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おいしいものを、すこしだけ 第8話

 年が明けて、卒論も無事に審査を通り、私はめでたく卒業が確定した。卒論の文献集めには一部亜紀さんの助言を受けた。亜紀さんは夜間カウンターにいても最近の大学生はあまり込み入った質問をしてこなくてつまらないそうなので、けっこう面白がって協力してくれた。これが映画なら特別協力としてクレジットに名前を入れたいところだ。

 亜紀さんから借りた本はまだ読み終わっていない。英文科卒の亜紀さんと違って英語をおざなりにしかやっていない身には児童書とは言えなかなか手ごわく、辞書に張りつきながらでは文章が頭に入って来ないのだ。日向子さんなら読めると言われてしまった以上、読まずに返すのもくやしい。返却期限はとっくに過ぎていたけれど、亜紀さんはなぜか督促してこなかった。

 契約社員への道は予想以上に険しかった。正社員でさえなければなんとかなると思っていたのはなめていたとしか言いようがない。
 私と同じことを考える人間はたくさんいるらしく、特に正社員登用の可能性がある求人は、最初から正社員を受けるのと大差ないくらいの倍率になっていた。
 何社も落ち続けたあと、最後に受けた会社の面接で「あなたの長所はなんですか」と聞かれた。
 あまり長所らしきものがないので一瞬悩んだが「弱い者いじめをしないことです」と答えた。
「気がつかないうちに人を傷つけてしまったことはあるかもしれないのであまり胸を張っては言えませんが、自分ではなるべく弱い立場の人を苦しめないように心がけてきました」
 面接官は面白そうな顔をした。馬鹿にしているのか感心しているのかはかりかねた。
「弱きを助け強きを挫く、というやつですね。清水の次郎長みたいだな」
「できればそのようになりたいと」
 業務と何の関係もないことを言ってしまったのでこれはダメかなと思ったのだけれど、しばらくして採用通知が届いた。あんなことで良かったのかどうかわからない。後で社長が静岡県出身だということを知った。それが影響したのかもしれない。
 採用が決まったときには、そろそろ春の気配が近づいてくる季節になっていた。
 電話で母親にこのことを報告すると「言っとくけどそれは就職したうちに入らないからね」と冷たく言われた。今後はおちおち帰省するわけにもいかなくなりそうだ。そのたびに「まだ正社員になれないのか」と責めたてられるのは目に見えている。
 亜紀さんだっていくらか複雑な顔はしていた。それでも肘掛椅子に座って手のひらを軽く合わせ、推理する名探偵のような姿勢で就職先についての私の説明を丁寧に聞いてから、働いてみないとわからないけれど話を聞いた限りではなかなか面白そうな会社のように思う、と感想を言った。
「それにとにかくずっとやりたかった仕事なのでしょう」
「それはまあそうです」
 亜紀さんはすこし笑顔を見せて「おめでとう、良かったですね」と言った。
 母親に言わせれば、亜紀さんは所詮他人であって私が路頭に迷ったところで扶養義務その他がのしかかってくるわけではないからそんな無責任なことが言えるのだ、ということになるのだろう。

 亜紀さんはそのあとしばらくどこかに出かけていたかと思うと、買い物袋を提げて戻ってきた。
「今日は私がごちそうします」
 買ってきた食材を袋から出した。じゃがいも、クレソン、色とりどりのパプリカ、レモン、生クリーム、頭と尻尾のついた海老、最後にステーキ用の牛肉が出てきた。
「そんなの食べて大丈夫ですか」
 聞いたのはそんな食べつけないものを食べて亜紀さんの胃腸がどうかしないかという意味だったのだけど、亜紀さんはお金のことだと思ったらしく「モモ肉なので国産でもそれほど高くはないです」と答えた。
 台所に立つ亜紀さんの手元を覗きこんだ。
「何か手伝いましょうか」
「いえ、日向子さんのお祝いですから」
 赤いパプリカを刻む後姿を見ながら、この人自身はたぶん就職祝いというものを受けたことがないのだと思い当たった。
 ひさしぶりにフードプロセッサーを引っぱり出して、真っ白なポタージュもつくった。それから卵の黄身にオリーブオイルとレモン汁とおろしニンニクをすこしずつ入れて混ぜ始めた。
「アイオリソースって言うんですけど、マヨネーズよりおいしいです」
 茹でた海老とパプリカを散らした皿に、つやつやした黄色いソースを添える。
 次はステーキだ。熱くしたフライパンに脂を溶かし、肉を並べる。チリチリと焼けてくる音とともに香ばしいにおいが部屋中に広がった。亜紀さんは慎重に時間を見て焼き加減を確かめている。

「いただきます」
 どこに隠していたのか、ベルギーの修道院ビールまで出してくれた。二人でグラスをかちりと合わせた。
 思ったとおり、亜紀さんはステーキを全部は食べきれなかったけれど「明日ステーキ丼にします」といそいそとラップをかけていた。私はソースをパンで拭い、皿を舐めたようにしてきれいに食べてしまった。
「あと、ケーキもありますよ。モンブランと苺ショート」

 食後、亜紀さんは郵便受けに入っていた紙類を仕分けしていて、一通の封書をつまみ出した。
「管理会社から『賃貸借契約更新のご案内』というのが来ています」
「もう二年も経ったんですね」
「どうします、更新しますか」
 私はケーキの銀紙と箱をたたみながら「もうすこしだけ、この生活を続けてみますか」と言った。
「そうしますか」と亜紀さんも言った。


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