『早稻田學報』訃報データベース③大正時代前編(大正元年~大正5年)

明治時代分は下記記事參照。

ここでは、210號から262號まで、すなはち、1912(大正元)年から1916(大正5)年までの分について收載します。表記内容は底本に準據してゐます。但し、氏名については太字にしてゐます(底本では傍線や傍點が附されてゐます。)。
(半世紀以上昔の)『早稻田學報』を普通に讀みたい方につきましては、藏書のある圖書館に赴くか、『早稲田学報』記事データベースをご確認ください。


1912(大正元)年

第210號・大正元年8月10日發行

明治天皇陛下御崩御 (記事略)

第211號・大正元年9月10日發行

明治二十二年 英語普通科出身    高木勤
明治二十七年 英語政治科出身    池田子之吉
明治四十年  邦語政治科出身    河岡英男
明治四十三年 大學部政治科出身   堀江敏郎
明治十八年  邦語法律科出身    森谷三雄
明治二十二年 英語普通科出身    松村良藏
明治三十四年 文學科出身      佐藤徹
明治四十一年 歴史地理科出身    二見昇
明治四十二年 大學部政治經濟科出身 伊地知勝熊
明治三十八年 歴史地理科出身    百濟常三郎
明治二十五年 邦語法律家出身    鈴木直貴
右諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第214號・大正元年12月10日發行

明治四十二年 大學部商科出身      江口良悟
明治四十年  高等師範部國語漢文科出身 平野久豐
明治四十年  大學部政治經濟科出身   諫山昌樹
明治三十六年 邦語政治科出身      安部健雄
明治四十三年 大學部文學科出身     奧村健
明治二十三年 邦語政治科出身      成田宗雄
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へす、茲に謹んで弔意を表す

太田出版部員の逝去 十數年の久しき間本大學出版部員として勤勉せられたる太田武之助氏は十一月十六日突然腦重血症に罹られ同十八日藥石效なく遂に逝去せられ、同二十日淺草松清町清光寺に於いて葬儀を營み、高田部長市島主幹を始め主事及部員一同會葬せり。

氏家元副舍長の逝去 本大學寄宿舍副舍長として久しく舍生監督の事に勵精せられたる校友氏家正統氏は副舍長辭職の後ち、種々の企畫に精悍の才力を傾注し、企畫稍其の緒に就かんとするに際し、突然腹部腫物の難症に罹られ、大學病院に於いて切開治療中藥石效なく、遂に十一月廿三日逝去せられたり。

1913(大正2)年

第215號・大正2年1月10日發行

明治三十六年 邦語政治科出身 佐々木祐言
明治四十四年 大學部商科出身 吉川誠二
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず謹んで茲に弔意を表す

第216號・大正2年2月10日發行

中沼講師の逝去 明治四十年以來本大學高等豫科漢文及作文擔任講師として盡瘁せられたる中沼清藏氏は一月二十五日突然發病。爾後療養に手を盡されしも、藥石效なく同三十日遂に逝去せられ、二月三日午後一時より雜司ヶ谷齋場に於いて神葬を以て葬儀を營み、本大學より學長代理として田原高等豫科長を初め教授講師數十名及學生數百名會葬し、學生代表者松枝徳麿氏弔辭を朗讀せり。又他の會葬者中には第一高等學校教授鹽谷時敏氏も見受けたり。(後略)

明治三十六年 邦語政治科出身      佐々木祐言
明治四十四年 大學部商科出身      吉川誠二
明治四十二年 大學部文科出身      内藤龍三郎
明治四十年  高等師範部歴史地理科出身 加藤源治郎
明治四十年  大學部法律家出身     下垣房太郎
明治四十三年 大學部商科出身      牛膓廣吉
明治三十八年 大學部文科出身      樋口兼則
明治四十五年 大學部文科出身      岡本庫太郎
明治四十二年 大學部商科出身      奧山永一
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず謹んで茲に弔意を表す

第217號・大正2年3月10日發行

明治四十年  大學部商科出身 加集芳雄
明治二十七年 推選校友    島倉祐次郎
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず謹んで茲に弔意を表す

