おいしいものを、すこしだけ 第10話
「萩原さんは給料分の仕事だけしていればいいから」
そう言ったのは深谷さんだ。私と同じ契約社員で、更新と再雇用を繰り返してもう十年以上働いている。小柄で色白で、いつも瞼が腫れぼったく、下唇がすこし出ているせいか伝統芸能のお面のように見える。腰が悪いそうでコルセットを装着していて、そのせいでアヒルのようにひょこひょこと歩く。年齢は亜紀さんと同じくらいだ。
私が不服そうな目をしたせいか、深谷さんは言い足した。
「がんばるのはいいけど、あまりにも割に合わない努力は長続きしないし、そのうち疲れちゃうよ」
その時は反発を感じた。給料分の仕事などと考えていたら、この給料の安さではろくな仕事ができない。契約社員だから無責任な仕事しかできないと思われるのも悔しかったし、給料分の仕事をしているうちに給料なりの人間になってしまうのが怖かった。
そもそも「給料分の仕事をしていればいい」というのはそっくりそのまま深谷さんにこそ言いたい台詞で、この人はあきらかに働き過ぎだ。結局この部署で一番長く働いてよくわかっているのが深谷さんなので、勤務時間中はそれこそ息つく暇もなく動き回っている。私にしても入社して最初に深谷さんの働きぶりを見て、これくらいやらないと許されないのだと思って必死になっているのだ。後輩の私だけでなく、新入社員や他部署から異動になった社員も実質的には深谷さんから仕事を教わっている。なかにはあまりにも仕事ができない人もいて、この人を採用するくらいなら深谷さんを社員にしたほうがいいのにと思うこともある。
深谷さんが私とまったく同じ給料だということを知った時はショックだった。私たちの身分には昇進昇給というものがないのだ。深谷さんからしたらこれだけ働いてきて私と同じ給料というのはもっと不愉快だろうけれど、態度には出さなかった。
入社して半年ほどたったころには、私はすくなくとも深谷さんに注意されるほど熱心には働かなくなっていた。仕事が嫌になったとか、熱意がなくなったわけではない。ただ十年後に深谷さんと同じくらい有能になっていたとしても、待っているのは今と同じ待遇だ。私にはその時に不満ひとつ見せず最善を尽くす自信がない。深谷さんから最初に言われた言葉の意味が、じわじわと浸みこむようになっていた。
サッちゃんに会った時、このことの理不尽さについて、格差是正とか同一労働同一賃金とか、時事用語を使って切々と訴えた。一緒に怒ってくれるかと思ったのに、反応は冷たかった。
「でも結局それって、自分が契約だからそう思うだけでしょ。最初から正社員で就職してたら、日向子はそんなこと考えもしないよ」
サッちゃんは生命保険会社に就職した。学生時代からサッちゃんと生命保険というのはどうも結びつかなかったので不思議な感じがする。
「もともと生命保険とかに興味があったの?」
「ぜんぜん」胸を張って堂々と言う。
「よくそれで志望動機とか通ったねえ」
「そう言えばグループ面接でほかの学生はたいしたこと言えてなかった。こいつら全員蹴落としたなと思ったね」
こういうところがサッちゃんの凄いところであり、理解できないところでもある。私は今の仕事についてなら志望動機を語ることができる。亜紀さんは図書館についてもっと語れるだろう。しかし生命保険の意義について語れと言われても十秒も持たない。私が死んでも誰も困らない、ということが頭に浮かぶだけだ。
「日向子だって職種にこだわらなければ正社員になれたでしょ。みんな不本意な仕事だって我慢してやってるの。好きで選んだ仕事で待遇が悪くたって自業自得だよ。がんばれば正社員に登用されるとか甘い夢を見ないほうがいいよ」
痛いところを突かれたので、それからはサッちゃんに待遇について不満を言うのをやめることにした。
その後、深谷さんは退職が決まった。結婚退職とかではなくて、腰の持病が悪化して仕事を続けられなくなったということだった。
送別会のようなものはとくに行われなかった。最後の日、全員から花束を渡すことになり、私が代表で贈呈した。
「これからもっといろいろ教えていただきたかったです」
お別れの言葉としてそう言った。社交辞令ではなく、心からの気持ちだった。深谷さんはちいさく頷いて「本当にね」と言った。それからロッカーの荷物をまとめ、腰をかばって歩きながら会社を出て行った。