師本多博士卒去 大審院判事獨逸法學博士本多康直氏は本校民事訴訟法の講座を屬任せらるゝ事茲に九ヶ年に亙り常に諄々學生を薫陶し本校法學部の爲め盡力せらるゝこと鮮なからず、昨年十一月頃より麻疹に罹り休養せられ舊臘平癒せられしが一月に至り左腕に腫物を發し順天堂に入り治療中なりしが藥石其效を奏せず去る一月廿九日歿せり、先生行年四十有三歳悲歎の至りと謂ふべし、超えて二月四日青山墓畔に神葬を以て葬る、本校よりは高田早苗氏を始め講師校友學生數多會葬したり、

第37號・明治33年3月25日發行

首藤次郎氏(三十年邦政)は永く病床に在りしか終に本月五日死亡し同七日青山墓地に葬る、本校よりは學監高田早苗氏を始め多數の校友會葬し田中幹事は鳩山會長の吊詞を代讀せり

第38號・明治33年4月25日發行

龜井茲寛氏(一年英政)は久しく肺患に罹りしが去三月二十四日永眠せらる

第39號・明治33年5月25日發行

志水令終氏(二十九年政治)は本年三月廿七日病死す痛悼の至なり

第24號・明治33年7月30日發行

賀來昌之(十八年法律)は永く精神病に罹り歸省療養中なりしが今回死亡せり悼哉

第43號・明治33年8月31日發行

春日仁一郎氏(廿三年法律)は昨年死去せりと悼哉
大久保餘所五郎氏(廿三年英語)は特に史學に通じ精神雜誌讀賣紙上等に執筆せられ其後井伊直弼の傳記編輯に從事せしが肺患に罹り八月十八日死去す悼哉

第45號・明治33年10月5日發行

工藤貫一郎氏(二十八年英語)は小田原海濱に於て海水浴の際過て溺死す悲哉
光岡威一郎氏(廿六年政治)は本校得業後實業學會及實業の日本に專ら力を效したるが過日死亡せり悼哉尚ほ同氏の親友増田義一氏の吊文を得たれば左に之を掲ぐ(吊文省略)

第47號・明治33年12月5日發行

木村省三氏(二十九年法律)日野圓乘(三十三年文學)二氏は病死す痛哭の至なり

1901(明治34)年

第51號・明治34年3月28日發行

細谷勇太郎氏(二十六年文學)は舊臘十二月廿九日病死す痛悼の至なり

第53號・明治34年5月25日發行

長克連氏(三十三年推選)は昨年男性に敍せられたりしが病氣の爲め本月十一日死亡せり校友會長よりは取敢ず例規の弔辭を送れるが痛哭の至りなり

第54號・明治34年6月25日發行

⦿桑木槌三郎氏(三十三年行政)は脚氣病に罹り療養中の所養生不叶五月下旬歸京の途旅店にて死亡す誠に痛哭の至なり

第56號・明治34年7月25日發行

⦿生形定之助氏(二十二年英學)愛知縣師範學校教諭の職にありしが腹膜炎に罹り死亡し七月九日郷里に於て葬儀執行せり痛哭の至りなり

第57號・明治34年8月25日發行

⦿校友訃音 靜岡教校友坪井正氏は三十年行政科を卒業し爾來郷里に歸りて專ら公共事業に盡力中なりしが去月病を得て終に永眠せられたり。右に付き專門學校々友會は例に依り氏の遺族に叮嚀なる吊詞を送れり。

第59號・明治34年9月30日發行

⦿岡村得五郎氏(二十六年行政)は久しく病氣療養中なりしが今回死亡せられ九月九日越後國頸城郡自宅に於て葬儀を營まる。痛悼の至りなり。會葬者は室孝次郎、保坂潤治、増田義一諸氏其の他親戚朋友甚だ多く、僧侶二十餘名の讀經あり。本校々友會長よりは吊詞を贈れり。

