『麻雀漫画50年史』を読んで その2
「その1」を書いてからずいぶん経っちまいましたけど、この本の良かった点を語っていきます。鬼の執念で調べてる以外の部分を。今回も形としては有料にするけど、最後まで無料で読めるようにしておきます。
事実ベースに語りつつ踏み込む
漫画を論評するときって、つき詰めると、面白かったorつまらなかったになっちゃうわけだけど、ただそう書かれても、読者にとっては何も参考にならない。どういう部分がどういいのか書いてもらわないと、追体験する手がかりにならない。
何かを説明するプロの人って、主観語じゃなく客観語を使うトレーニングをしてるもの。あそこのラーメン屋はめちゃ美味しいと言われても、それはお前の主観だろって話になるけど、行列が20人いたと事実を提示したら、単なる主観であることは乗り越えられてる。
とつげき東北紹介
具体的には、たとえばとつげき東北という人の人物紹介↓
文章が凝縮的で読みやすくはないけど、単なる好き嫌いではなく、こういうことをする人ですよってのを具体的に説明してる。
とつげき東北といったら麻雀漫画を語る上で欠かせない人物……なのかどうかは疑問だけど、この部分はよくぞ書いてくれました(≧▽≦) 情報商材の画像も貼っておこう。
さて、そんな私怨的な話はいいとして、漫画の評論って客観ベースで語ることが難しいほうのジャンルじゃないかと思う。本書はそれも上手い。プロのライターとして立派なもんだと思う。
それでいてしっかり踏み込んでおり、つまらなくなってない。ただ事実だけを書く論文調だとつまらないでしょ。
自分が何十年も前から愛読してる漫画って、なかば自分の一部じゃん。その面白さのキモを説明するのって難しいよ。表面的なことしか言えなくなってしまうのが普通だ。これは自己客観視の一分野になるんじゃないかと思うけど、軸がぶれることなく、自分の言葉でしっかり説明されている。
来賀友志論
これ↓は来賀友志さんのデビュー作について。
来賀さんを語るとき、普通はこんな誰も読んでないデビュー作は持ってこねーよ。そしてこんなふうに説明できない。「狂気の迫力」というのがキーワードやね。
続いて、出世作『あぶれもん』について↓
「面白い」と思ってるものを同時に「狂ってる」と思うのは、愛読者だとなかなかできない。素人のほうがこういうふうにズバッと語りやすいけど、こういう本まで書くプロライターの立場になると、こんなふうに語れなくなるもんだ。
俺はできねーわ。俺の場合まず狂ってると認識できない。俺もまた麻雀馬鹿で、同じくらい狂ってるからですかね?
雑誌ベースで調べてる
ふつう漫画評論って単行本ベースになりやすい。この本は徹底して雑誌ベースなんだよね。初出は雑誌であって、単行本化されないこともあるし、部分的に単行本未収録みたいなこともある。事実を調べるためには雑誌ベースであることは正しい。
ただね、読者の立場からすると、今から雑誌ベースで読むことは国会図書館に通わないと不可能だから、そんなこと言われたってという部分もある。
たとえば灘麻太郎。プロ連盟名誉会長だ。
という人物評はうなづける。灘さんはそういう人なんだよな。それはいいとして、困ってしまうのはその続きだ。
とある。著者でも読めてないものをおすすめされても、いったいどうやって読めというのよ? 国会図書館にもないんでしょ。世の人はあなたみたいに麻雀漫画に人生を捧げてないんだよ。
死亡宣告したのに平然と生きてた雑誌
面白かった箇所。
どーよこれ。面白くね?
昔は何もかもがテケトーだったから、Aを休刊にしようか、いや、Bを休刊にして、Aはもうちょい生かしておこう、みたいな感じかね?
こういう「よく調べたなあ」という話があちこちに出てくる。
あらすじと実際の内容が違っている
太古の昔に麻雀漫画を出してた出版社のうち、桃園書房の最大の特徴はクオリティーの低さだという。同時期の秋田書店、竹書房、芳文社などに比べて出来が一段落ちる。
そこまではいいとして、単行本のカバー折り返しに書いてあるあらすじが、実際の内容としばしば異なっているのも謎の特徴だという。『麻雀地獄変』(原作:習志野浩、作画:宮本ひかる)のカバー折り返しに書かれてるあらすじは以下↓
昔の時代劇をそのまま麻雀に持ってきた感じですな。
これが実際に中身を読んでみると、主人公・神沢は流浪の途中で風狂流三郎と出会って弟子になってるし、風狂の弟子は神沢含めて3人しかいないので「風狂四天王」などという言葉は登場せず、「師のやり方に異を唱えた神沢は風狂四天王の地位を追われ」という展開もないという。
すごくねーか、このいい加減さ。
と書かれている。そんなもんを調べに調べ尽くしてる面白さだ。
カバーと中身は違う工程だから、別の人が担当なんだろうね。こんな内容だって電話で伝えただけとか、中身を担当した人が記憶だけで書いたとか、そんな感じ?
