『早稻田學報』訃報データベース②明治40年代編
説明を兼ねた前書きは、前編にあたる記事に任せます。
ここでは、143號から209號まで、すなはち、1907(明治40)年から1912(明治45)年までの分について收載します。表記内容は底本に準據してゐます。但し、氏名については太字にしてゐます(底本では傍線や傍點が附されてゐます。)。
(半世紀以上昔の)『早稻田學報』を普通に讀みたい方につきましては、藏書のある圖書館に赴くか、『早稲田学報』記事データベースをご確認ください。
1907(明治40)年
第144號・明治40年2月1日發行
⦿朝倉蕡太氏(三八国)は予て病気の処薬石効を奏せず、四十年一月十一日逝去せり痛恨の極みなり。
第146號・明治40年4月1日發行
⦿山崎吉三氏(二九英政)は永く英國サクラメント府に在りて、桑港の日米新聞櫻府支社主任として、大に在留同胞の爲めに盡瘁せられたりしが、去る二月一日ロサンジルス府に於て卒中にて死去せられたり、惜むべきの至りなり。
第148號・明治40年6月1日發行
⦿河井英三氏(三九國)は病氣の處藥石效を奏せず遂に逝去せらる痛悼の極みなり。
第149號・明治40年7月1日發行
今回伯爵銅像建設資金募集の爲め校友全體へ勸誘状を出したるに左記の十氏は昨冬以來病氣の爲め既に永眠せられたりと遺族其他の知人より報道ありたり痛恨に堪へず。
⦿西澤才次郎氏(一八法)
⦿齋藤爲治氏(二四政)
⦿尾花繁太郎氏(三一政)
⦿岡本晴氏(三五行)
⦿草間猶種氏(三五英政)
⦿黒瀬汎氏(三七法)
⦿山本鍬次郎氏(三七法)
⦿白石知久氏(三八法)
⦿立原彝次郎氏(三八史)
⦿武藤清氏(三八歴)
第150號・明治40年8月1日發行
⦿佐々木林兵衞氏(三六政)は病氣加療中の處、藥石效なく、遂に永眠せらる痛惜に堪へず。
第152號・明治40年10月1日發行
●西谷教邦氏(三二英)は病氣の處藥石效なく遂に去八月二十一日清國天津井上病院に入院中永眠せらる痛惜に堪へず
●沖野辰之助氏(三〇文)は永々病氣の處加療效を奏せず去九月十一日午後六時四十分郷里兵庫縣城崎郡大磯村に於て逝去せらる哀悼の極みなり
●綱島榮一郎氏(二八文)は久敷重患に罹り數年間殆んど病床に在り毎に國手の懇切なる治療を受けつゝ深慮なる思想を公にし精神界、文學界に貢獻せられしもの多大なりしが藥石其效なく去る九月十四日夜十二時遂に永眠せらる痛恨の至りに堪えず
第154號・明治40年12月1日發行
⦿校友手島知徳氏の永眠 (記事省略)
⦿横山確氏(三八大政)は米國シヤートル滯留中二豎に侵され藥石效なく遂に去八月廿五日同地病院に於て客死せらる痛惜に堪へさるなり
⦿高橋知徳氏(三一政)は病氣の處藥石其效を奏せず去十月十三日永眠せられたり哀悼の極みなり
⦿太田俊氏(三七哲)は永々病氣の處藥石效なく去十月十四日郷里に於て逝去せらる痛恨の至りに堪へず
⦿岡野欽二氏(三七史)は病氣の處此程永眠せらる痛恨の極みなり
⦿松尾清之助氏(三八大政)は右同上痛惜の至りに堪へず
⦿新發田男也氏(四〇大文)は病氣の處藥石效なく遂に逝去せらる痛惜の至りに堪へす
⦿櫻井順作氏(二二普)は右同上
⦿行形勝四郎氏(三五政)は右同上
⦿小泉清氏(三七政)は右同上
⦿水野敬三氏(三八大法)は右同上
1908(明治41)年
第156號・明治41年2月1日發行
⦿長谷川喜夫氏(二七法)は去三十二年外務書記生と爲り昨年五月都築大使に隨行して萬國平和會議に參列し其任務を了へて歸朝の途次不幸二豎の侵す所となり客冬十八日新嘉坡病院に於て永眠せり春秋に富たる前途有望の士を空しく異域に喪ひたるは痛恨の至りに堪へざるなり
第157號・明治41年3月1日發行
⦿吉村清見氏(三二政)は阪神電氣鐵道株式會社創立當時より入社し居られるが不幸二豎犯す所なり去月十八日神戸に於て逝去せらる痛惜に堪へざるなり
第158號・明治41年4月5日發行
⦿高池廣造氏(四〇大文)は病氣の處藥名效を奏せず去二月二十六日逝去せらる痛歎の至りに堪へず