奠南山田喜之助氏逝く 本大學の前身東京專門學校創立の際、故岡山兼吉氏と共に法律部經營の中樞として力を致され、且つ身親ら親族法の講義を擔任して本校の教育事業に功勞尠からざりし奠南山田喜之助氏は本校辭任の後ち、松隈内閣には衆議院書記官長に任ぜられ、更に憲政黨内閣にあつては司法次官の榮職に就き、其の野に在るに當りては辯護士として專ら法律事務に從ふ。又少時碩儒藤澤南岳の門にありて秀才の名を專にしたる氏の文藻また儕輩を抽くものあり。されば一時政界に文壇に盛名を馳せ一代才人の名高かりしも、不幸病を得、輓近十年間は絶えず藥餌に親しみ、豪宕の氣を世事に寓するを得ざりしは、誠に痛惜に堪へざる所なりしが、近頃病勢俄に革り二月二十日遂に逝去せられたり。享年五十五。

第218號・大正2年4月10日發行

明治三十九年 大學部政治經濟科出身 村田清太郎
明治三十七年 邦語法律科出身    河田平太郎
明治四十年  邦語法律科出身    井清
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

朝河貫一氏夫人の逝去 校友米國エール大學教授朝河貫一氏夫人は米國の人、文學趣味に富み、貞淑の聞えありしが、先頃病氣藥石の效なく、遂に彼の地に於いて逝去せられたりとぞ。

第219號・大正2年5月10日發行

明治四十一年 大學部商科出身 宮内茂助
右訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第220號・大正2年6月10日發行

坪井博士の逝去
多年本學に於いて人類學及考古學教授を擔任勵精せられたる理學博士坪井正五郎氏は露都に於いて開催の萬國學士院會議に參列の爲め五月二十日同地に向け出發せられたるが、到着間もなく急性腹膜炎を發し、同地に於ける獨逸病院に入院せられ、其筋の命に依り在伯林下瀬軍醫正露都に急行する等療養手を盡されたるに拘らず、藥石效なく、五月二十六日遂に逝去せられたる趣、哀悼の至りに堪へず。尚ほ葬儀は遺骨到着の上執行の筈なりと云ふ。

明治四十四年 大學部文科出身      平野信司
明治二十八年 推選校友         渡部又左衞門
明治三十九年 高等師範部法制經濟科出身 星子林
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第221號・大正2年7月10日發行

學生監督部主任長永田碩次郎君逝く
君昨冬來疾に罹り、今春三月逗子に轉養せしに、五月三十一日午前九時忽ち長逝せり。遺骸は一旦其地にて荼毘に附し超えて六月二十日小石川小日向水道町服部坂福勝寺に葬儀を行ひ、北豐島郡雜司ヶ谷其葬墓地に埋葬せり。(後略)

故坪井博士の葬儀 (記事略)

明治四十一年 大學部商科出身     中原豐四郎
明治三十一年 邦語政治科出身     高木松次郎
明治四十五年 大學部政治科出身    角田龍平
明治三十九年 大學部政治科出身    岡田耀賢
明治四十一年 大學部商科出身     永田正英
明治三十六年 國語漢文及英文學科出身 阿部慶三郎
明治四十四年 大學部政治科出身    櫻井理行
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第222號・大正2年8月10日發行

有栖川宮威仁親王薨去 (記事略)

第223號・大正2年9月10日發行

明治三十六年 邦語行政科出身     石倉榮十郎
明治三十二年 邦語政治科出身     有馬頼多
明治三十七年 國語漢文及英文學科出身 直江政治
明治四十三年 大學部商科出身     佐藤千吉
明治四十二年 同上          酒井繁雄
明治四十年  高等師範部英語科出身  熊谷乙衞
明治二十三年 邦語法律科出身     谷本政久
明治四十年  同上          大森源吾
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

前評議員齋藤庫造氏逝去
(前略)君近者中央政界に志あり、之れが準備に着手し、大に爲すあらんとするに際し、偶々二豎の犯す所となり、遂に起たず、空しく雄心を齎らして遠逝す。悼むべき哉。享年四十二。

第224號・大正2年10月10日發行

明治四十三年 大學部政治經濟科出身 北野直一
明治三十年  邦語法律科出身    根本謹一郎
明治四十四年 大學部商科出身    木暮周作
明治四十一年 推選校友       志田林之助
明治三十八年 大學部文學科出身   守屋保
明治三十二年 英語政治科出身    中村寅次郎
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第226號・大正2年12月10日發行

