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おいしいものを、すこしだけ 第1話
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大学生の日向子さんと、八歳年上で非正規図書館司書の亜紀さん。
ひょんなことから、生活費節約のためルームシェアをしています。
日向子さんの目線で語られる亜紀さんはどこか謎めいた人物ですが、ある日亜紀さんが体調を崩して倒れたことから、日向子さんは今まで知らなかった亜紀さんの事情に触れることになります。
一方で「食べる」「食べさせる」ことを通じて二人の関係性も変化します。
非正規で働き、文字どおり「食べていく」ことの現実に直面しながら、
日向子さんも自身の恋愛や仕事に悩み、模索していきます。
全23回で完結の長編小説です。
(著者によるあらすじ)
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ルームメイトの亜紀さんから電話が入った。
「じつは、駅で倒れて救急搬送されまして」
「救急搬送?」
「いえ、でも、命に別条はなくて、入院もしなくていいようなのですが、病院側から帰宅に付き添いが必要と言われたので、たいへん申しわけないのですが、もし都合がついたら迎えに来てもらえないでしょうか」
「あ、いいですよ。ちょうど授業が終わって帰るところなので。どこの病院ですか?」
亜紀さんの実家は静岡だったか岐阜だったか忘れたが、とにかくちょっと迎えに来てもらうわけにはいかないようなところなので、ここは同居人の私が行くしかない。
搬送先の病院は大学からの帰り道にあったのですぐにわかった。亜紀さんは点滴の管につながれていて、顔色は悪かったもののしゃべりかたははっきりしていた。
「あと十五分くらいでこれが落ち切るので、そうしたら栄養指導室へ行くようにすすめられました」と点滴を指さした。
「それで、じつは、ここでは日向子さんは私の妹ということになっているんです」
「なんでまた」
「迎えに来るのはご家族ですかと聞かれたのでつい。本当に申しわけないんですが、このあと一緒に説明を受けてもらえますか。身分証の提示を求められたりはしないと思いますから」
面倒なことになってしまった。待合室の片隅にカーテンで仕切られたようなところで亜紀さんと一緒に中年の女性から説明を受ける。医者ではなく栄養士さんだった。家族というので母親か誰かを想像していたようで、私を見て最初怪訝な顔をしたけれど、かまわず話を続けた。
「いわゆる栄養失調ですね」
「栄養失調?」
予想外の言葉だったので、つい聞き返してしまった。亜紀さんは表情を変えなかった。食生活について質問されてもあまり話そうとせず「いえ特には」「普通です」といった答えかたをしていた。
栄養士さんは私のほうを向いた。
「食事はいつもお二人で?」
「いえ、その、私は学生で、朝が遅くて生活時間帯が違うので食事は各自勝手にしているので」
「ずっと二人暮らし?」
「一年くらい前からです」
あまり詳しく話してボロが出るとまずい。さいわいそれ以上は追及されなかった。そもそも保護者や配偶者ならともかく「妹」に向かって栄養指導しても仕方なさそうだ。
「若い女性は無理なダイエットとかやりがちですけれどね、バランスの取れた食事というのが健康の基本なので、ご家族のかたにもすこし気をつけていただいて」
そんな調子で動物性タンパク質やらヘム鉄やらビタミンCやら葉酸やらの説明を受け、栄養バランスガイドのような冊子を受け取って、ようやく病院を出た。
八歳年上、というのは微妙な年齢差ではある。親の世代とはもちろん違うし、学校の先輩でもなく、きょうだいよりも離れている。今までの人生では一番縁のない人たちだった。もっとも亜紀さんは「そういえば世の中には年齢みたいな区分もありましたっけね」というような態度で、私を「若い子」扱いして自分の年齢を卑下したり、逆に上から目線で説教したりすることはいっさいなかった。私に対しても丁寧過ぎるほどの言葉づかいなので、こっちまでつられて丁寧語になってしまう。