第159號・明治41年5月5日發行
⦿西郷儀一郎氏(三一政)は昨年來病氣の處藥石效を奏せず前途有爲の資を懷き四月六日郷里に於て遂に逝去せらる哀悼の極みなり、
第160號・明治41年6月5日發行
⦿戢 翼翬氏(三八推)は清國民政部主事として令名あり將來大に有爲の資を懷かれし秀才なりしが今回不幸二豎の犯す處となり漢口同仁病院に於て逝去せらる痛嘆に堪えす
⦿佐藤 季光氏(四〇大政)は平素學究に忠實にして其成績大に見るへきものあり同人の囑目不尠しが春來重患に罹り藥石其效を奏せす四月二十七日歸里名古屋市長松病院に於て逝去せらる哀悼の極みなり
⦿小成 弓次氏(三九政)は春秋に富み前途有爲の材なりしが此頃重患に罹り駿河臺高田病院入院中藥石效なく去五月七日遂に逝去せらる痛嘆に堪えず
第161號・明治41年7月5日發行
⦿能勢津土二氏(一六英政)は内國通運會社深川支店長として令聞あり前途有爲の人なりしも去月中病魔の犯す所となり遂に不歸の客となられたり痛恨の至りに堪へす
⦿吉原四郎氏(三四政)は卒業後遠く滿州及び蒙古を踏破し三十七八年の戰役には參謀本部の總囑を受け特別任務に服し貢獻する所多く戰後歸朝して福岡に至り九州各地に金銀及石炭鑛の經營を創め其業半途にして不幸二豎の犯す所となり去る六五遂に逝去せらる痛惜に堪へず
⦿城重雄氏(二六英政)は曾て宮崎縣選出代議士として立法に參與し戚は縣治の改善に貢獻する所不尠前途大に有爲の政治家を以て目せられたるも惜哉不幸病魔の犯す所となり去六月十九第郷里に於て逝去せらる痛恨の極みなり
⦿國木田哲夫氏(三七推)は文界の一明星として近事畫報に新古文林に其異彩を發揮して斯界の一角に霸を稱へ將來の成功圖り知るべからとるものありしが不幸不治の疾患に罹り空しく世人の期待に背きて復た起つ能はす遂不去六月二十三日相州茅ヶ崎の別莊に於て喀血して逝けり痛歎に堪へざるなり
⦿小川覺太郎氏(一八政)は卒業後郷里愛知縣中島郡起村に歸り祖父の業を繼ぎて經營する所不尠郷呂の權重する所多かりしも不幸病魔の犯す所となり過般遂に逝去せられたりとの報に捷す哀悼の極みきり
⦿小宮山龍藏氏(三四推)は越佐新聞主筆として令聞あり多年椽大の筆を揮つて民人の啓發に努め國家貢獻する所多大なりしも過般病を得て遂に逝去せらる痛恨に堪へざるなり
⦿井上豹太郎氏(二一英政)は京都府久世郡宇治町の名家に生れ幼より英才人に優れ嘗て本校に在るや常に首席を占められ卒業後は本校の講師となり尋で京都府會議員に擧げられ多年公共の事業に盡粹し又實業方面に指を染め近來滿州に於て大連游陸運輸公司を創始し着々事業の發展を爲すの域に進みたるに惜むべし二豎の爲めに冒され藥石效なく六月廿七日午後九時遂に郷里に永眠せらる哀悼に堪へず
⦿西江次郎氏(三六英政)は岡山縣川上郡成羽町の人にして人と爲り眞率卒業後直に本校出版部商科講義録の主任として盡粹せられ克く同科今日の隆盛を見るに至りしは氏の力多きに居ると謂はさる可らす然るに今次猝かに病を獲藥石效なく遂に六月三十日駿河臺高田病院に於て永眠せらる氏の如き壯年氣鋭前途有望の資を以て早逝せしは痛歎の極みとす
第162號・明治41年8月5日發行
⦿高橋三一氏(二四法)は豫て病氣の處藥石效なく遂に死去せられたるは痛惜の至りなり
⦿井上英一氏(四〇法制)は昨夏以來病床に就き醫療に勤めしも遂に其效なく郷里山口に於て六月下旬永眠せられたるは哀悼の至りに堪へず
第163號・明治41年9月5日發行
⦿大野敬一氏(四〇法)は急性腹膜炎に罹り八月廿一日永眠せるは痛惜の極にして同二十三日郷里埼玉縣比企郡西吉見村自宅に於て葬儀を營まれ田中幹事は同郷の好を以て會葬し高田校友會々長の吊辭を代讀せり
⦿倉井利八氏(三二政)は本校卒業後椽大の筆を載せて下野言論界に投じ下野新聞の今日あるを致せしに預かつて力あり近時同主筆として益其腕を奪ひ將來人の囑望せし處なるが惜むべし天年を借さず二豎の爲めに犯され去八月中旬逝去せられたり。