明治三十六年 邦語行政科出身      井上安俊
明治四十年  高等師範部法制經濟科出身 谷内愛次郎
明治三十八年 大學部文科出身      後藤卓二
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

1914(大正3)年

第228號・大正3年2月10日發行

校友栗山早稻田實業學校幹事の逝去
明治三十年本大學邦語法律科卒業の後ち本大學出版部編輯員、寄宿舍舍長、副幹事、學長室主事兼金部主事等を歴て明治四十四年早稻田實業學校幹事に轉任以來鋭意同校の發展に盡瘁し居られたる栗山精一氏は舊臘十日出校の準備中、午前八時突然腦溢血に罹り、遂に一言を發するに至らずして急死せられたるが、其葬儀は同月十四日午後一時自宅出棺、神樂坂上光照寺に於て佛式により執行せられたり。(後略)

校友岡由己氏の遭難死亡 明治四十一年大學部商科卒業の同氏は、卒業後馬場先門前なる紐育生命保險會社員たりしが、一月五日駿河灣沖に於いて沈沒したる駿河灣汽船會社所有汽船愛鷹丸に乘合せ居り、遭難死亡せられたり。可悼哉。

明治四十四年 大學部商科出身 土志田哲
明治四十年  邦語政治科出身 田中通三
明治三十年  文學科出身   中野小三郎
明治四十三年 推選校友    山崎淳一郎
明治四十二年 大學部文科出身 高橋卯之助
明治四十五年 大學部商科出身 一色光太郎
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第229號・大正3年3月10日發行

明治四十年  大學部商科出身 坂井孝太郎
明治三十七年 邦語法律科出身 清信友衞
明示四十一年 大學部商科出身 渡邊隼一
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

教授副島義一氏嚴父の逝去 二月一日郷里佐賀に於いて逝去せられ、
講師宮崎虎一氏令閨の逝去 二月十二日午後三時青山齋場に於いて葬儀執行せられ、
教授平沼淑郎氏嚴父の逝去 二月十九日逝去、同二十二日午後二時小石川傳通院に於いて葬儀執行せられ、
教授山岸光宣氏嚴父の逝去 二月二十日郷里高田市に於いて逝去せられたるに依り、同僚一同より各香資を贈り弔意を表したり。

第230號・大正3年4月10日發行

明治二十一年 邦語政治科出身 廣田三郎
右訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第231號・大正3年5月10日發行

 博愛仁慈坤徳いや高くましまし、吾等臣民の仰慕措く能はざりし、 皇太后陛下には三月來御違例に渡らせられ、六千萬臣民の赤誠以て、其の御回春を祷り奉れる甲斐もなく、四月十一日午前二時十分遂に崩御し給へり。哀通何ぞ堪へん。
 伏して惟るに 陛下、外、謙虚和順にして、内、聰󠄃慧嚴毅なる天資を以て 先帝陛下の盛徳大業に内助あらせらるゝ四十有餘年其の間、教化農桑の勸奬より慈善救恤の事に至るまで、大御心を注がせらるゝ仁風慈雨、其の惠澤する所窮りなく、洵に六千萬赤子敬慕の中心にあらせ給ひしに 先帝陛下御登遐あらせ給ひて未だ二周年ならざる今日 今上陛下御即位大典の盛儀をも臠せられず、夙くも先帝陛下の御跡を追ひて昇遐し給ひぬ。嗚呼哀哉。

明治四十三年 大學部商科出身     磯永昌祐
明治三十九年 專門部政治經濟學科出身 元吉順三郎
明治二十五年 邦語政治科       加賀美幹次郎
明治三十九年 大學部政治科出身    早田篤
明治十七年  邦語法律科出身     中島彌門太
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第232號・大正3年6月10日發行

御大喪儀奉送 (記事略)

明治四十五年 專門部政治經濟科出身 糀谷増藏
明治三十六年 史學科出身      阿部全鼎
明治四十二年 專門部政治經濟科出身 梅澤重平
明治四十五年 大學部商科出身    丹下敬之
明治四十四年 同上         上村宏
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第233號・大正3年7月10日發行

