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國分さんと『エチカ』


哲学者・國分功一郎さんのスピノザに関する新著『スピノザー読む人の肖像』が発刊されてから1か月あまり。遅ればせながら、『はじめてのスピノザ』(以下「本書」)を読みました。

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000346995

主な内容につきましては、何を書いても蛇足にしかならないので、ここに述べることは控えます。ですが、17世紀に書かれた哲学書『エチカ』への取り掛かりのハードルをここまで低めてくれ、「読もう、『エチカ』」と読者をその気にさせるという点で、敬服すべき良書だと言わずにはいられません。だいたい専門家が最も専門とする分野について、それを知らない人にもわかるように解きほぐして解説することは、実に難しかったりするものです。しかし本書については、國分さん自身が出演したテレビの教育番組をベースにしていることもあるのか、枝葉末節までよく練りこまれ、説明が十分にかみ砕かれています。

ただ、noteに改めて國分さんと『エチカ』について書くまでに至ったのは、それだけをお伝えしたかったがためではありません。

私自身もかつて学生の頃、十七世紀の政治思想や哲学への強い関心があったにもかかわらず、スピノザにはなかなか手を出せずにいました。その頃スピノザはとても人気がありましたが、ほかの哲学者と違って、読んでもすぐには分からないのです。
 しかし逆にその「分からなさ」が大きな魅力でもありました。どうにかして理解したいと思ったのが、私が二十年前、スピノザを研究対象に選んだきっかけです。

本書p.6

彼が『エチカ』という大洋に漕ぎ出した時、「20年前」の國分さんを、私は当時同じ大学の研究科に所属していたので知っています。國分さんは、修士から博士になろうとしていました。私が大学院を逃げるように修了してからは会っていませんので、個人的な交流はそこで止まっています。

そして本書の1章、スピノザが自分を敵視する権力・群衆に襲撃されながら思索を深めていった、という生きざまが語られたくだりで、おや、とページをめくる手が止まりました。

哲学者とは、真理を追究しつつも命を奪われないためにはどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人間です。

本書pp.23-24

「命を奪われない」という否定表現が印象的なこの一文は、私の参照項が若き頃の國分さんしかないためか、とても意外なものに思えました。あの頃の國分さんであれば、防御的な「命を奪われないためには」ではなく、「闘うには」といったような威勢のいい言葉が飛び出ていたのではないか、と思えたためです。

思い出すのは、20世紀から21世紀への変わり目時分。駒場キャンパス旧8号館の2階か3階か、正面階段左に位置していた研究室の黒皮のソファー(合皮か塩化ビニール製だった可能性もあります)に堂々と座り、深緑のセルフレームの奥のまなじりを引き締めながら、攻撃力の高い論陣を張る哲学者の姿です。「不正なものとはさあ、断固闘わないとだめでしょ」。これは國分さんの実際の発言というわけではなく、当時の私の記憶から、当時の國分さんが言いそうだなと思った発言です。

そんなことを書いていたら、「それはちがうよ。ぼくはずっと防御重視派だよ。」という國分さんの声も聞こえてくる気がします。どうだったんでしょう、実際。今となっては確かめようがないのですが、少なくとも当時の私には、國分さんは好戦派筆頭のように映っていました。

ただそれは、國分さんの実態そのものというよりも、私自身の後ろめたさからくるバイアスに多分に起因していたようにも思えてきます。

20年前の國分さんは、哲学の研鑽に励んでいました。私は、今から思うとより明らかですが、何も頑張っていませんでした。小さな研究室には、高校の頃から古典哲学に親しんできたような、努力と才能のカタマリのような学生が高い割合で在籍していました。ここで頑張っても(すぐには)追いつけないし、だからここで頑張っても無駄な気がするし、でもこの道にいるのだから頑張らなくてはいけないはずだ。私は当時、國分さんが引用している直前のスピノザの言葉を借りれば、「過度の性急さと誤った宗教熱とのゆえに(スピノザ、畠中尚志訳『エチカ(下)』4章付録13項、岩波文庫、1951年、p89。)」、このように浅くも延々と続く言い訳を心中繰り返していました。その一方、國分さんは頑張り、頑張りを隠してはいませんでした。

さらに、私は同じころスピノザ哲学に引き込まれ始めていました。ただ必要な努力を怠っていたことから、「スピノチスト(スピノザ主義者)」を自認すらできずにいました。その一方で、國分さんは「俺最近スピノザの重要性がわかってきた気がするんだよね。」と「スピノチスト」ぶりをあっけらかんと公言していました。

そんなわけで、國分さんといると、私自身の後ろ暗さが引き出されずにはいられませんでした。そしてそれゆえに、國分さんからは「闘え」と暗に圧をかけられているような気がして、真偽はともかくも國分さんは好戦派であるという認識に至っていたのかもしれません。

実際の國分さんからは、「勉強しなよ」と言われたことは一度もありません。もちろん「スピノチスト」にとって、誰かに何かを強制することは、最も忌むべきことの一つであるように思います。なぜなら本書でいみじくも述べられているように、『エチカ』の目的は「人間の自由」に到達することであり(本書p.94)、その反対が「強制」だからです。

強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押し付けられている状態です。
 その人に与えられた条件は、その人の本質と結びついています。ですから、強制は本質が踏みにじられている状態と言えます。あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。

本書pp.100-101

しかしそれでも、目の前に自分と似た趣向であるらしいにもかかわらず、まったく努力をしていない後輩がいたら、苛立ちをぶつけたくなるのが、特に若い頃の人情であっても不思議はありません。

ところが國分さんはそうではありませんでした。

賢者とは難しい顔をして山にこもっている人のことではありません。賢者とは楽しみを知る人、いろいろな物事を楽しめる人のことです。なんとすばらしい賢者観でしょうか。

本書p.72

本書はこのとおり、『エチカ』が提示する賢者像を紹介しています。そしてスピノザにとって、「賢者」はそのようにイメージされるべきもののみならず、そのようにあるべき、実践されるべきものであり、実際にスピノザはそのような人生を歩んだ、ということが記されています。

國分さんも、20年前に既にそのような「賢者」であろうとしてきたし、また実際そのような人でした。國分さんはよく、後輩たちを当時の吉祥寺の自宅アパートに招いて、手料理をご馳走してくれました。國分さんはよく笑い、楽しいお酒もよく一緒に飲んでくれました。

哲学者・國分さんにとって、『エチカ』は「どうにかして理解」を進めるべき偉大な先行研究であるにとどまらないと思います。『エチカ』は、人生の教えでもあるのでしょう。20年前からそうだし、今もそうなのだということが、本書からわかり、その変わらない真摯な姿勢に打たれました。

20年前、学生時代には、私の不勉強と臆病によりかないませんでしたが、今このように本書を通じて、國分さんから『エチカ』について教えを頂けることは大変ありがたいことだと感じています。

本書を導きの糸として、私も今後ともより一層、スピノザの教えを実践していきたいと思います。

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