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おいしいものを、すこしだけ 第15話

 うちに帰ると、亜紀さんはいなかった。

 今日は都心で人と会うので夕飯はいらないと言って出て行ったので、私も外食してついでにいろいろと寄り道をして遅くに帰ってきたのだけれど、亜紀さんはまだ帰っていないらしい。
 時計を見ると十一時前だ。いい大人が帰っていないからといって騒ぐような時刻でもないけれど、ここ数年亜紀さんがいるのが当たり前で不在という状況に慣れていないせいか、なんとなく落ち着かなかった。
 
 そのまま零時を過ぎても帰ってこない。めずらしいこともあるものだ。亜紀さんは性格的にも経済的にも夜に出歩く人ではない。明日も休みではないはずだ。
 一時を回ったところで不安になってきた。この時間に帰ってこないということは、終電に乗らなかったことになる。検索しても鉄道が止まっているという情報はひとつもなかった。タクシーを使ったりしたら何万円かかるかわからないし、亜紀さんがそんなことをするはずがない。
 本人に連絡を取ってみれば済むことだけれど、どうしてもできなかった。私が外泊した時に連絡を入れたことはないし、亜紀さんからも何も言ってこない。いくら亜紀さんは過去に一度もそういうことがなかったからといって、安否を確認するためだけに連絡を入れるのは干渉しているようで嫌だった。
 
 亜紀さんにも私の知らない交友関係があるだろうし、もしかしたら新しい恋人ができたのかもしれない。そうだとしても私はとやかく言える立場にない。今夜はそこに泊まって明日は直接出勤するつもりかもしれない。
 とにかく明日になればわかることだと思って横になったけれど、なかなか眠れなかった。もしどこかで事故に遭っていたら、病院が私に連絡してくれるとは思えない。ルームメイトというのは身内と見なされないだろうし、こちらから問い合わせても搬送先も教えてもらえないかもしれない。犯罪に巻き込まれていたら、捜索願を出し遅れたために初動捜査が遅れて命にかかわるかもしれない。単なる同居人が届を出して警察は受理してくれるだろうか。会社を休むとして、同居人が行方不明というのは理由になるだろうか。
 
 カタカタッと鍵を回す音で飛び起きた。玄関の明かりを点けると、亜紀さんが眩しそうに目を細めた。
「お帰りなさい」
「遅くなりました」
 亜紀さんは靴を脱いで上がりながら言った。めずらしくすこし酒気を帯びていて、いつもより口数も多かった。
「司書講習で同期だった人を中心に毎年会合を開いているんですよ。仕事の情報交換をしたり、まあ図書館員友の会みたいなものですね。ここ数年足が遠のいていたので久しぶりに出席したんですけど、やっぱり夜九時までカウンター業務の人がいたので、その人が合流するのを待って話しこんでいたらうっかり終電を逃してしまって」
「どうやって帰ってきたんですか」
「調べたら深夜急行バスというのがあって、こっちまで直通で帰れるんですね。あれは便利です」
 聞いてみれば何でもないことで、一気に力が抜けた。思わず「よかった」とつぶやいていた。
「ごめんなさい、そんなに心配してくださっていると思わなくて。連絡すれば良かったんですけど、もう寝ているかと」
「いえ、これは、違います」
 そう言ったものの、夜中の二時に起きている理由をほかに思いつけなかった。亜紀さんの袖をそっと引いて「こっちの部屋に来ますか」と言った。
 亜紀さんは私の頭をポンポンと撫でて「お風呂入って来ますから、先に寝ていてください」と言った。
 自分の部屋で横になると安心してすぐに眠ってしまったので、亜紀さんが部屋に来たのかどうかもわからない。


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