第60號・明治34年10月25日發行

⦿久保良平氏(二十三年政治)は病氣に罹り療養中の處養生叶はず曩きに死亡せりとの報に接し、校友會長よりは吊辭を贈りたるが、痛歎の至りなり

第61號・明治34年11月25日發行

⦿臼田甚八郎氏(二十七年政治)は病氣に罹り去月死去す。悼哉。

第63號・明治34年12月25日發行

⦿齋藤退藏氏(二十八年英政)は久しく肺患に罹りしが藥石效なく本月郷里弘前にて死亡せり。

1902(明治35)年

第65號・明治35年2月25日發行

⦿飯島市太郎氏(三十三年政治)は函館の客舍に於て脚氣病に罹り死亡す。悼哉。

第68號・明治35年5月25日發行

⦿田中久吾氏(二十七年文科)は豫て病氣中の所三月十二日郷里に於て死亡せり。痛歎の至なり。
⦿上村要藏氏(十八年法律)は辯護士の職にありしが病死せり惜むべし。

第69號・明治35年6月25日發行

⦿山田康次郎氏(三十二年法律)は久敷病氣に罹りしが六月十二日逝去せり。氏は卒業後辯護士試驗に及第し、郷里名古屋に於て開業し、すこぶる郷黨の信用厚く、有望の身なりしに中道志を齎して逝く悼みても餘りあり。
⦿前田又助氏(三十三年行政)も病氣の爲め郷里鹿兒島に於て逝去す、悲哉。
⦿生田盛惟氏(三十年行政)病氣の爲めに死去せらる、惜むべし。

第74號・明治35年9月25日發行

⦿久保妙三郎氏(二十三年政治)は八月三十一日死亡す。
⦿大野義智氏(二十六年文學)は八月7日病死す、右二氏遺族に校友會長より弔辭を送れり。

第75號・明治35年10月25日發行

白耳義皇后の崩殂 (記事略)
エミール、ゾラ氏逝く (記事略)

第76號・明治35年11月25日發行

◎詩人ベーレー氏逝く (記事略)
⦿講師谷口藍田翁の逝去 我國の碩儒として夙に名高き同氏は前週まで早稻田大學に學生を薫陶し意氣壯者を壓するの慨ありしが、去る十四日午後五時俄然腦充血に罹り八十一歳の高齡を以て遂に長逝せらる。斯學の爲め悲悼の至りと云ふべし。
⦿高松喜六氏(十八年法律)は久敷宿痾に罹りしが今回死去し十一月六日葬送せり、本校よりは高田學盟も會葬し、鳩山校友會長の吊辭を田中幹事代讀したり、悼むべきことなり。

第78號・明治35年12月25日發行

⦿野尻太三郎氏(廿二年政治)は永く福井縣會議員となりて公共の爲め盡瘁する所頗る多かりしが、病氣の爲め去る十一月終に死去せられたり。本校々友會よりは弔詞を送れり。
⦿土屋榮太郎氏(廿九年專修英語)は今春死去せらる、悲哉。
⦿小野塚志郎氏(丗四年政治)は去る十一月病死せり、悼惜の至に堪へず。本校々友會よりは吊詞を送れり。

1903(明治36)年

第79號・明治36年1月25日發行

⦿高山博士逝く (略・高山樗牛の記事)

第80號・明治36年2月25日發行

⦿高田博士嚴父の逝去 (略・高田早苗の父、高田貢平の記事)
⦿小宮山龍藏氏(丗四年推選)は、越佐新聞主筆たりしが、去る一月廿五日病死せらる、哀悼の至りに堪えず、校友會よりは直ちに弔詞を送りたり。

第81號・明治36年3月25日發行

⦿羽生顯親氏(舊講師)は、從來辯護士として其職を盡され居りしも去月遂に病死せらる、眞に痛惜の至りなり。

第82號・明治36年4月25日發行

⦿講師今井鐵太郎氏の逝去 (記事略)
⦿講師中川正信氏の逝去 (記事略)