⦿佐藤善長氏(前庶務課長)は本校創立以來校務に從事せられ爾來貳拾年の久しきに及び先年退職されしが學校は之を遇するに年金を以て餘年を送るに安からしめしが氏は腦患に罹り健康舊の如くならず常に同人間の注意する處なりき、然るに去月初旬より病革まり同月廿二日に永眠され廿四日午前八時駒込吉祥寺に於て葬送式あり、左の如き高田學長の吊辭を田中幹事代讀せられたり、早稻田大學校は造花祭葬了として金品を贈呈せりと云ふ(吊辭省略)
第164號・明治41年10月5日發行
⦿國分勘治氏(二三行)は郷里に在りて身親しく村治に參與し經營施設する所多く歸呂の推重尠からざりしも不幸二豎の犯す所となり藥石效を奏せず此程遂に易簀せらる痛恨の極みなり
⦿山内鹿之輔氏(三四英政)は久々病氣にて郷里山口縣防府に加療中の處藥石效なく前途有爲の資を懷き遂に溘然として逝かる哀悼の至りに堪へす
第165號・明治41年11月5日發行
⦿寺田運太氏(三八法)は卒業後决意するところはり朝鮮に遊び資を投して經營苦心大に爲すところあらんとせしが不幸病魔の犯す所となり藥石效なく郷里愛媛縣に於て遂に黄泉の客となれり痛恨の至りなり
⦿松岡忠義氏(三〇政)は卒業後東洋經濟新報に筆を採り拮据勤勉同社に重きを爲し、人と爲り温厚謙讓懷古君子の風あり人と交る信愛同上の念に篤く、又文爲に論理精細引證該博自ら一家を成す、氏か事を調査するに該りてその獨得の技能は遺憾なく發揮せられ氏の如きは常世得難きの材なり、氏先に病を得て醫藥頻りに其方を盡せしも快癒意の如くならず、病勢次第に重く、藥石遂に效なく十月十一日午後二時を以て溘焉として永眠せり哀悼何者か之に如かん嗚呼氏の如き前途有望の士を失ふ何等の不幸ぞや
⦿圓城寺清氏(二五政)は本大學評議員として永く校務を翼贊せられたり氏は佐賀縣小城の出身にして小城は古來儒者の産地たり、幼にして磊落奇偉其の佐賀中學に學ふや已に文章と言議を以て儕輩に卓出し、來りて東京專門學校に入るや益々其の長所を修養され業を終へて直ちに筆を報知社、改進黨々報に執り後朝報社に入り社論を擔當し有力なる財政の批評家として野黨連衝の急先鋒として其の他青年政治家の企擧に關係せさるなく後進の扶腋には滿腔の好意を以て迎へ懇切到らさるなく氏の如き將來を有する青年政治家として囑望されし者は稀なり、今や病を得て旬日ならすして遂に十月廿一日不歸の客となる哀悼痛恨の極なり同廿五日青山共同墓地に神葬され會葬者の多き名士の多き稀に見る處にし本大學々長は本校を代表して弔辭を朗讀され校友會を亦弔辭を呈せり
第166號・明治41年12月5日發行
⦿川崎定次郎氏(三五英政)は卒業後大阪毎日新聞社に入り後ち偶々日露の戰役に際し陸軍歩兵少尉として旅順包圍軍に加はち特功あり丗八年再ひ同社に歸り椽大の筆を揮はれたるが去十月末二豎の犯す所となり前途多望の資を懷きて空しく簀を易ふるに至る痛恨の極に堪えず
⦿堀安覺氏(三八政)は卒業後郷里に歸り父祖の業を繼きて孜々經營する所尠なからざりしが不幸にして秋來病魔の襲ふ所となり遂に再び起つ能はず去十月三十日故山に於て簀を易ふるに至る哀惜何んぞ堪へんや
⦿大久保雙二氏(四〇大法)は年少氣鋭法曹の革新を以て自己畢生の任務と爲し造詣する所淺からざりしが事、志と異ひ遂に健康常態を失し去十月十三日空しく有爲の資を懷きて家郷に安眠せらる痛惜の極みなり、
⦿高橋要亮氏は本大學と因縁淺からず深大の同情者の一人なりしが不幸二豎の爲に斃る痛惜の極みなり
1909(明治42)年
第170號・明治42年4月5日發行
⦿影山 昇一氏(四一國)三八八日兵庫縣兵庫郡深江村に於て死去
⦿臼井 胤光氏(三九大文)三月一日東京府豐多摩郡拜島村一九八五にて死去
⦿山縣 寛知氏(三九政)去る二月二十六日郷里實家にて死亡
第171號・明治42年5月5日發行
⦿引頭 百太(二四政)四月十三日長逝
第172號・明治42年6月5日發行
二十四年政治科卒業
山形商業會議所書記長 金森石郎
三十八年政治科卒業 李用戊
四十年商科卒業