亜紀さんとはルームシェアの仲介サイトで知り合った。亜紀さんが出していた同居人募集の投稿を見つけたのが始まりだった。
「RC造マンション三階建ての二階。間取りは2DK、バストイレ別で、完全に独立した個室があり、基本的な家具家電はそろっています。築十八年ですがリフォームされていてきれいです。前の同居人が結婚して退去したのでシェアして下さる方を募集します。初期費用無料で、家賃四万プラス光熱費折半になります。女性限定。当方は社会人女性です。社会人・学生問いませんがお互いに干渉せず静かに暮らしていただける方を希望します」
それまで私はよくあるワンルームの木造賃貸アパートで普通の一人暮らしをしていたのだけれど、ベニヤ板ではないかと思うほど薄い壁越しに日夜怒涛のように押し寄せる近隣住民の騒音と、夏場に大量発生する名前を口にするのもおぞましい例の昆虫に耐えかねて引っ越しを決意した。家賃を上げずに鉄筋コンクリートの建物に住む方法を考えあぐねてルームシェアに行きついたのだった。
何度かメールのやり取りをしてから会うことになった。待ち合わせ場所のコーヒーショップに入って周りを見渡していると、手前の席から女性が立ちあがって「萩原さんでしょうか」と声をかけてきた。濃緑のロングスカートと白いセーターの上に髪をお団子にまとめた頭が乗っている。つる植物がのびあがったような、ヒョロッとした人だというのが最初の印象だった。
亜紀さんは間取り図まで持参して丁寧に説明してくれ、後で実際に部屋も見せてくれた。知らない人間と一緒に住むことには不安もあったけれど、亜紀さんはいかにも真面目そうで感じが良かった。条件としては理想的だ。むしろ亜紀さんのほうでこちらが学生であることに不安を抱いたらしく「友達を呼んでパーティしたりはできませんが大丈夫ですか」と確認された。べつにそういうことがしたくて引っ越すわけではないのでかまわなかった。
念のため例の昆虫について聞いてみると、亜紀さんは笑って「住み始めてから一度も見たことがないですね」と言った。それで決まった。
病院前の停留所からバスに乗って帰ってきた。亜紀さんはすこしふらふらしてはいたものの、支えが必要というほどでもなく自分の足で歩いていた。散り終わった桜の花殻が道路の溝にたくさん積もっていて、何度か足を取られそうになった。マンションの入口で、私が先に鍵を出してロックを解除した。
玄関のドアを開けると風が吹き抜けた。窓が細く開いたままだったらしい。廊下を挟んで右側の奥がダイニングキッチン、手前がトイレとお風呂になっている。左側には部屋が二つ並んでいて、奥が亜紀さんの部屋で玄関に近いほうが私の部屋だ。
亜紀さんはダイニングの窓を閉めた。
「今日は助かりました。ありがとうございます」
「それにしてもどうしてこんなことに」
「どうも朝から異常にだるいなとは思っていたんですけど、仕事が終わって帰ろうとして、駅の階段を昇りきったところで意識がなくなり、気がついたら病院でした。駅員さんが救急車を呼んでくれたらしいです」
亜紀さんは地元の市立図書館で働いている。基本的に土日は仕事で、月曜日とほかに一日平日に休みを取る。学生の私とは生活時間帯が合わなかった。私は朝ごはんを食べるよりギリギリまで寝ていたいという人間なので、起きたときにはたいてい亜紀さんはもう家を出ている。夜は夜でバイトから帰ってくるともう夕食を終えて流しもきれいに片付いている。たまに休みが合う時には一緒にごはんをつくって食べたこともあったけれど、それも数えるほどだ。思えばこの一ヶ月、亜紀さんがものを食べるのを見た記憶がない。
同居人としての亜紀さんはとにかく物静かで迷惑をかけない人という印象だった。炊事洗濯は各自で共用部分の掃除は当番制なのだけれど、排水口や三角コーナーはいつもきれいに掃除されている。女同士だから、という気安さはかけらもなく、生理用品なども目につかないように管理されているし、絶対に下着姿でうろうろしたりせず、上着を替えるだけでも席をはずした。最初のころは私が嫌われているのではと思ったくらいだけれど、ただ単に本人の性格であるようだ。極度にものを持たない人なので部屋が散らかることもなく、騒音どころか普通の物音すら立てなかった。いつもバレエシューズのようなものを履いていて足音を立てずに歩くので、気がつくと背後に立っていてびっくりすることがある。