明治二十年  邦語政治科出身 下山千丈
明治四十一年 大學部文科出身 磯義雄
明治四十四年 大學部商科出身 島田幸有
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第236號・大正3年10月15日發行

明治四十五年 大學部文科出身    杉谷康之助
明治三十九年 專門部法律科出身   早川榮次郎
明治三十二年 英語政治科出身    中西重太郎
明治三十九年 大學部法學科出身   伊橋正一
明治三十九年 專門部政治經濟科出身 安齋暢
明治四十五年 大學部商科出身    神山章
大正二年   大學部文科出身    神徳楳堂
明治二十八年 邦語政治科出身    船田弘道
明治三十四年 邦語政治科出身    並川喜三郎
明治四十一年 歴史地理科出身    歌川貞孝 
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第237號・大正3年11月15日發行

田原高等豫科長の逝去
本大學維持員高等豫科長田原榮氏今夏七月末不圖病を得前田校醫の投藥效を奏し八月に入りて稍々輕快水戸大洗其の他に轉地療養せられたりしが、病勢兎角思はしからず、歸京後衰弱頓に加はると共に病症亦大に警戒を要すべきものあり、仍て帝國大學醫院入澤内科に入り只管力められしも、病勢遂に快復すべからず、十月十八日午前六時溘焉として遠逝せられたり。哀悼何ぞ堪へん。享年五十七。(後略)

第238號・大正3年12月10日發行

明治四十五年 專門部政治經濟科出身 木村喜一郎
明治三十八年 大學部政治經濟科出身 横尾簡次
右兩氏の訃報に接し哀悼の至りに堪えず茲に謹んで弔意を表す

1915(大正4)年

第239號・大正4年1月10日發行

明治四十三年 專門部法律科出身   石井芳太郎
明治十九年  邦語法律科出身    松田正定
明治四十二年 高等師範部英語科出身 沼田善次
明治三十八年 專門部政治經濟科出身 石割久次
明治四十一年 大學部文學科出身   一二三仙太郎
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第241號・大正4年3月10日發行

牧野教授の逝去 明治四十一年以來本大學理工科電氣科主任として鋭意盡瘁せられたる教授牧野賢吾氏は昨夏以來病を得て、鎌倉に靜養し居られるが漸次快方に向はれ、初秋の頃、居を郷里に近き岡山市連島町の海濱に移し、專ら療養に務められしが、經過次第に不良に赴き、本年二月一日病革まり、遂に溘然遠逝せらる。享年僅に三十有九、誠に哀悼の至りに堪へざるなり。(後略)

上田評議員の逝去 本大學評議員小樽新聞社長上田重良氏は政況視察の爲め上京中の處、二月二日突然急性肺炎に罹り赤十字病院に入院、之れが治療に努められしが、五日病勢急變し午後八時十五分遂に遠逝せられたり。哀悼の至りに堪へず。(後略)

明治四十四年 大學部商科出身      山田幸三郎
大正二年   同上           宮原堅矣
大正二年   同上           濱田爲四郎
明治三十四年 英語政治科出身      石田俊亮
明治二十五年 英語法律科出身      前川九萬人
明治四十三年 專門部法律科出身     原麟次
明治四十四年 大學部商科出身      齋藤金治
明治四十五年 大學部商科出身      川島卯一郎
明治三十九年 專門部法律科出身     荻原馬太郎
明治三十二年 邦語法律科出身      松原秀勳
明治二十八年 英語政治科出身      佐田熊彦
明治四十一年 高等師範部國語漢文科出身 桂敬嗣
明治四十二年 專門部政治經濟科出身   三浦篤
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