誌名変更やらなんやら
内容は面白いんだけど、カッコの中をそんなに長くした文は読みにくいよ。
『逃げない流儀』は許せねえ
著者は麻雀漫画愛がめちゃくちゃ強く、先人をめっちゃリスペクトしてる。その結果、麻雀漫画をたいして読まずに評論を書いてる人や、自分勝手に記憶を書き換えてしまった人には怒りをにじませる。
竹書房元会長のインタビュー本があるのよ。今の社長たちに電撃的に解任されてしまった人。この本は元会長の一方的な言い分だけ書かれてて、裏をまったく取ってない。なので、自分が上手くやったように記憶が書き換わってる部分が非常に多い。
著者は麻雀漫画の黎明期を作った他の先人たちをリスペクトしてるから、この本が許せないようで、この本は信用できないと4回も書かれてる。他に4回も書かれてるのは北野英明の失踪くらいだろ。どんだけ許せないのよ。
1回目↓
2回目↓
3回目↓
4回目↓
著者はお怒りです
「麻雀漫画はどのように評されてきたか」というコラムが90年代編、00年代編と2つある。この2つとも怒り系なんだわ。
えーかげんにせい!と叱られているのは、90年代編では『別冊宝島』257号『このマンガがすごい!』(最近でも売ってるやつとは違う)、『マンガ地獄変』シリーズだ。00年代編ではコラムニストのブルボン小林(長嶋有)の『マンガホニャララ』と、雑誌『BRUTUS』686号「ブルータス30周年企画 ポップカルチャーの教科書」の「マンガ」の項。
いちいち説明しないけど、ようするに、麻雀漫画をたいして読みもしないで、適当な図式をでっちあげてわかったような論をぶつのはやめい!という話ですな。
とお怒りだ。世の麻雀漫画をすべて読み尽くしてきたような著者に叱られたら、誰も反論できねーよな(==)ウム
ちなみに俺も『マンガ地獄変』シリーズは読んだけど、あんまわかってないんだな以上は思わなかった。麻雀漫画愛の違いですかね。
あと『別冊宝島』257号『このマンガがすごい!』の続巻となるやつでライターをやったんだわ。あの編集体制だと、そういうことは起きるわって感じ。
批判を公開したことで怒りを鎮めていただき、ブルボン小林を襲撃したりしないでいただきたい。
まーマジレスすっと、「麻雀漫画はどのように評されてきたか」の2つは不要ですね。コラムとしては「漫画における麻雀表現」みたいなやつをもっと増やせば良かったのに。
本書の評価ランキングは信用しすぎないように
著者の作品評価には押しつけがましさはない。自分の好きなやつを激推しし、好きじゃないやつを外すようなことはしない。
それでもね、著者も奇人変人の類であり、この本の評価をうのみにすると、世間の評価とは食い違うよってことも言っておきたい。作者の好みは人間ドラマにあり、それにプラスして漫画としてかっとんでいるものも高く評価する。世間の評価というものはもっと単純な王道寄りで、かっこいい主人公が麻雀強くて勝つという単純な話になる。
この本で傑作とされていながら、単行本の刊行が途中で止まってしまったり、最初から単行本化されていないのは、売れなかった(売れないと予想された)からだ。
一番の例はこの本で最高傑作とされている『麻雀蜃気楼』だ。マジで売れなかった。来賀さんの古い作品では、おぼろな記憶なのだが、最初の版の1巻目の実売数は『あぶれもん』が5万部、『てっぺん』が1万5000部、『麻雀蜃気楼』は8000部くらいだったように思う。ガチで人気なかった。
俺も個人的には『麻雀蜃気楼』は傑作だと思うけど、世間的な評価が高いかといったら、それは価値観による。竹書房がコンビニコミックを出しまくってた時期に、竹書房の出す作品を決める権限ある人に、『麻雀蜃気楼』は出さないの?と聞いたら、あの絵柄はぼくも読めませんと返事された。面白い面白くない以前に絵柄が暑苦しすぎて読めない人が多いんだよね。
と書かれてるけど、今ひとつというレベルじゃなかった。
こちらも傑作とされてる『凌ぎの哲』の単行本が途中で止まったのも売れなかったから。売れてたら出すに決まってる。
『ジャンロック』が単行本化されていないのは少し違ってて、作者本人が下品すぎたと単行本収録に前向きでないと聞いたことがある。
真面目に帯を作れよ
じつはね、本書を最初に目にしたとき、この帯に、なんだこの素人編集は?と思った。
一番でかい字の「だから楽しい」って何を言ってるのかわからない。この本は楽しいですよ、だから買って読みましょう!と言われても、それはお前の主観だろ!となってしまうから、面白さを客観語で語らないとってこの記事の冒頭で書いた。悪い見本になってる。