大阪商船會社勤務 村井與之助
四十年英文學科卒業 鈴木巳千藏
四十年商科卒業 小池貫一
四十一年法科卒業 丸眞鐃
右の諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで弔意を表す
第173號・明治42年7月1日發行
二十六年文科卒業 長田信藏
三十二年政治科卒業 安田稔三
三十九年法科卒業
福岡地方裁判所判事 松本増夫
三十五年英語政治科卒業 松田知雄
右の諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へす謹んて吊意を表す
第174號・明治42年8月1日發行
二十四年行政科卒業 倉林治郎吉
三十八年國漢科卒業 三宅傳一
三十九年法律科卒業 田中直兵衞
四十一年政治科卒業 松原竹松
右の諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで弔意を表す
第175號・明治42年9月1日發行
四十一年商科卒業 伊藤信安
三十八年大法卒業 小手川清
右の諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで弔意を表す
第176號・明治42年10月1日發行
噫牧野啓吾氏 (記事略)
本大學評議員今村信行氏の逝去 (記事略)
三十六年行政科卒業 鈴木太郎
三十八年文學科卒業 奈知安四郎
三十九年政治科卒業 平栗輔三
四十一年英語科卒業 青木盈藏
右の諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へす謹んて弔意を表す
第177號・明治42年11月1日發行
二十年邦語政治科卒業 本田吉次
二十四年法律科卒業 林榮二郎
二十六年邦語政治科卒業 桑原秀吉
三十四年法律科卒業 村山信吾
三十九年邦語政治科卒業 平栗輔三
三十九年大學部政治科卒業 井戸健二
右の諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んて吊意を表す
1910(明治43)年
第179號・明治43年1月1日發行
明治三十九年推選 綿貫 元藏
明治三十九年國語漢文科卒業 永井 靖一
明治四十年商科卒業 細谷 勝二
右の諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んて吊意を表す
第181號・明治43年3月1日發行
明治四十一年文科大學哲學科卒業 松山 強
明治四十一年邦語法律卒業 小沼 慶祐
明治四十年法科大學卒業 久津 精三
右の諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで吊意を表す
第182號・明治43年4月1日發行
明治四十一年推選 矢部善兵衞
今回君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで吊意を表す
第183號・明治43年5月1日發行
明治二十八年法律科卒業 内川 嘉吉
明治三十七年史學科卒業 香川 千太郎
明治三十七年同上 舍夷 得明
明治三十九年大學部文學科卒業 江口 保之助
明治四十年大學部法學科卒業 久保田 健次
明治四十二年歴史地理科卒業 長田 勝一
右諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで吊意を表す
第184號・明治43年6月1日發行
故南部英麿氏の葬儀 (記事略)
明治三十八年法律科卒業 山崎 龜吉
右同君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで吊意を表す
第185號・明治43年7月1日發行
明治二十六年行政科卒業 子爵 松平容大
明治二十二年法律科卒業 津田哲藏
明治三十八年文學科卒業 赤尾光山
明治四十年商科卒業 村田敬
明治四十二年商科卒業 中村賢一
