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リヒター

あと2日で終わると気づいて、慌てて前日の夜にチケットを予約して行く。
混んでいるのは、もう諦めた

ケルン大聖堂で見た、ステンドグラスがすごく好きだった。
その習作も来ていた。
ホワイトキューブのような美術館で見るリヒターはしっくりくるが、大聖堂で見るリヒターはすごかった。

今回、ビルケナウが来ていた。(写真は撮らなかった)
私には作品を見るには人が多すぎて、構成されてた空間の全体像が実際よくわからなかった。

グレイのガラスに映り込む左右対称の塗り固められたアブストラクトと、相対するその元でありキャンバスともなっているとゾルダーコマンドが撮った写真。

真ん中に立って、ゆっくり周りを見た。
ビルケナウの独立した空間の中を人が渦巻いていた。
作品は固定されたまま、その周りを多くの人がガチャガチャと通り過ぎていく。

作品のサイズから考えたら天井も低く狭い空間。グレイのガラスで視覚的に空間を引き伸ばしていたとしても、左右の絵に圧迫さえ感じるはずだ。
元々命と引き換えに隠し撮りされた写真の上、外からこっそり持ち込まれた質の悪いフィルムとカメラで慌てて撮ったためにピンボケしている。
オリジナルでもよく見ないとわからないのに、この絵と同じサイズに引き伸ばしたら、もうほとんど何が写っているかわからないだろう。
この写真こそが、リヒターの描き続けたフォトペインティングそのものだと思った。

塗り固められ削ぎ落とされ、下地となった写真(プロジェクターで写しなぞっているらしいが)を塗り消す赤と黒と白と緑と…色が強くて主張し続ける作品のはずが、完全に人に埋没していく。

グレイに映り込んだ空間の人たちは、泥の中を覗いた別世界で、音も色彩も失っていく。

リヒターが何を持ってこの作品を作ったか知らないが、
ああ、これなのかな。とも思った。

近づいてよく見ないと何が写っているかわからない元の写真、
私はこれと同じものをアウシュビッツで見た。

そのあと、アウシュビッツに取り憑かれて調べる過程でも何度も目にした。
どこで見た写真も、大概写真資料として額なく余白もなく目にしていた。

それが、ここへきて、初めて額装された写真を目にした。そして、それを少し遠目で見ることとなった。
それで気づいたのだが、
シンプルな黒い細い額に均等に十分な余白の中に写真が入ると、隠し撮られたために窓枠や木の影から撮った写真は周りが黒い影となっていて、額装した余白とその黒が均一化され、構成がものすごく美しく見えた。
真っ白い壁の中央に均等に並ぶアートピースのような写真。
リヒターの作品やそれで作った後ろにある空間よりも、この目の前の写真に魅せられた。
痩せ細った裸の人が殺され燃やされ穴に落とされるその写真を。

そのことにものすごく動揺してしまった。

展示中盤にある作品「ルディおじさん」
フォトペインティングを再度ぼかして写真を撮っている。
グレイの中に消えていく、優しく穏やかに微笑んでいる軍服の叔父さん。
冬の行軍前なのか、ドイツ軍の将校用の冬のコートをまとっている。

彼はナチスで、従軍していてD-Dayで亡くなっている。

おばさんはナチスのt4作戦の犠牲者でもある。

死や戦争というテーマに取り憑かれるにはあまりに身近だった。

美しいものを見る前に人間の本質や悲しみを見たからかもしれない。

私は現代アートの解釈がイマイチわからない、色んな講釈されても押し付けられた感想でしかないと思ってしまう。

私の感じたものは、きっと批評家や作者からは遠く外れているのかもしれない、それでもアートはそういうものだと思うので、勝手な解釈を許してほしい。

何はともあれ90歳を迎えた今でもアーティストとして存在することが、もうすでにアートである。

また、ケルンの大聖堂に行きたくなった。
やっぱりあれが一番好きだった。

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