見出し画像

おいしいものを、すこしだけ 第7話

 ひさしぶりに学科の飲み会に誘われたので行ってみることにした。
 最近は就職活動もやる気をなくしていて、うちでひたすら卒論の準備をしているだけだったので、すこしは外に出て人と会わないとまずいような気がする。
 
 居酒屋の座敷に這いあがると、もう全員が顔を揃えていて、すぐに乾杯になった。四年のこの時期になるともうほとんど学校に来ない人も多いので、顔を合わせるのも数か月ぶり、という人も多かった。

 飲み始めてすぐに、自分が場違いなところに来てしまったことがわかった。私以外の学生は全員もう就職先が決まっていて、あとは残り少ない学生生活を有意義に過ごすことで頭が一杯だった。卒業旅行や追い出しコンパや内定者研修や引っ越し準備といった話の輪に入っていけない。ひたすら食べることに専念しようと思っても、料理がなかなか出てこない。刺身の下に敷いてあった血なまぐさい大根の千切りを一本ずつかじっていた。
「そういえば、日向子はどこに決まったんだっけ?」
 話を振られて、まだ決まっていないけれど今は契約社員で探している、と答えた。
「えー、それは良くないよ。ダメだよあきらめちゃ」
「いや、日向ちゃんはそんなにガツガツしなくてもねえ。ジロがいるんだし」
 まだ何か誤解している人がここにもいる。それに正社員ではない雇用形態で働こうとしていることが勤労意欲の低さの表れとみなされていることが不本意だったけれど、反論する気力もない。
「ジロもやっと就職決まって良かったよね。何の会社だっけ?」
「え?」
 私は何も聞かされていなかった。ちょうどそのとき、隣のグループが別の話題でワッと盛り上がったので二人ともそっちに行ってしまい、返事をしなくて済んだ。
 
 ビールの泡が消えかかっているグラスを眺めながら、ジロのことや亜紀さんのことや母親のことや面接官の冷たい視線のことを考え、私という人間はどこまでも誰の好みにも合わないのだなと思った。
 飲み放題なので飲み物だけはたくさん出てくる。ビールを飲み終わったところで誰かがまちがって頼んだ日本酒が回ってきて、冷たくておいしかったので一気に飲んでしまった。同じものをもう一杯飲んだ。
 そのあと緑茶ハイを飲んだところで、急に気持ちが悪くなってきた。これまで経験したことのないような、とんでもなく嫌なことが起こりそうなのがわかる。
 ふらふらと立ち上がってトイレに行った。吐けば楽になることはわかっているけれど、胃の上部がギュッと絞られたようになって、吐きたくても吐けない。舌の上に指を突っこんでみても、涙と唾液が落ちるだけだ。吐き気が襲ってくるたびに便器の上で体を折り曲げて、むなしい努力を続けた。
 ようやく少し吐けたときには、嘔吐物の苦い味にさっき食べたしめ鯖の味が混ざっていて、よけいに気持ち悪くなった。口をすすいでから座敷に戻り、隅に座布団が寄せてあるところで横になると、今度は急激に寒くなってきた。空調の風が刺すように感じる。ガタガタ震えながら上着が欲しいと思っても、体が麻痺したようになって動けない。声も出せない。みんな盛り上がっていて誰も気づいてくれない。このまま死ぬかも、という考えが頭をよぎった。ここで死んだら相当にまぬけだ。誰に飲まされたわけでもないので恨むこともできない。そのうちにすうっと意識が遠ざかった。

 気がついたときには周囲でまだ同じ騒ぎが続いていたので、何分も経っていなかったのだと思う。なんとか動けるようになっていたので体を起こして自分の荷物から上着を取り、手を伸ばして誰のものかわからないグラスから水を飲んだ。
「日向子、大丈夫ー?」
 トイレに立った人が声をかけてきた。なんとか、と私は答えた。どうせならさっき死にそうなときに気づいてほしかった。
 しばらく休んで、もう大丈夫そうだと見きわめがついたところで帰ることにした。会費は最初に払ってあったので、近くにいたサッちゃんにだけ「私、先に帰るから」と言った。サッちゃんは一瞬だけ振り向いて「あっそう。じゃあね」と言ってまた話の輪に戻っていった。