早速評議員の逝去 評議員早速整爾氏夫人龍子は豫て病氣の處藥石效なく二月十七日午前六時遂に郷里廣島に於て逝去せられたり。
宮井教授母堂の逝去 教授宮井安吉氏母堂周子刀自は永々病氣の處藥石效なく遂に二月十四日午前八時逝去せられ、同十六日午後三時本郷區駒込蓬莱町連光寺に於いて佛式を以て葬儀を營みたり。
佐野講師夫人の逝去 理工科講師佐野志郎氏夫人その子女史(東京音樂學校助教授にしてヴァイオリンの名手)は面疔を患ひ順天堂病院に入院療養中なりし處藥石效なく遂に二月十日午前十一時遂に遠逝せられ、同十四日染井墓地に於いて葬儀を執行せられたり。
校友岡田庄四郎氏の逝去 明治十八年邦語政治科卒業の同氏は爾來松本市會議員、同商業會議所書記長として多年同市政に盡瘁し居られしが、舊臘より重患に罹り、本郷順天堂病院に入院加療中の處、養生不叶遂に逝去せられたるは痛惜の至りなり。(後略)

第248號・大正4年10月10日發行

藤山教授母堂の逝去 教授藤山治一氏母堂絹子刀自は七月三十日侯爵邸に於いて逝去せられ、八月三日午前八時半本郷駒込蓬莱町高林寺に於て葬儀を營まれたるが、刀自藤山家に嫁ぎて第三子を擧げられたる折しも、藩主鍋島家の姫君今の前田侯爵母堂朗子の方の乳母として主家に仕ふること十二年、後ち朗子姫の前田家に嫁せらるゝや、御附きとして從はれ、同家に仕ふること三十四年の久しきに亙りて忠勤を盡され、今春日の稱あり。乃ち逝去前三日、七月廿八日東京府知事より忠節襃賞の賞状を受けらる。享年七十二。
原口講師夫人の逝去 講師原口竹次郎氏夫人、女子大學教授米國哲學博士鶴子女史は腸結核症にて療養中の處、藥石效なく九月廿六日午前一時遂に逝去。同廿八日午後三時本郷教育に於いて葬儀執行せられたり。享年三十歳。(後略)
服部教授嚴父の逝去 教授服部文四郎氏嚴父豫て病氣療養中の處、藥石效なく遂に十月四日郷里滋賀縣神崎郡旭村山本に於いて逝去せられたり。

第249號・大正4年11月10日發行

明治四十三年 專門部政治經濟科出身   山田銀次郎
明治二十四年 邦語政治科出身      菊地虎太郎
明治三十二年 英語政治科出身      廣瀬宇一郎
明治四十四年 大學部政治經濟科出身   柴田英尚
明治四十二年 專門部政治經濟科出身   住谷良次郎
明治四十五年 大學部法學科出身     清水昇之助
明治二十九年 文學科出身        吉田博
明治二十六年 文學科出身        高木正雄
明治四十一年 大學部文學科出身     館善住
明治四十四年 大學部商科出身      日比重厚
明治四十五年 大學部商科出身      平岡敬一
明治四十二年 高等師範部英語科出身   藤田善作
明治四十二年 高等師範部歴史地理科出身 林工一
大正三年   推選校友         沼川福太
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

◉故山田一郎氏追悼會 (記事略)

◉故田原科長追悼會 (記事略)

第250號・大正4年12月10日發行

明治四十三年 推選校友       平口機一郎
明治四十三年 大學部商科出身    圓尾實
明治二十年  邦語政治科出身    南部剛一
大正四年   專門部政治經濟科出身 小原正雄
明治四十四年 專門部政治經濟科出身 友野秀次
明治二十年  英語本科出身     鶴田喜一郎
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

1916(大正5)年

第251號・大正5年1月10日發行

大正二年   專門部政治經濟科生身 坪井剛
明治四十三年 專門部政治經濟科出身 加藤虎雄
明治四十一年 大學部文學科出身   漆岡博
明治四十五年 同上出身       緑川忠吉
明治四十五年 大學部商科出身    山下元太郎
明治四十年  同上出身       森岡守一
明治四十三年 同上出身       植木寅次
明治四十二年 同上出身       長岡網吉
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

桂井講師の逝去
本大學講師桂井當之助氏舊臘腸チブスに罹られ、去月丗日午後十時遂に永眠せられた。(後略)