右諸氏の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで吊意を表す
第186號・明治43年8月1日發行
明治二十六年行政科得業 子爵 松平容大
今回君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで吊意を表す
第187號・明治43年9月1日發行
二十一年政治科卒業 池田茂
二十四年政治科卒業 田中準一
三十八年政治經濟科卒業 長倉一雄
右諸氏の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで吊意を表す
第189號・明治43年11月1日發行
明治二十二年 法律科卒業 野田錫馬
明治二十七年 專門部卒業 甘泉精三
明治三十七年 法科卒業 鈴木忠治
明治三十九年 推選校友 萩原此吉
明治三十九年 政治卒業 平島堅
明治四十年 大政卒業 村崎睦一
明治四十三年 推選校友 成田與作
右諸氏の訃に接し哀悼の至に堪えず謹んで吊意を表す
第190號・明治43年12月1日發行
二十四年 行政科出身 峯崎要
三十三年 英語政治科出身 山條家綱
三十六年 行政科出身 高橋右左二
三十六年 行政科出身 矢野眞常
四十年 法律科出身 藤野三郎
四十年 英文學科出身 佐藤惠
四十二年 商科出身 濱田信二
四十三年 大學部政治科出身 松岡勵
右諸氏の訃に接し哀悼の至に堪ず謹んで弔意を表す
1911(明治44)年
第191號・明治44年1月1日發行
二十四年 行政科出身 吉澤貞右衞門
三十八年 法律科出身 青木勇雄
四十一年 商科出身 近藤政吉
四十三年 法律科出身 南季九郎
四十三年 英文科出身 海野辰治
今回右諸氏の訃に接し哀悼に堪へず謹んで吊意を表す
第192號・明治44年2月1日發行
三十五年 英政治科出身 武田洋
四十二年 大學部政治科出身 久我恭之允
四十年 大學部政治科出身 田邊忠治
三十六年 英政治科出身 江南善行
三十四年 英政治科出身 北川彌太郎
四十一年 國語漢文科出身 仲田伊三郎
三十二年 行政科出身 野口清吉
右諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第193號・明治44年3月1日發行
嚮に四十二年大學部文科出身四方弘克君の訃報に接し哀悼の至りに堪へざる處、今回郷里三重縣松阪町に總長大隈伯篆額高田學長撰文の碑を建設せりと云ふ、茲に謹んで弔意を表す
第194號・明治44年4月1日發行
三十三年 法律科出身 我孫子三五郎
二十八年 文科出身 小森安太郎
四十年 歴史地理科出身 明石宇太郎
十八年 法律科出身 鎗田鷹助
今回右諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで弔意を表す
第195號・明治44年5月1日發行
二十三年 政治科出身 小牧丈太郎
二十三年 行政科出身 藤波一哉
今回右諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで弔意を表す
第196號・明治44年6月1日發行
二十一年 政治科出身 富川浩助
二十六年 文學科出身 吉林松之助
三十九年 政治科出身 戸島清明
今回右諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで弔意を表す
第197號・明治44年7月1日發行
二十二年 政治科出身 窪田操
二十三年 英語普通科出身 太田龜三郎
四十年 大學部商科出身 戸原益三郎
今回右諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず謹んで弔意を表す
第198號・明治44年8月1日發行
明治二十二年 普通科出身 福田嘉三郎
明治三十九年 政治科出身 梅津忠雄
明治三十九年 大學部法律科出身 高橋利平
