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おいしいものを、すこしだけ 第14話

 元日の風邪以来、亜紀さんはあまり具合が良くない。寝たり起きたりしているうちに正月休みが終わってしまったので、ふらふらしながら出勤していった。
 食も細くなった。せっかく最近はいくらか食べられるようになっていたのにまた逆戻りだ。私のとっておきの病人食、卵とかつおぶし入り味噌おじやを前にしてため息をついているので、じれったくなってスプーンを取り、おじやをすくって差し出した。
「はい、あーん」
 亜紀さんはぎょっとしたように顎を引き、すこし寄り目になって私の差し出したスプーンを見つめたのち、観念してぱくりと口に入れ、もぐもぐと噛んで飲みこんだ。
「ほら、食べられるじゃないですか」
「食べづらいだけです。自分で食べます」
 そう言ってスプーンを取り返し、自分で食べ始めた。

 孔雀の羽のような綺麗な青緑色のマフラーを見つけ、なんとなく亜紀さんに似合うように思ったので誕生日にプレゼントすることにした。亜紀さんはただでさえ痩せているうえ、いつもすり切れたような服しか着ていないのでいかにも寒そうだ。日頃お世話になっていることではあるし、これくらいなら馴れ馴れし過ぎることもないと思った。
 亜紀さんはとても喜んで「これなら毎日使います」とさっそく首に巻いている。思ったとおり、色白で黒髪黒目の人はこういう色が似合う。私からのプレゼントが嬉しいというより、本当にマフラーがなくて困っていたのかもしれない。亜紀さんのことだから私の誕生日には同程度のものを返そうとしてしまうだろうから、あまり援助にはなりそうもない。
「亜紀さんは冬生まれなのに『あき』っていう名前なんですね」
「白亜紀の亜紀です」
「白亜紀」
「ジュラ紀の次の白亜紀です。アロサウルスやステゴサウルスが絶滅して、ティラノサウルスやトリケラトプスが出てきたころです」
「そんな壮大な由来の名前だったとは。ご両親が恐竜好きなんですか」
「いえ、私がそういうことに決めたのです」
 よくわからない。
「日向子さんは八月生まれですよね」
「そうです、向日葵の季節だからこの名前になったらしいです」
「いい名前ですね」

 ジロから電話があったのは、二月に入ってからだった。
「ごめんな、ずっと連絡しなくて」
「ううん」
「しばらく冷却期間を置いたほうがいいと思って」
「うん」
「来週会えるか。いろいろ、話し合いたいこともあるし」
「そうだね」