ある日、出かけようとしてマンションの外に出たところで二階の窓から亜紀さんがちょっと待てと合図をしているのに気がついた。何事かと思って立ち止まると息せき切って階段を駆け下りてきて、目の前に来てから「言い忘れてましたが共用廊下の塗装工事が入るので今日は五時まで中に入れません」と言った。そんなことは二階から叫んでくれればいいのに、大声を出したくないらしい。話すときにはすこしだけ耳元に顔を近づけるようにする。
毎日九時から五時まで図書館で働いて、その合間によその図書館と書店と古本屋をはしごしているくらいだから、よくよくの本好きらしい。私など和菓子屋でバイトしていたときはアンコの匂いを嗅ぐのも嫌になったくらいだから、こういう人の気がしれない。うちにいるときはたいていそうやって集めてきた本を読んでいる。積んである本を見るかぎり、亜紀さんの読書傾向にはまるで一貫性がない。ベストセラーのミステリーからルネサンス期の料理本、古文書解読辞典、洋書のペーパーバック、宇宙工学の入門書から生物図鑑まである。
「世の中にはスベスベマンジュウガ二なんていうのがいるんですね。しかも毒ガニ」
「嘘でしょう。そんなカニいるわけない」
「本当です。ほら」
見せられたページには確かにそう書いてある。図版を見るとスベスベしてはいるがマンジュウには似ていない。『カニ大図鑑』という本で児童書コーナーのシールが付いていた。亜紀さんがカニの研究をしてどうしようというのか謎だが業務上必要なのかもしれない。よくわからない。
本好きのわりに持っている本は多くなかった。部屋に天井突っ張り型の本棚が一つあるだけで、そこに収まる以上の本を持たないことに決めていると言う。借りられるものは借りて読み、あふれた本は売ってしまう。
「お金持ちになったら自分の書庫を持ちたいなとは思いますけどね。本も生き物と同じなので、きちんとお世話できないなら買いたくないんです」
棚からきれいなマーブル模様の本を出して説明した。
「本も人間と同じで立っているより寝ているほうが楽なんですが、よくやるように床からうず高く平積みにすると一番下の本にものすごいプレスがかかるわけです。と言って物置にぎゅうぎゅう詰めにすると風通しが悪くてカビも出ますし、積もった埃も払わないとページが痛むし、それやこれやで断念しまして」
「それで図書館が書庫の代わりなんですね」
「図書館だって今時どこもスペースが足りないし、詰めこみ過ぎていないところなんてないですけどね。うちの図書館だってこういう丸背の本なんか歪んでしまってます。書架整理のとき一冊抜くと、残った本がメリメリ音を立てて呼吸を始まるのでかわいそうになるくらいです」
「そんなものですか」
「でも市立図書館の本は後生大事に抱えこむものではなくて使ってもらうためのものなので、個人的にはボロボロになるまで使われた本は幸せだと思っています。愛書家の蔵書とは違います」
「それにしても栄養失調なんて。ごはん食べてないんですか」
「食べてはいます」
亜紀さんは目を泳がせた。
「食費を節約するのに食べる量を減らしているので」
「そんなことしないほうが」
「理論上は問題のない範囲なのです。ご飯というのはほとんど糖質なので、糖質を代謝するためにビタミンB群が必要になります。ご飯をたくさん食べたためにおかずをたくさん食べなければならないなら、最初からあまり食べないほうが早手回しだと思ったのです」
不思議な理論だ。
「ともかくそれで病院送りになったら医療費のほうが高くつきますよ」
「まったくです」
こんなことで大丈夫かなとは思ったものの、翌日から亜紀さんは仕事に出かけ、普通の生活に戻った。きちんと食べているかどうか私が監視するわけにもいかない。ときどきパソコンで無料のソフトを使って栄養計算をしている。二度と栄養失調で倒れない意気込みではあるようなので、放っておくことにした。