 電車が走りだしたとたん、もう大丈夫だと思ったのはまちがいだったことがわかった。カーブを曲がるたびに、胃の中から酸っぱいものがこみ上げてくる。急行なので途中で降りることもできない。これで電車を停めたら大変なことだ。いざとなったらバッグの中に吐くしかない、と目に涙をためて吐き気をこらえていた。
 ようやく駅に着いて、転がるように電車を降りた。
 歩いても歩いても、うちが近づいて来ない。街灯から街灯までの距離が異常に長く感じる。途中で我慢できなくなって暗がりに吐いた。朝大学に行く途中で道に嘔吐物があるのを見るたびに、せめてもっと端のほうに吐けばいいのにと思っていたけれど、自分がその立場になるとそんな余裕がない。
 マンションの二階に上がる階段が断崖絶壁だった。ドアを開けて中に入ったところで力尽きて、そのまま玄関に座りこんだ。
 亜紀さんはまだ起きていた。様子がおかしいことに気がついたようで、廊下の電気を点けてから私のところに駆け寄ってしゃがみこんだ。
 亜紀さんの顔を見たらほっとして、思わず抱きついた。亜紀さんは野良猫みたいに背骨がごつごつしていた。
 私が吐いたことに気づいたらしい。濡れタオルを取ってきて口元を拭い、「水、飲めますか」とささやいてコップを唇にあてた。
 なめらかな水が舌の上を滑って喉の奥に流れこんだ。顎にこぼれた水滴を亜紀さんがタオルで受け止めた。

 その後の記憶がさだかでない。亜紀さんが私を抱き上げられるはずがないから、自分で部屋まで歩いたのだと思う。
 細い腕が肩に巻きついて、そうっと布団に寝かされたのは覚えている。何度かドアが開いて光が流れ、ひんやりした手が額と手首に触れた。冷たくて気持ちが良かったのでもっとさわっていてほしいくらいだった。これは夢だったかもしれない。

 翌朝目が覚めると、ひどい頭痛がしていた。脳みそがふくれあがってドクンドクンと金属の輪っかで絞めつけられている感じだ。
 ダイニングに出ていくと亜紀さんはもうきちんと身支度を済ませていて、これから出勤するところだ。
「どうですか、具合は」
「頭がガンガンします」
「トマトジュースならありますよ」と冷蔵庫を指さす。
「昨夜は不覚でした。本当にすみません」
 亜紀さんは笑いを含んだ目で私を見た。
「ずいぶん飲んでましたねえ」
「ビール一杯と日本酒二合と緑茶ハイだけです。あれは絶対お酒に何か混ぜてあったんです。それかしめ鯖。もう二度としめ鯖は食べたくないです」
「しめ鯖一般に罪はないと思いますが、気持ちはわかります」
 亜紀さんはもともと安酒を飲むくらいなら一杯でやめておこうという人だから、酔ったところを見たことがない。
「もしかして亜紀さんはずっと起きてたんですか」
「いえ、急性アルコール中毒が心配で三十分くらい様子を見ていましたけど、大丈夫そうだったので寝てしまいました」
 亜紀さんは職業柄か性格か、わからないことは迅速に調べる人なので、一晩のうちに急性アルコール中毒のちょっとした権威になっていた。「血中アルコール濃度」と「昏睡体位」について研究発表してくれたけれど、あまり二日酔いの頭で聞きたい話ではない。「海外の事例を見ると」とまで言い出した。どうして夜中にそんなものを見ているのかわからない。
 亜紀さんはしゃべるだけしゃべってから時計を見て「では私はそろそろ仕事に行きますので。お大事に」と言って出て行った。