巽舊講師の逝去 曾て本大學講師として極東外交史を講ぜられ、又日露戰史の著等に依りて極東外構通の名ありたる巽來次郎氏は嚮に渡支爲す所あらんとして種々事業の計畫中不幸にして病を獲て歸朝。京都に於て療養の處去十月廿三日遂に逝去。十二月一日午後一時青山齋場に於いて葬儀執行せられたり。
大隈總長令姉の逝去 大隈總長令姉相良妙子刀自は豫て病氣療養中の處、去十一月十六日遂に逝去。同廿一日午後二時谷中齋場に於いて佛式にて葬儀執行せられたるが、高田文相箕浦遞相、武富藏相、河野農相、江木内閣書記官長、貴衆兩議員、村井吉兵衞、服部金太郎、神田鐳藏氏等約五百名の會葬あり。いと莊嚴に執り行はれたり。

第252號・大正5年2月10日發行

明治四十二年 高等師範部歴史地理科出身 伊原純司
明治二十四年 邦語政治科出身      田崎清宇
大正三年   大學部商科出身      宇都宮誘
明治三十二年 英語政治科出身      廣瀬宇一郎
明治四十年  大學部商科出身      岩切緑
明治四十年  大學部政治經濟科出身   板部武司
明治二十三年 英語普通科出身      牧卷次郎
明治四十四年 大學部商科出身      原田治郎
明治三十八年 專門部政治經濟科出身   神林周次郎
明治四十三年 專門部政治經濟科出身   淺沼傳
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

一戸講師母堂の逝去 講師理學博士一戸直藏氏母堂、一月十八日逝去せられたり。
中西講師嚴父の逝去 講師法學士中西用徳氏嚴父、舊臘逝去せられたり。
長田舊講師の逝去 舊講師秋壽長田忠一氏は昨夏南洋方面に旅行し、病を得て九月中旬歸朝、播州垂水に於いて病氣療養中の處、十二月二十四日午後卒然腦溢血の爲め遂に逝去せられ、遺骨一月九日東京驛着、同午前十時半谷中天王寺に於いて葬儀を執行せられたり。
村井基金管理委員夫人の逝去 本大學基金管理委員村井吉兵衞氏夫人宇野刀自豫て病氣の處、藥石效なく遂に一月一日午後四時逝去せられ、同九日午前十時淺草本願寺別院に於いて佛式を以て莊嚴に執行せられたり。

第253號・大正5年3月10日發行

明治三十六年 英語政治科出身    滿岡亨太郎
明治三十六年 英語政治科出身    關谷金一
明治四十四年 專門部政治經濟科出身 内田兼太郎
明治四十三年 大學部法律科出身   宇賀彦太郎
明治二十九年 邦語法律科出身    岩田保治
明治四十四年 大學部商科出身    人見浩
大正三年   大學部商科出身    鎌田精
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

副島教授母堂の逝去 教授副島義一氏母堂郷里佐賀に於て逝去せられたり。
中村幹事母堂の逝去 幹事中村康之助氏母堂郷里福井縣大野郡羽矢町に於いて逝去せられたり。
市村講師母堂の逝去 講師市村瓚次郎氏母堂郷里茨城縣北條町に於て逝去せられたり。
遠藤教授嚴君の逝去 教授文學博士遠藤隆吉氏嚴君は二月廿三日郷里前橋市に於いて逝去せられたり。

第254號・大正5年4月10日發行

明治三十八年 專門部政治經濟科出身 櫻田兼三郎
明治二十二年 邦語政治科出身    堀越寛介
明治四十年  大學部政治經濟科出身 竹山強平
明治三十七年 英語政治科出身    草川滿
明治四十四年 大學部法學科出身   中川挺三
大正三年   大學部法學科出身   瀬戸保英
大正三年   大學部文學科出身   辻本安太郎
明治四十四年 大學部商科出身    早川仲次郎
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

岸本教授母堂の逝去 教授岸本能武太氏母堂病氣の處、遂に逝去せられたり。

第256號・大正5年6月10日發行

大正二年   大學部文學科出身 増田了澄
明治四十五年 大學部理工科出身 廣瀬一郎
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第257號・大正5年7月10日發行

明治三十九年 專門部政治經濟科出身 石塚方之助
大正三年   專門部政治經濟科出身 眞野孚
明治二十六年 邦語政治科出身    細野猪太郎
明治三十八年 大學部政治經濟科出身 安井作三
明治四十四年 專門部政治經濟科出身 天野竹治
明治三十八年 大學部法學科出身   岩堂雄平
明治四十五年 大學部文學科出身   中倉治
明治四十二年 大學部文學科出身   藪與太郎
明治四十一年 大學部商科出身    高木弘
明治四十年  大學部商科出身    板東琥一郎
大正三年   大學部商科出身    竹野長三郎
明治四十三年 大學部商科出身    西尾憲吉
明治四十一年 推選校友       佐藤周平
大正三年   推選校友       白勢友彌
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第258號・大正5年8月10日發行

