レゴの贈り物 -ぼくの仕事の原点-
みなさん習い事ってしてましたか?ぼくはしてました、人並みに。プールや公文 (KUMON) に精を出していた…とは言わないまでもそれなりにやっていた記憶がある。小さい頃ってなんだか大人になる通過儀礼のようなものとして習い事が存在していた気がする。そんな習い事の一つにとても思い出深いものがある。
小学校1年生だったか2年生だったときのこと。ぼくはエレクトーンを習っていた。エレクトーンとは電子オルガンの一種で鍵盤が上下段に分かれて並べられていて足元にたくさんのペダルが配置されている楽器だ。平たく言えば「ピアノをもっと複雑にしたようなもの」ということになるのかもしれない。あのクラシックで厳かな佇まいに飽きたピアノがある日グレて (そんな日があるかは別として) 奇天烈なファッションを身に付けた。そんな風に見えなくもない。ぼくだけかもしれないけれど。
一体全体あんな複雑な楽器をなんでぼくが習っていたのか。その答えははっきりとしている。ぼくは父親の転勤で当時オーストラリアのシドニーに暮らしていた。もう20年以上も前の話だ。家族でいくつかの家を転々としていた。そのうちの一つにだだっ広く古ぼけた家があり、そこには趣のある家具がいくつかそのまま残っていた。エレクトーンもそのうちの一つだったと記憶している。
母親は「エレクトーンがあるなら活用しない手はない」と思ったのだろう。それからぼくは毎週水曜日にエレクトーンを習う羽目になった。学校を終えて家に帰るとその先生は毎週やってきた。
ぼくのエレクトーンの先生は日本人の女性の方だった。30代半ばぐらいだったと思う。黒髪のショートヘアと和な感じの素朴な顔立ち。頭のかたちは洋梨のような輪郭をしていて、シュッとした目をしていた。きれいな人だった。
先生の名前は覚えていない。なんでオーストラリアに住んでいたかという事情もよく知らないし母親とどんな繋がりがあったかも分からない。だけど、ぼくは優しくて明るい先生のことがとても好きだったということは覚えている。
それなのにぼくはエレクトーンの授業が大嫌いだった。こんな奇天烈な格好の楽器で「ピ〜〜〜」みたいな音を出して一体なにが楽しいのかぜんぜん分からない。それは音楽を奏るというよりも宇宙人に信号を送っているようにしか見えなかった。なんでこの先生は人のうちに転がり込んで宇宙人とのコンタクトを試みているのだろうか。火星人に、いや木星人に親戚でもいるのだろうか。こっちはまだ宇宙人とファーストコンタクトする準備も出来てないっていうのに…とぼくはいつも怪訝な面持ちだったことだろう。
先生は授業中によく鍵盤を一つ「ピ〜〜〜」と鳴らして「この音なんの音か分かる?」と質問してきた。そんなの分かるわけない。ぼくはあごに手を当ててひときしり考えるフリをした後に真剣な表情で「…シ?」と聞くと「違うよ、ファだよ」とすかさずレスポンスが返ってきた。全部テキトーに答えていたから全部外していたと思う。そんな感じで授業中はふざけ倒し、出された宿題もろくすっぽ手をつけることはなかった。その度に先生は「なんで宿題やらないの?」と優しく聞いてきたけど全部聞き流してやり過ごした。そんな時も先生はプリプリと怒るようなことはなかった。いつもちょっとだけ悲しそうな顔をしていたけれど。
ぼくはその当時レゴにハマっていた。あのカラフルなブロックで人間や城、それに車や飛行機なんかを組み立てたりするおもちゃだ。バラバラになったレゴのブロックを床にばらまいて「さて今日はなにを作ろうかな?」と思うと心の底からワクワクした。創作意欲のマグマがふつふつと湧き上がってくるのが自分でも手に取るように分かった。
レゴのセットでパイレーツ・オブ・カリビアンっぽい海賊船を作ったりスターウォーズの宇宙船を作ったりした。そしてそこから自分なりにアレンジして空飛ぶ円盤を組み立てたり飛行機みたいに飛べちゃう車なんかを作ったりした。ぼーっとしていると気付いたらレゴのブロックが2, 3個口に入っているということもしばしばで、何個か胃袋にも転がり落ちたことだろう。そんなこんなで文字通りレゴはぼくの体の一部となっていたし、ぼくにはなくてはならないものだった。
「レゴを作るのに忙しいんだからエレクトーンなんかやってられない」そう思っていたと思う。そんなこんなでいい加減にエレクトーンの習い事を済ませ、無我夢中でレゴにかじりつくという日々が1年ほど続いた。
そんなある日のこと。その知らせは突然にやってきた。
