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変な人はだいたい自分のことを「普通」だと思ってる説

ある程度人生を生きてくると本当にさまざまな種類の人と出会ってきたなと思うことがある。つくづくと。

「この人は実に立派な人だな」と感嘆の声を漏らすこともあったけれど、中には「この人ほんと変わってるよなー」としみじみ思う人もいた。でもそういう変な人は「自分は至って普通な人間だ」という静かな確信に満ちていることが少なくない。逆に「自分は変なことしてます!」と果敢にアピールしてくる人は内面は恥ずかしいほど生真面目で、そんな地味な自分にお化粧するために「変な人」というレッテルを自分に貼ってることも多い。そしてそんな「変な人」としてのアイデンティティーを周囲に認めさせるべくあの手この手を使ってがんばってるというケースが散見されるのだ。

ぼくの経験上、ほんとに変なやつというのはナチュラルにすごい変なことしているのに「ん?なにが?」となにも気づいていない様子なのである。周りから見るとアホすぎるように見えたり大惨事が起こっているようにも見えたりするのだけれど、当の本人は「今日もいい朝だ」なんて清々しく空を見渡していたりする。そんなわけで変人な彼らは今日も予定通り「変な一日」を過ごしていくのだ。

中目黒の銭湯で

日本に一時帰国したときのこと。ぼくは中目黒の銭湯にいた。中目黒には昔住んでいたので「懐かしいなー」と思いつつ、湯につかる。ぽかぽかと温まる。

隣の「炭酸泉」とかかれたお湯に30代前半ぐらいの若々しい男がつかっている。正方形のかたちをした広いお風呂の隅っこにひとりぽつんと座っている。膝を抱えるようにして肩下ぐらいまでお湯にひたっていた。

この男、肌もツヤツヤしていて髪の毛も健康的に黒く太く男らしい。さわやかな成年男性と言っていいだろう。仕事も出来そうだ。

でもどういうわけか彼の周りには誰もお湯につかっていない。まあまあ混んでいたのにもかかわらず。彼の周りにだけ違和感を感じさせるレベルでぽっかりスペースがある。

なぜだろう?そう思ってバレないように彼をじろじろ観察してるとそれは起こった。

あぁ〜〜〜↑

彼は目をつむりながらぽかんと口を開けたまま、そう声を発した。小さい声で、それでも低く、野太く、響き渡る声で。すると彼の魚みたいな口からこう聞こえてくるではないか。

あぁ〜〜〜↓

今度は語尾が下がっている。なんだか落胆するような声色でそう言い放った。

これを7秒に1回ぐらいのペースで交互に繰り返すのだ。うるさいったらありゃしない(笑)。その銭湯に居合わせた素っ裸な男たちは全員こう思ったに違いない。

この男、ぜったい変なやつだ

でもそんなことはお構い無しに彼は恍惚な表情を浮かべながら「あぁ〜〜〜↑」と「あぁ〜〜〜↓」を繰り返している。ほんとに幸せそうな顔なのだ。それを見てるとなんだか憎めないというかなんなら可愛げもある。だから周りも「やれやれ」みたいな感じであっさりスルーしてる。

きっと彼自身の理屈から言うと「お湯が気持ちいいから思わず声が出ちゃう。それは普通なことだ。」ということなのだろう。それはまあ理解できる。

でもやっぱりどう考えても変なやつだなーと思う。やれやれ。

変な人の正体

理由を考えてみた。なんで変人は自分のことを普通と思っているかについて。すると自分なりの結論が出た。

変だと思われている人は自分の中の「普通」を守っているだけなんじゃないか。すべての人は生まれながらにして「ぼくはこう思う」とか「わたしはこう感じる」という自分なりの感覚を持っている。でも生きていくなかで社会とうまく折り合いをつけるために「自分なりの普通」と引き換えにいわゆる「常識」を受け入れていく。そうこうしているうちに「自分が普通と思うこと」ではなく「周りから見て普通だと思われること」に重きを置くようになる。

変な人は周りのおとながなんと言おうと「自分なりの普通」を律儀に守っている。そういう意味でケガレのないピュアな人種こそ「変な人」の正体なのかもしれない。

でもある意味で変な人は"パンク"な人とも言えるかもしれない。なんてたっていつだって社会の常識やしきたりに真っ向から逆らったりするのだから (意識的にせよ、無意識的にせよ)。だからこそ変な人が新しいものを作ったりするわけで。

変な人に対する興味は尽きないですねー。ぼくだけでしょうか。あぁ〜〜〜↑。


クールでホットな演奏

今日はそんなところですね。ここまで読んでくださりありがとうございました。

シアトル美術館にて。ご機嫌なジャズを聴きながら。

それではどうも。お疲れたまねぎでした!

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福原たまねぎ
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