 昔の写真と今までジロからもらったものを出してきて、学生のころ一緒に遊んで楽しかったことや、つきあい始めにずいぶんと優しくしてもらっていたことをなるべく思い出そうとした。
 亜紀さんに教わったとおりにマドレーヌを焼いた。ココアとチョコチップを足してみた。よけいな材料を加えたせいか食感の点で亜紀さんのつくったものより劣るけれど、それでもジロの会社のチョコマドレーヌより何十倍かはおいしい。ただジロがそう思うかどうかはわからない。袋に入れてバレンタインのカードを付けた。クローゼットの隅からクリスマスプレゼントも探し出し、二つの包みをバッグに入れて出かけた。
 公園の隣の、あまり人がいないカフェで待ち合わせた。ジロは時間どおりにきちんとやってきた。
「まず言っておきたいけど、俺は日向子が好きだし、これからもつきあっていきたい」
 そんなに怖い顔で言われても、返事のしようがない。
「でもそのためには日向子の協力が要る。これからますます忙しくなるし、日向子には迷惑かけて本当に申しわけないと思うけど、会えないこともあるし、約束を破ることもあると思う。その時に怒らないでほしい。仕事中は仕事に専念させてほしい」
 なんと条件をつけてきた、とコーヒーカップに目を落としながら考えた。どうも頭がうまく回転せず、返事を考えるのも億劫だった。
「でもそれって、私が一方的にジロの仕事に合わせるっていうことだよね。働き方を変えるっていう選択肢はないの」
「そんな仕事はないんだよ。俺らの同期の男でまともな時間に帰れる会社に就職したやつなんか一人もいないよ。それに仕事頑張るのは日向子のためでもあるんだよ、わかるだろ」
「私はジロに養われてるわけじゃないよ」
「それでもさ」
「私の仕事は支えてもらえないの、九時五時だから?」
「このあいだは悪かったよ、口が滑った。でも実際問題、こっちのほうが圧倒的に忙しいだろ」
 私は黙りこんだ。何かが違うような気がするけれど、うまく言えなかった。窓のほうを向いて公園を眺めた。日曜なので家族連れでいっぱいだった。小さい子が赤いボールを追いかけてよちよちと歩いていく。お父さんとお母さんらしき人が並んで立ってそれを見ている。あのお母さんもこういう条件をのんで結婚したのだろうか、と考えた。
「私は人間だし、約束を守ることは人間同士の信義だから、私を人間として扱ってくれる人とつきあいたい。仕事だから約束を破って当然とは思ってほしくない。私との約束を破るのも、取引先との約束を破るのも同じことでしょう。同じ人間なんだから」
 これも自分が本当に言いたいこととはすこし違うような気がする。ジロも「そうは言っても、現実はさ」などと言っている。たしかに私さえ我慢すれば続けていける関係ではあるのだろう。何年かして部署の異動でもあれば、今ほど不規則ではなくなるかもしれない。しかしいったい何のために、と回らない頭で考えた。あのおいしくない食べ物を日本中に供給する事業に貢献するためか。そもそも私はこの人が本当に好きなのかわからなくなってきた。
「もしジロが小児科の救急医療チームで、重症の子どもが運びこまれてきて約束を守れなくなるならまだ仕方ないと思うけど」
「医者ならいいのか。たかが食品メーカーだと思ってるのか」ジロはムッとしたように言った。
「そうじゃなくて、やっぱりおたくの会社の商品はおいしくない。悪いけどそうまでして支える価値のある仕事だとはどうしても思えない」
 ジロが拳を固めるのが見えたので、殴られる、と身構えた。とっさに武器になりそうなものを目で探した。
 ジロは拳を下ろして押し殺した声で言った。
「あまり怒らせるなよ。殴りたくなるから」
「脅迫する気」
「違う。これでも我慢してるんだ」
 これ以上何か言うのも面倒になり、座り直して冷めきったコーヒーを飲んだ。考えてみたらこれだけ人目があるのだから殴られそうになったら助けを呼んだほうが早い。飲み終わると自分のコーヒー代を置いて店を出てきた。
 たぶんジロはこれからも私を殴らないだろうけれど、その気になれば殴れるけれどあえて殴らないでいてやる、という態度をちらつかせることはやめないだろう。
 
 うちに帰ってクリスマスとバレンタインのカードをゴミ箱に捨てた。お菓子は食べてしまうとして、クリスマスプレゼントはネットで売りさばけないかと画策した。そのあと亜紀さんが仕事から帰ってくる時間に合わせて夕食をつくり、食後にマドレーヌを出した。今日持ち歩いていたほうではなく、亜紀さん用にとっておいたぶんだ。
「チョコレートとココアが入ってるんですね」
「よけいなものを入れたらすこしねっちゃりしてしまいました」
「でもこれはこれで。やわらかくておいしいです」
 亜紀さんはお菓子を無邪気に喜んで食べている。バレンタイン、などということは頭にないようだ。

 職場の男性社員はみんな真面目で感じのいい人たちで、話しているとほっとした。すくなくともこの人たちは話の途中で眠りこんだりしないし、私の存在をきちんと認識して挨拶や気遣いもしてくれ、約束した業務は期日までに仕上がってくる。ただそれも私が仕事の関係者だからであって、ジロだって会社ではまともだろうし、この人たちだってうちに帰ればずっと不機嫌だったり休日は寝たきりだったり恋人との約束を破ったり暴力を振るったりしているかもしれないとつい考えてしまう。社員が遅くまで残業しているのはここも一緒だ。

 借りたい本があって日曜日に市立図書館に行った。亜紀さんは事務室にいるのかと思ったら、ちょうどフロアにいた。濃紺の図書館員のエプロンを着け、ブックトラックを停めて利用者からの問い合わせに答えているところだった。
 面白いので柱の陰から見ていた。その表情には見覚えがある。専門の接客業として研修を受けた人の百パーセントの笑顔とは違う、ぎこちないなりに精一杯の好意を伝えようとするような控えめな笑みで、表情といい言葉づかいといい、私に対して話すときとまったく同じだったので、思わず笑ってしまった。忙しそうで声をかけるのも悪いので貸出手続きをして帰った。


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