第86號・明治36年6月25日發行

⦿下山逸男氏(丗四年英政)は昨年來日本鐵道會社に入り、大宮驛々長助役として精勵せられ居りしが、去月丗一日不慮の災難に遇ひ、不幸終に死去せらる、盖し職務の爲めに斃れしものと雖も、有爲の才を懷きて果敢なくも不歸の客となられし事眞に痛惜の至に堪へず、本校校友會よりは同氏實家に向け早速弔詞を送りたり。

第92號・明治36年10月25日發行

⦿三宅征次氏(三十年文)は豫て東京帝國大學哲學科在學中不幸二豎の冒す所となり神戸奧平野に靜養の所、終に去る五日逝去せられたり。痛悼の至りに堪へず。

第93號・明治36年11月25日發行

⦿廣瀬毅氏(三十年行)は十一月一日郷里神戸の自宅に死亡せられたり惜むべし。

1904(明治37)年

第96號・明治37年1月25日發行

⦿清水恆太朗氏(二十年邦政)は病氣にて靜養中の處、藥石效なく遂に一月四日逝去せられたり。痛悼の至りに堪へず。

第101號・明治37年6月1日發行

⦿田野橘次氏(三十一年政)は卒業後渡清して專ら支那問題を研究しそれより歐米を漫遊して歸朝するや、不幸にして病魔の襲ふ所となり、五月六日遂に鬼籍に上ぼらる。惜哉。五月十九日知人相會し神田福田屋に於て追悼會を行ひ、本校よりは服藤利夫氏校友會を代表して參會せられたり。

第105號・明治37年9月1日發行

⦿坪内鋭雄氏(三十二年文)陸軍豫備歩兵少尉として征露の軍に從はれしが、大石橋の激戰に於て戰死せられたり。哀悼の情に堪へず。
⦿小河義夫氏(三十三年政)仝じく陸軍歩兵中尉として從軍中大石橋に於て戰死せられたり。哀悼の至なり。
⦿西野義郎氏(三十二年行)征露の軍に從ひ遼東半島に上陸後不幸にして七月七日李家屯に於て病魔の襲ふ所となり、南瓦房店兵站病院に於て逝去せらる。痛惜の至りに堪へず。
⦿金子政吉氏(二十一年政)病氣の處藥石效なく七月九日逝去せられたり。哀ひ哉。

第109號・明治37年12月1日發行

⦿井上梧郎氏(三十四行)は出征以來旅順攻圍軍に加はり總攻撃の際不幸散彈にて負傷し金澤豫備病院に於て專ら治療中の所十一月十二日遂に逝去せらる。哀悼に堪へず。
⦿山岸與四郎氏(三十一法)は今春四月以來病氣の所藥石效なく遂に鬼籍に入らる。悼むべき哉。
⦿岩井義吉氏(二十八政)は不幸病魔の襲ふ所となり遂に不歸の客とならる。悲ひ哉、
⦿大東光三氏(三十五英政)は滿州征露の軍にありしが不幸病を得て遂に遼陽戰役兵站病院に於て病歿せらる。痛惜に堪へず。
⦿中山九萬氏(十八法)は農商務省より派遣せられ南米祕露國里馬府に滯留中病死せらる。哀悼に堪へず。

1905(明治38)年

第112號・明治38年1月1日發行

⦿石田政次郎氏(三四行)は病氣の所藥石效なく遂に逝去せらる。
⦿長尾政勝氏(三四行)も病魔の襲ふ所となり遂に鬼籍に入らる。
⦿奧住富士太郎氏(三〇政)も病氣の所遂に不歸の客とならる。
⦿宮地喜六氏(三六政)も病氣の所遂に長逝せらる。
⦿梅原鶴吉氏(三七法)も同斷孰れも痛悼に堪へず。

