南三陸・震災を風化させないための「語り部バス」に乗りました
「2011年3月11日の震災から13年」
静かに津波の写真を掲げながら、ゆっくりとした口調で、語り部バスツアーが始まりました。
2011年3月11日、みなさんは、どこにいましたか?
私は仕事で大宮にいて、帰宅難民となっていました。
駅前のビジネスホテルの大広間で、毛布1枚をお借りして夜を過ごし、すごく寒かったのを、いまも身体が覚えています。
その日はテレビもなく、ネットもつながらず、自分のことで精いっぱいでした。現実を知ったのは、翌日以降でした。
「知る」ことの大切さ
語り部バスは約60分。宿泊した南三陸ホテル観洋を出発し、戸倉地区→高野会館→防災対策庁舎をまわって、帰ってくるコースです。南三陸町は、死者620名、行方不明者211名。たくさんの命が失われた地域です。
バスから見える、なにげない景色の、1カ所1カ所に、たくさんの人たちの暮らしや、思い出が詰まっていることを教えていただきました。
写真の地域も、知らなければ、ただ通過してしまったと思いますが、海から近いこの地域に、当時は100世帯以上の方々が暮らしていたそうです。
この地域にあった小学校と保育園。全員、津波の前に逃げることができて無事だったそうです。先生たちは、交通量の多い、大きな道路を越えた先の高台まで、小さな子どもたちを連れて逃げました。
関東の方からやってきた校長先生と、この地域で生まれ育った先生たちとの間で、学校にとどまるか、高台に逃げるかといった意見の対立もあったそうですが、この日の地震の大きさに、校長先生も「高台へ」と即判断。
たくさんの、小さな手を引き、坂道を駆け上がる、泣きながら・・・
語り部さんは、淡々と起こったことだけを語りますが、その緊迫感、緊張感に、胸の奥が苦しくなりました。
あの日、多くの人の「判断」によって救われた命と、逆に誰も悪くないのに失ってしまった、たくさんの命があることも知りました。
戸倉中学校
いまは、公民館になっていますが、当時はこの地域の「避難場所」でした。地震直後からたくさんの住民の方がやってきて、中学生たちは、避難してくる人たちを迎え入れる側として活動をしようと思っていた矢先、津波は、この避難場所にまで押し寄せてきたそうです。
しかも、海側と、山側の、2方向から流れ込んできた津波。おじいちゃん、おばあちゃんたちの手を引き、裏山への避難がはじまります。
両方向からの津波に挟まれてしまい、逃げる場所は、高台、というか山。
整備されていない山をはい上がることは、自分だけ登るだけでも困難なのに、中学生たちは、おじいちゃん、おばあちゃんを押し上げるように、泥だらけになってがんばったそうです。
目の前で、つかめなかった手もあった・・・という話も聞きました。
「そういえば、このようお話しを、テレビやネットで見たかもしれない」とふと思いだしました。でもね、この場所に来て、当時の中学校の前で、薄暗い裏山を見ながら話を聞くことの臨場感、恐怖。身体が固まりました。
逃げた後には、雪。そこでの現実も壮絶でした。裏山にある小さな神社。狭いお社に入ることができるたは、お年寄りと小さな子どもだけ。小学生の高学年以上は、外で、一晩を過ごします。泣いてしまう子も多いなか、卒業式で歌う予定だった、川嶋あいさんの「旅立ちの日に・・・」をひとり、またひとりと歌いながら、寒い夜を過ごしたという話を聞きました。
高野会館
芸能発表会というイベントに来ていた、高齢者の方327名と、わんちゃん2匹。無事に命をつなぎました。
その裏では、責任者の「屋上への避難」の決断と、それを実行するためのスタッフの方たちの行動力がありました。スタッフの方たちは、外に逃げたがる高齢者の方を館内にとどめるために、玄関で全員で後ろ手を組み、壁を作り「全員屋上へ」と誘導したそうです。前例のない「判断」をしたこと、正しいのか不安のなかでも、その判断を信じ、実行しようとしたこと、勇気、決意、覚悟、いろんな言葉が浮かびましたが、ほんとうは、恐怖・・・想像もできません。
防災対策庁舎
この写真は、昨年2023年10月に「南三陸311メモリアル」を訪問した際に、撮影した写真です。バスツアーでは、時間の関係で、バスの中から説明を聞きました。
有名なのは、最後まで避難を促した未希さんのお話しですが、このお話しは改めて書きたいと思っています。未希さんのお父さん、お母さんに会ったお話しとして。
バスツアーでは、未希さんの話だけではなく、ここで起こったさまざまな出来事をお話しいただきました。この建物を残すか壊すかの議論でも、多くの人と思いがあり、残すことになった今も、ここを訪れて手を合わせる人もいれば、あれから1度もここに来ることができない、そんな悲しみを抱えた人もたくさんいるそうです。
防災対策庁舎。短い時間では語りつくせない、聞ききれない、とても受け止められそうにない、いろんなことが詰まった建物だと思います。 ここで、この日、13年前のお話しを聞いたこと、とても貴重な体験でした。
語り部さんが言っていた。
「13年たったから、ようやく話せることがあります」
「13年たったからいいよねと、住民の方がようやく見せてくれた写真もあります」
「ほんとうは、みなさんにどんどん写真をとって拡散して、多くの人にしってほしいけど、ごめんなさいね。撮影してほしくない写真もあります」
ひとつひとつのお話しにも、1枚1枚の写真にも、その背景があって、いろんな人の気持ちが詰まっていて、ネットでさっと読む表面的な話とは違う、奥行きというか、深みというか、怒りというか、悲しみというか、いろんなものが詰まっているのを感じました。
60分の語り部バスツアー。おなかの奥が、ぎゅっとつかまれ、忘れられない記憶となりました。
最後に、語り部さんの言葉。
「これから先、また大きな津波が起こるかもしれません。私たちは、なにをすればいいのでしょうか? 高い防波堤を作ればいい? 最新の技術で防げるかもしれない? 違います。津波のときは、逃げることしかできません。
”つなみ、てんでんこ”
自分のことは自分で! 自分がまず逃げること。大切な家族を守るためには、津波のときは高台へ!を日ごろから教えて、家族を信じることしかできません。津波は、自然は、そういうものです。
語り部バスツアー。私たちはこれからも続けていきます。
知ることが、未来を生きる誰かの命を救うことになる、そう信じているから。