技術と、センスとパッションと中身
いま、とあることを学んでいる。
その中で、
最近こんな感覚に陥っている。
「技術に走るのは、
中身がないからなのではないか」と。
たとえば、絵画だったとしよう。
自分には描きたい世界がある!
となって、
絵の書き方教室に行くとする。
様々な技術、テクニックを
そこで教わるとする。
習う前には知らなかった
その技術を使って、
今までなら
単純になってしまっていた絵を
よりよく、より深く描けるぞ!と
そう思いながら描いているときに、
ふと
「もしかして
私に力がないから、
中身がないから、
この技術に頼って
描いているのではないか?」
と、そんな思いが湧いてくる。
いま、そういう状態だ。
そんな時に、
自分を励ますかのように
誰かが言った言葉を思い出す。
センスや
その人の内側から
湧き上がってくるようなものは
教えることができないけれど、
それを表現するための「技術」だけは
教える(教わる)ことができる。
と。
それで自分で改めて
「表現したいものを
表現したいように
表現するために、
施術が必要なのだ」
と言い聞かせる。
励ますように、
鼓舞するように。
ただ、技術だけに走って
中身がなくなってしまうのは
いただけない。
そう思うと、
超絶技巧だけで
パッションを感じないピアニスト、
みたいなものに
なっているのではないかと
自分でふと恐ろしくなるのだ。
技術は道具、ツールであって
全てではない。
そんなことを
常に頭の片隅に置いて
今の学びを進めていくしか
私にはないのだろう。
中身を表現するために、
パッションを伝えるために、
センスを発揮するために、
そのためのテクニックだと
心に刻みながら。