先生が辞めることになった。その事実を母親はさらっと事務的に伝えてきた。ぼくはそれを聞いて「えー!」と声に出して驚いた。なんで辞めるのか。聞いたところによると、どうやら子どもが出来たとか日本に帰国することになったとかそんな理由みたいだ。そこの詳細は覚えていない。だけれど理由はともかく先生が辞めるというニュースはぼくを少なからず動揺させた。あのテキトーに音を当てるゲームも、宿題を鮮やかにスルーすることも出来なくなってしまうではないか。子どもにとってすべての別れが重く決定的であるように、先生との別れはグサっとぼくの心を刺した。
先生との最後の授業が迫っていた。先生が辞めると知ってからというもの、ぼくは深い罪悪感に苛まれた。練習をまじめにやらなかったこと。先生の期待に答えられなかったこと。過去の授業を思い返せば思い返すほど、救いようのない気持ちになって罪悪感で胸が締め付けられた。
幼いなりに「なんかしなきゃ」とぼくは思った。ぜんぜん罪滅ぼしにはならないけれどこんなダラシのないかたちで先生と別れるのはイヤだ。さてどうしようか。
少し考えた後、すぐに思いついた。
ぼくは床に転がっていたレゴのブロックを目の前にかき集めた。そして一心不乱になにかを作り出した。それは黒と白のシンプルな色で出来た洋式の乗客船だった。「ぽっぽー」と陽気な汽笛が鳴り響き、青と白の縞々の船乗りが乗っていそうな船だった。なんとなく「先生の大事な門出なんだ」ということが頭の片隅にあったから船を選んだんだと思う。ぼくは作っている最中に「ぜんぜん真面目に練習しなくて申し訳なかったな」という思いでいっぱいだった。「なんであんなにテキトーにやっちゃったんだろう」と思うと涙が込み上げてきた。罪の意識に押しつぶされそうになりながら、ぼくは一生懸命ブロックを見つめ一つ一つ積み重ねた。
最後の授業の日。授業はなんだかとてもさらっとしたものだった。ただ先生と他愛もないことを喋ったことを覚えている。先生が今日で最後ということは分かっていたけれど、あんまりそのことについては話したくなかった。そんなこんなをしているうちにあっという間に授業は終わってしまった。
この日は最後ということもあって授業後に母親と先生はリビングでお茶をした。ダイニングテーブルには苺のショートケーキが真ん中に置かれ、ポットには濃いめの紅茶が入っていた。ぼくはそこには混じらず隣の部屋でなにをするでもなく会話に耳をそば立てていた。「今までお世話になりました〜」的な会話に花が咲いていることはなんとなく分かった。
ぼくはあのレゴの贈り物を持っていた。どこで渡そうかなと思案していた。でも今更どの面下げて渡せばいいんだろう。渡したところで「不真面目な子だった」という印象は変わらないだろうし、第一レゴのおもちゃなんか渡して一体なにになるのか。考えれば考えるほど虚しくなってきた。
そうこうしているうちに「ではそろそろ…」という感じでおしゃべりが終わりを告げようとしていることが分かった。もうあれこれ考えているヒマはない。今だ。
意を決してドアをガチャンと開ける。
と叫んだ。先生は「え?」という顔をした後、そのレゴの贈り物を手に取ってじっくりと見た後にこう言った。
先生は笑っていた。その顔は太陽に顔を向けてパッと元気に咲くヒマワリのようだった。底抜けに明るく眩しかった。人間が笑うってこういうことなんだなって思った。
ぼくはその笑顔を前にしてハタと気付いた。「あ、自分が作ったなにかで人を喜ばせることが出来るんだ」と。
先生が内心ではどう思っていたかは分からない。ぜんぜん練習に身が入らない子どもを前に「このガキンチョが」と思っていたかもしれない。もしくは「まあそんなもんだろう」と達観して仕事の一部として受け入れていたのかもしれない。ただあの笑顔にはそういった事情はさておき「わざわざ私のために作ってくれてありがとう」という純粋な驚きと喜びが溢れているように見えた。少なくともぼくには。
そして紛れもなく、ぼくにとっては「はじめて自分が作ったもので人に喜んでもらった」という掛け替えのない経験になった。
その後プログラミングに目覚めて天才エンジニアとなった…みたいなストーリーだったら完璧なのだけれど、人生はそんなうまく運ばない。ぼくはそれから大人になるにつれて自然とレゴとも距離を置くようになり、普通に学生生活を送り、普通に就職をした。
それでも今ぼくがアメリカで、Amazonの本社でセールの機能を開発してリリースするときにふと思い出すのだ。あの鍵盤から飛び出す「ピ〜〜〜」という音と、レゴで作った船のおもちゃと、そして先生のひまわりのような笑顔を。Prime Day (プライムデー) で、もしくはBlack Friday (ブラックフライデー) でAmazonのセールを買ってくださるカスタマーのことを思い浮かべる度にぼくはあのエレクトーンのことを思い出すのだ。
これでこの話はおしまいです。今日はそんなところですね。
それではどうも、お疲れたまねぎでした!