第113號・明治38年2月1日發行

⦿横田鍬太郎氏(十八年法)は病氣の所藥石其の效なく遂に郷里三重縣員辨郡大泉原村に於て逝去せらる。
⦿河邊熊次郎氏(三十一年法)も疾病の爲め久しく相州沼津に靜養中の所藥石效なく一月十八日同所に於て逝去せらる。いづれも悼惜の至りに堪へず。
⦿岸田光一氏(三十四年行)は出征以來旅順攻圍軍に加はり陸軍歩兵少尉の職にありて總攻撃の際遂に名譽の戰死を遂げらる。痛惜の至に堪へず。

第115號・明治38年3月1日發行

⦿尻高幹太郎氏(三十政)山形日報記者たりし同氏は病氣の所藥石其效なく遂に逝去せらる。
⦿今澤健氏(三十七法)も病氣の所遂に郷里甲府市の自宅に於て長逝せらる。
⦿平野高吉氏(二十二法)も郷里なる兵庫の自宅に於て病痾靜養中の所遂に鬼籍に入らる。孰れも痛惜の情に堪へず。

第116號・明治38年4月1日發行

⦿上田友司氏(三十五年政)は陸軍歩兵少尉として出征中の所奉天附近の大戰に於て名譽の戰死を遂げらる。哀悼の至也。
⦿安田一雄氏(三十四行)同上
⦿石坂厚嘉氏(英語一年在學生)同上

第118號・明治38年6月1日發行

⦿松崎慶太郎氏(三十三年文)は陸軍歩兵少尉として出征中なりしが遂に散彈に殪る。(功を以て中尉に進み勳六等功五級に敍せらる。)
⦿芳賀陶氏(三十四年行)仝上。

第119號・明治38年7月1日發行

⦿文學士山田一郎氏逝く (記事略)

第124號・明治38年10月1日發行

⦿財部元治郎氏(三十三準)は病氣の所藥石效なく九月廿六日大學病院に於て逝去せられ廿九日午後一時四谷鹽町笹寺に於て佛葬を營めり。氏は獨力にて通信社を興し爾來益々事業を擴張しつゝありしが不幸にして病魔に殪れたるは痛恨限りなし。

第125號・明治38年11月1日發行

⦿校友財部元治郎氏の逝去 (記事略)
⦿浦井牛之助氏(三十四政)急性脚氣病に罹り藥石效なく遂に不歸の客となれる。
⦿須田榮治氏(二十四年攻)病氣の所藥石效なく遂に逝去せり。
⦿高橋吉松氏(三十七法)病氣に罹り札幌區立札幌病院に於て治療中の所藥石效なく遂に逝去せり。

1906(明治39)年

第128號・明治39年1月1日發行

⦿家本藤一郎氏(三十三年法)は病氣の所藥石效なく遂に鬼籍に入る。
⦿臼井牧太郎氏(三十四年政準)同上。
⦿渡邊輔氏(三十三年政)同上。

第129號・明治39年2月1日發行

⦿鈴木省吾氏(二十四英行)病氣の所藥石效なく郷里千葉縣茂原町に於て逝去せり。

第130號・明治39年3月1日發行

⦿伊藤達一郎氏(三十八年大文)は病氣の所藥石效なく逝去せらる。
⦿齋藤一郎氏(三十四年文)同上。

第133號・明治39年5月1日發行

⦿横井講師の逝去 (略・横井時冬の記事)

第134號・明治39年6月1日發行

⦿本田代作氏(三十四政)は病氣の所藥石效なく遂に郷里大分に於て逝去せり。

第140號・明治39年10月1日發行

⦿廣田順吾氏(三十五英政)は本校卒業後米國に留學し、エール大學在學中、二豎に犯され、去八月十一日遂に藥石其效なく、萬里の異域に永眠せらる、痛恨の極みなり。

第141號・明治39年11月1日發行

⦿加藤正基氏(三十六行)は豫て病氣の處、藥石效なく遂に逝去せらる、哀悼の至に堪へず。
⦿宇佐美重好氏(三十八大法)は同上。
⦿久保田卯之助氏(三十八大文)は同上。
⦿皆川政之允氏(三十七英政)は十月二十二日急病にて死去せらる。痛歎の至なり。

1907(明治40)年以降