故マツグレガー氏追悼會
舊早稻田大學講師ゼー、エム、マツグレガー氏が昨年の正月、倫敦に於て義勇兵として從軍せられたる報知が我早稻田に達した時は、氏の舊友は皆な其の擧を壯とし、日本刀一振を贈つたが、其の後氏は英本國の各所に於て訓練を積み、遂に昨年の十一月の始に戰線に向はれる事となつた。佛國の或る地點に於て活動して居ると云ふ事は其後東京の友人に通知があつた。併し五月の終りに氏の妹君からの悲報が來た――氏が三月十日佛國の或る地點に於て、名譽の戰死を遂げられた知らせであつた。此の悲報に接して氏の舊友は相計りて早稻田大學恩賜館に於て六月三日に追悼會を開いた。(後略)

故原亮十郎氏の遺言寄附
(前略)氏は日本橋金港堂原亮三郎氏の十男にして志文學に篤く、本大學大學部文學科在學中も勤勉儕輩に超ゆる者あり、他の矚目する所なりしが、不幸卒業間際に病を得て起たず、六月廿四日遂に長逝せり。享年二十六歳。痛惜の至りなり。

本間九藏氏追悼會
大學部政治經濟學科第七回卒業生本間九藏氏は曩に佛國留學の目的を以て米國を經て英國に航し、暫時倫敦に滯在の上、去る三月二十四日英國汽船サセツクス號に塔じて佛國に航行中獨逸潛航艇の襲撃に遭ひ、該船の沈沒と共に行方不明となれる旨の報知あり、(前號記載の通り)外務省他の手を通じて種々搜査に努めしも、諸方面よりの報道悉く非に、遂に生存の望絶無となれるより、超えて五月二十四日、恰も遭難後二個月の命日に當れるより、生前氏が特に眷顧を受けたる三浦梧樓子、頭山滿翁、古島一雄氏其の他二三知己發起となり下谷區谷中全生庵に追悼餓鬼會を施行せり。(後略)

第259號・大正5年9月10日發行

明治三十九年 專門部政治經濟科出身 井上東作
大正三年   專門部政治經濟科出身 尾形林藏
明治四十二年 大學部法學科出身   三浦伊勢次郎
明治三十六年 大學部文學科出身   天野壽太郎
明治三十年  文學科出身      大西煕
明治四十年  大學部商科出身    武内節次郎
明治四十四年 大學部商科出身    高田敬治
明治四十年  高等師範部英語科出身 中島辰雄
明治二十年  英語本科出身     丁吉治
明治三十五年 推選校友       館岡重四郎
明治四十二年 推選校友       大串喜好
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第260號・大正5年10月10日發行

大正二年   大學部政治經濟科出身 本多哲太郎
明治三十五年 英語政治科出身    大岡保
明治三十五年 邦語行政科出身    澤己三尾
明治二十三年 邦語法律科出身    橋本保吉
明治三十八年 專門部法律科出身   横川増太郎
明治四十二年 大學部文學科出身   大平良平
大正四年   大學部理工科出身   形田卯傳次
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第261號・大正5年11月10日發行

明治四十一年 專門部政治經濟科出身 志村正
大正三年   專門部政治經濟科出身 小笠原正雄
明治二十五年 英語政治科出身    竹田房太郎
明治三十年  邦語法律科出身    中原(元、臼井)三千壽
明治三十九年 專門部法律科出身   渡邊文三
明治四十二年 大學部文學科出身   大平良平
明治四十年  大學部文學科出身   東俊造
明治四十一年 推選校友       大越柔郎
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す

第262號・大正5年12月10日發行

明治四十年 大學部文學科出身 東俊造
大正四年  大學部商科出身  虎丘光治郎
大正二年  大學部理工科出身 杉浦義雄
大正五年  大學部理工科出身 小谷喬
 右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す