明治四十年 商科出身 丸山靜
明治四十一年 大學部商科出身 加藤豐太郎
右諸君の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第199號・明治44年9月1日發行
明治十九年 法律科出身 片岡楢太郎
明治二十年 英語科出身 竹村眞次
明治三十八年 政治科出身 鞍貫政男
明治四十一年 商科出身 喜多邦藏
明治四十一年 政治科出身 新井三九郎
明治四十三年 政治科出身 永山廣
右諸君の訃に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第201號・明治44年11月1日發行
本大學前校長鳩山博士逝く (記事略)
第202號・明治44年12月1日發行
明治四十二年 大學部政治科出身 山本護郎
明治四十年 大學部商科出身 傍士清靜
明治十九年 邦語政治科出身 川田水穗
明治二十一年 邦語政治科出身 三幣直和
明治二十四年 邦語法律科出身 藤澤茂十郎
明治四十三年 邦語法律科出身 増田憲
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
1912(明治45)年
第203號・明治45年1月1日發行
◉前田校醫の逝去 (記事略)
明治四十一年高等師範部英語科出身 角田健吉
右訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第204號・明治45年2月1日發行
明治二十三年 邦語政治科出身 西村陸奧夫
明治四十一年 高等師範部英語科出身 角田健吉
明治三十九年 大學部政治經濟學科出身 市川駿一郎
明治三十九年 大學部文學科出身 國井恆太郎
明治三十一年 邦語行政科出身 長嶺保榮
明治四十年 高等師範部歴史地理科出身 土屋稻吉
明治三十六年 邦語政治科出身 板野富平
明治三十六年 邦語法律科出身 渡邊半平
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第205號・明治45年3月1日發行
明治十八年 邦語法律科出身 大和田三郎右衞門
明治三十六年 推選校友 渡邊尚
明治三十九年 邦語政治科出身 前川留三郎
明治四十二年 大學部商科出身 須藤善三郎
明治三十二年 邦語政治科出身 柏村猪三郎
明治四十年 大學部文科出身 山根方亮
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第206號・明治45年4月10日發行
◉前幹事秀嶋家良氏の逝去 (記事略)
明治四十一年 大學部商科出身 小山保孝
右訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第207號・明治45年5月10日發行
明治三十四年 英語政治科出身 佐藤良太郎
明治四十一年 大學部文科出身 田村碩保
明治三十九年 大學部文科出身 徳永秀雄
明治四十三年 大學部政治科出身 飯塚知五郎
明治四十年 法制經濟科出身 山本傳壽
明治四十一年 國語漢文科出身 清水健恕
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第208號・明治45年6月10日發行
明治四十一年 大學部商科出身 笠井愛一
明治四十一年 國語漢文科出身 小松慶吉
明治二十二年 邦語法律科出身 勝島勝四郎
明治二十五年 邦語政治科出身 野口芳太郎
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す
第209號・明治45年7月10日發行
明治三十七年 邦語法律科出身 岡本清之助
明治三十三年 英語政治科出身 福永照二
明治四十一年 大學部商科出身 江崎市郎
明治四十四年 大學部商科出身 栗本純三
明治二十七年 邦語行政科出身 尾崎久治
右諸氏の訃報に接し哀悼の至りに堪へず茲に謹んで弔意を表す