福田屋ものがたり 〜歴史紐解き編〜 第3話 (新着!)
JR新今宮駅の高架のそばに立つ、昭和感あふれる福田屋本館。
歴史紐解き編、長い間お待たせ(?)してしまい申し訳ございませんでした。再開いたします。
前回(第2話)で、昭和初期のインフラ整備によって、福田屋の建物がカットされたというところまで見てきました。第3話では、昭和の戦争を経て、戦後の復興期を見ていきましょう。今回も、大阪公立大学特任教授の水内俊雄さんにお話しを伺いながら進めます。
水内 前回最後の写真が昭和17(1942)年の航空写真だった訳なんですが、昭和20(1945)年の大阪大空襲で、大阪は一面焼け野原になりました。終戦から3年後の空中写真を見ても、まだまだ焼け野原なのは一目瞭然です。しかし、福田屋さんは焼け残ったんですね。
↓が福田屋本館。左の写真で分かるように、尼平線(都市計画道路)と関西線線路に挟まれた区画、北側は中山太陽堂の本店、工場とともに焼け残りました。右の写真、左上から右へ続く関西線線路の南も北も、ほぼ焼失したと思われる。対して、右中ほどから左下へ続く南海天王寺支線の南側にある山王地域は焼け残り、長屋でぎっしり。しかし、左の大写真で見ると、戦後3年、尼平線南側、紀州街道沿い、堺筋沿い、萩之茶屋地区中央部(商店街)には新たな建物が建ち始めています。
柳本 すみません、その前に。新しい資料が出てきました。昭和初期(昭和5年?)、福田屋さんの建物の減築前の住宅地図です。
柳本 前回、福田屋さんの建物が都市計画で減築というお話をさせていただいてたのですが、実は福田屋さんは以前は天ノ屋さんという旅館だったんですね。現・女将さんからそのお話は聞いていて、それがはっきり分かるのがこの住宅地図です。減築の資料に、建物は昭和4(1929)年建築とありましたので、昭和5(1930)年はまさに新築当時なわけです。楔(くさび)型の道に沿って建っているのがよく分かります。新築年が昭和4(1929)年なので、前回の昭和3(1928)年の航空写真に写っている建物は、この「天ノ屋」さんの建物ではないということになりますね。訂正してお詫びいたします。そして、この後、都市計画道路と地下鉄建設のため、減築されるわけですね。そして、大きな道路と線路に挟まれたがゆえにか、空襲では焼け残ったと。数奇な運命です。
水内 昭和21(1946)年に、復興の都市計画が決定され、昭和22(1947年)には、この萩之茶屋工区の復興土地区画整理事業が計画決定されました。ここにきて、前にも触れましたが、大正時代に耕地整理が行われなかった地域、すなわち明治後期~大正期の市街地化が早かった地域に区画整理が行われることになったんですね。
柳本 皮肉にも。。というやつですね。。
水内 福田屋さんは道路の北側にあり、焼けていなかったこともあり、区画整理の対象からは外れています。この復興土地区画整理事業で、尼平線はさらに拡幅が計画されています。幅員24メートルから40メートルです。福田屋さんのある北側ではなく、南側に16メートル拡張される計画です。
柳本 昭和26(1951)年に、女将の先々代の河合福由氏が、敷地の地主さんと借地契約を交わしたという記録があります。また女将のご主人のお兄さんが、昭和20年からこの地で父福由氏とともに稼業に従事という記録もあるので、現在の福田屋さんが前所有者から旅館を買い受けてこの地で営業を始めたのはまさに戦後すぐということになりそうです。
水内 これは、昭和31(1956)年の住宅地図ですが、もう建物がビッシリですね。
柳本 福田屋本館は、昭和32(1957)年に、今の建物に改築されています。旅館の玄関は、もちろん、都市計画道路(尼平線)に面しています。ただ、家族の玄関は、先の建物を踏襲して西面に設けられています。今はない建物の記憶が形として受け継がれているという感じがします。
水内 このあたりのことでいうと、戦後の復興期に、省線の関西線(昭和24(1949)年から国鉄)の線路と紀州・住吉街道の交わるあたりから阪堺鉄道の南霞町駅(今の新今宮駅前駅)にかけて、闇市的な店舗の密集と労働者の寄せ場の原型のようなものができたと聞きます。日雇い労働者のための施設である西成労働福祉センターは、昭和37(1962)年に開設されたのですが、それに先立って、労働行政当局が寄せ場の現地で日雇い労働市場の調査をしたと聞きます。その時に、調査員の方が福田屋さんに泊まり込んで調査をしたという話なんですね。
柳本 ああ、そんなところに福田屋さんが出てくるんですね!
水内 昭和39(1964)年、国鉄大阪環状線のみに新今宮駅が設置されました。そして、昭和41(1966)年に、南海電車にも新今宮駅が設置され、国鉄と南海の直接乗り換えが可能になりました。関西線列車は昭和47(1972)年に電化されてようやく新今宮駅に停車するようになりました。
柳本 鉄道じたいは、明治18(1885)年から今の南海、明治22(1889)年から今のJRが、この地を通っていたのに、なんと80年近くも駅がなかったんですね!
水内 明治時代、先に敷設された南海の上をまたぐように今のJRが盛り土の上を走り、昭和13(1938)年に南海が高架化して、今のJRのさらに上を走ったその時も、列車はこの地を素通りしてたんですね。
柳本 福田屋の女将さんから、福田屋本館の裏の鉄道の土手をよじ登って行き来する人がたまに列車にひかれ、その菩提を弔うお地蔵さんがその場所にあったという話を前に伺いましたが、それは明治~大正の話だけでなく、新今宮駅が出来る昭和30年代までそんな状態だったということだったんですね。なんだか驚きです。
水内 昭和35(1960)年封切の大島渚監督「太陽の墓場」では、この盛り土の関西線を走る蒸気機関車が登場し、盛り土をよじのぼってその線路を横切ったり、ここで轢かれる、バラックが焼かれるなど、殺伐とした盛り土部分の光景を効果的というか、露骨に描写しています。南海の高架が壁のように存在するとともに、鉄道は、駅ができるまで、単に壁でしかなかったようです。福田屋さんはその壁の盛り土を背景に、逆に界隈性を維持していたのかもしれません。先ほど昭和37(1962)年に西成労働福祉センターが設立されたと言いましたが、釜ヶ崎といわれるこの地域で、はじめての暴動が起こったのが昭和36(1961)年でした。昭和25(1950)年からの朝鮮戦争を経て、戦後の好景気(昭和31(1956)年の岩戸景気など)の時期に、焼け野原から密集長屋や木賃宿が立ち並んだこの地に、労働者が仕事を求めて全国から集まってきていたんです。
柳本 今回は、住宅地図や写真を色々見ることもでき、福田屋周辺の戦後の復興期の様子が少し分かりました。復興期から高度経済成長期にかけてのお話はまだまだ続きます!この地域にはどんな人たちがいたのか。次は、人々の姿を通じてこの地域の実情に迫りたいと思います。