その後、このポストを見て、さらにお口あんぐりとなった。
遊びかよ。そういうのは同人誌でやれ。
だいたいね、題名とか帯とか表紙ってのは著者が考えるものじゃない。著者は書く人であって売る人じゃねーから、売ることに関しては素人に過ぎない。売る専門家である出版社の人たちが考えるものであって、著者には見せるのも不要なんだよ(見せるとゴタゴタ言い出す)。
題名と帯って本の内容を伝えるめちゃくちゃ重要なもの。ここは編集者だけじゃなく、営業の偉い人などが頭を寄せ合って考えるもんだ。文学通信がどんな出版社なのか知らんかったけど、この素人仕事を見て、本を出すのは遊びじゃねーんだぞって思ったわ。
この帯には4つの要素が入ってる。
4つは多すぎる。ゴチャゴチャして目に入ってこない。多くて3つまでだ。
1は完全に不要。こういう自己満の内輪受けは駄目。面白くもねーし。
2は重要。作品名で引っかかって手に取る人は多いはず。
3が本来なら主役だよね。「50年史」という題名とかぶるけど、どういう本なのかを一番伝えてる。
4は不要だ。
というわけで、2と3の要素だけにして、もっとシンプルに作るのがあるべき帯の姿です。
それじゃ面白くない?
遊びじゃねーんだよ!
著者にとって本を出すのはライフイベントであり、かならずしも仕事ではない。売れることよりも納得が大事だ。しかし、出版社の人は本が売れなきゃ会社が潰れて路頭に迷うんだよ。そこに遊ぶ余地はねー。真面目にやれ。
あとね、表紙全体としては、題名が白になっててパッと目に入らない。イラスト重視で、一歩下がって従う謙虚な題名となってる。奥ゆかしいのはけっこうだけど、本の存在アピールはイラストより題名なんじゃねーの?と思う。
てなことを読む前の段階で思った。
本文はよくやってくれました
でも中身を読んでみたら、これ編集担当の人はえれー大変だったなーと思った。手がかかっており、ミスがない。
赤線を引いた箇所、()内の字が少し小さくなってるでしょ。やや古典的な作法だ。俺はこれやったほうが美しいと思う。プログラムを組んで一括で処理してるわけじゃなく、すべて手作業でやってるでしょ。作業はDTPの人だけど、こういうのはミスが大量に出るから、それを潰していく編集の人も大変だ。
赤丸をつけた脚注を示す数字や図を示す数字。太字になってる。こういうのも漏れがない。
本書は図がけっこういっぱい入っており、すると文章がズレていくし、うまく収めるの大変だったはず。
著者は初稿ゲラを受け取ったとき、もうちょい削りますねと言ってたのに、戻してきたときには100ページも加筆してきた。100ページって5万字だ。ゲラの完全作り直しだよな。
普通さ、その段階では予算が決まってない? ページ数を増やすのは紙代アップになるから駄目ってならないの?
帯にはケチつけてしまったけど、中身を読んでからは、この労作をよく仕上げてくださいましたとなった。
なんか老害っぽいことをいっぱい書いちまったな。やべえ。最近はろくに本を出してないし、こんな話題の本に上から語れる立場じゃなかったわ(;^ω^)
しかも読み返してみたら、麻雀漫画論みたいな部分は来賀さんのことだけ。出版業界の昔のことや、本の作り方の細かい話ばっか書いちまった。いかん、頭コチコチの業界人になってるわ(´;ω;`)ウゥゥ
追記:
書こうと思ってて、書きもらしてたネタがいくつかあったので、それを。
俺がこの本で一番なつかしかったのはこれだわ↓
ムーンサルトリーチ。あったなーと。この本では、麻雀漫画史上最も意味のない必殺技という素晴らしい評価が下されてる。重要なのははったりだから、麻雀的な意味を真面目に考える必要ねーわ。これを読んで、実際に練習してみたやつはいるんかね?
どいーんはこういうのを考えることにおいては天才だった。他には、ツモってから切るではなく、切ってからツモるとか(『狼の凌』)。
連載の重要な部分で使うんじゃなく、読み切りみたいなやつであっさり使ってしまうのがどいーんらしい。
あと、この本で取り上げないんだなと淋しく思ったのは戸田ダイスだった。この表紙イラストの人↓
調べてみたら、ゴールドで1年間連載して以上終了だったんだな。そりゃ取り上げないか。
俺的には、この人はメジャーになっていくんだろうなーと思ってた人だったからさ。そうならなかったのが淋しい存在だった。原稿が遅すぎだったんだよな。
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