 亜紀さんはいつも私の周囲に結界でもあるかのように振る舞っていて、必要以上に近づいたり、体に触れたりすることは絶対にしない。もともと満員電車を「地獄」と呼ぶくらい身体接触の苦手な人でもあるし、女性社員からセクハラ疑惑をかけられないように用心する上司のような心境なのかもしれないし、ただ単に私が好みのタイプでないからかもしれない。昨夜のことは緊急時の例外的措置だ。

 トマトジュースを飲むと頭痛はあっさり治ってしまい、代わりにどっと自己嫌悪が襲ってきた。せめて前日の記憶がなければまだ救われるのに、こういう時に限って居酒屋のトイレの壁紙の柄まで鮮明に覚えている。今まで飲み会で気持ちが悪くなったことなんか一度もないのに痛恨の極みだ。学科の人たちに日向子は就職が決まらなくて荒れていたと思われたかもしれないのも気が重い。
 昨夜吐いてしまったところは、誰か善良な市民によってもう片づけられていた。本当に申しわけない。

 ジロについては、地獄への道連れが一人減ったということなのだろうけれど、何もジロまで一緒に路頭に迷ってほしいわけではないので、本人のためを思えばこれで良かったのだと思う。
 あのあと耳に入ったジロの就職先は、年に一人は過労死が出ると噂されるような長時間労働で有名な会社だったので、就職したら前のように一緒に遊ぶことも難しくなるかもしれない。約束のオリジナル料理も、いつ食べさせてもらえるかわからない。

「亜紀さんから見ても好みに合わないし、私はよっぽど誰に対しても魅力がないんでしょうか。どの辺が問題なんですか」
 夕食のときに妙な絡みかたをされて、亜紀さんはあからさまに迷惑そうな顔をしていた。
「一般的に見れば、日向子さんは可愛いと言えなくもないかもしれないと思いますが、私としてはこうなってくるともう実の妹のようなものなので、ちょっとそういう対象にはなりにくいですね」
 それでも利用者からレファレンスを受けた図書館員そのままの口調で律儀に答えてくれる。
「私はどちらかというとふんわりした神秘的な人に惹かれるようです」
「神秘的」たしかに私とはかけ離れている。
「それに年下趣味というものはあまり」
「年上が好きなんですか」
「同じくらいがいいですね。前後二、三歳の人が多いです」
「けっこう限られてきますね」
「過去の傾向ではということなので、この先はわかりませんけど」
「彼女はいくつだったんですか」
「学年は同じですが、私は早生まれなので生まれた年はひとつ上ですね」
 その時、視界の隅を黒いものがよぎった。嫌な予感がして振り向くと、名前を口にするのもおぞましい例の昆虫が、テーブルの下をノソノソと歩いているところだった。
 椅子を蹴って飛びのいた。
「亜紀さんの嘘つき! 出たじゃないですか!」
 亜紀さんは逃げたのかと思ったら、すぐにプラケース二個を持って戻ってきた。
「静かに。騒ぐとお客様が驚いて隠れてしまいます」
 低い声でそう言うと、音もなく「お客様」の背後に忍び寄り、手にしたプラケースで気合一発、追いこんで閉じこめた。そのままベランダに出て、丁重に「お客様」をマンションの敷地外へ送り出した。
「殺さなくていいんですか。戻ってきませんか」
「殺すと死体の扱いが面倒ですからね」
 マフィアみたいな台詞を吐く。
「それにお客様としてもそれなりに将来の夢とかがあるかもしれませんし」
 亜紀さんは虫を殺したがらない。部屋に蚊が侵入しても今のプラケースで捕獲して逃がしていた。最初のころはそういう宗教に入っているのかと思ったくらいだ。「私が地獄に堕ちた暁には、天から蜘蛛の糸がするすると降りてきて、私だけ救われることになっています」と言っていた。
「季節はずれだから動きが鈍くて楽でした。家の中で発生したわけではなくて、外から迷いこんできたんですよ。このあいだ日向子さんがサッシを閉め忘れたでしょう。たぶんその時です。もしまた出たら、すぐに私を呼んでください」
 そう言ってプラケースを片付けた。この時ほど亜紀さんが頼もしく見えたことはない。


いいなと思ったら応援しよう!