「ハラスメント防止」から「より良いマネージメント」へ

 この文章は、2023年8月7日に富山市内の公立保育所長を対象に行われた「ハラスメント防止研修」のために作成したレジュメです。


1 いわゆる「パワハラ」について


 パワーハラスメントの定義やその捉え方は、末尾資料を参照。
 パワハラが組織全体に与えるダメージは実に大きい。
・被害を受けた職員、その周囲の職員の自発性、生産性の低下、職場の離脱
・職員全体のモチベーション、組織へのロイヤリティの低下
・職場のモラル、倫理観の荒廃
・組織の社会的評価の低下、有為な人材の獲得困難
・組織全体の柔軟性、変化対応力の喪失(恐竜化)
 特に、自らの権限を謙抑できない(力に溺れる)者を職場のリーダーに置くと、容易にこうなってしまう。
 また、同質性の高い組織(例えば、類似の経歴を有する先輩・後輩関係となる同性ばかりで構成されている)は、パワハラの温床となる。
 組織をマネージする者は、その組織を守り発展させるためにこそ、パワハラの病理を正確に理解し、積極的、戦略的に対応せねばならない。「最近世間がうるさいから、仕方なく対応する」という発想は根本的に誤りであり、そのような考え方しかできない者は、組織をマネージする資質を欠く。
 なお、パワハラ問題というと、直ぐに「どこまでがセーフで、どこからがアウトか」という線引きの問題にされてしまうが、組織のテーマは「パワハラをしないこと」ではなく、「良質なマネージメントを行うこと」にある。ぎりぎりセーフの行為をしながら良質なマネージメントができるはずがない。
 

2 パワハラ加害者の心理

 パワハラ加害者には罪の意識がなく、むしろ自らの経験に裏付けられた「正義」と思い込んでいて(「相手のため」「正してやる」という認識)、客観的な自省が極めて困難である。加害者本人の自覚により自然に改善される可能性は皆無であり、組織的かつ迅速な介入以外に、是正手段がない。
 「今日の研修は自分には関係ない」「自分はできる人間だ」「部下からも実力を評価されている」「部下が自分に従うのは当然」といった慢心こそ、最大のリスク。こういう感覚はハラスメント加害者のメンタリティそのもの。
 また、マネージャーは、プレイヤーとしての過去の経験から、「自分の若いころはもっと厳しかった」「それを乗り越えたから成長した」「負荷がないと成長しない」などと思考しがちである。
 しかし、社会科学上の合理的な根拠がなければ、ただの思考の偏り、思い込みに過ぎない。指導(コーチング)はハイレベルなスキルであり、経験や勘などで簡単にできるものではない。積極的に最新の科学的知見を学び、取り入れる必要がある。昭和の感性をベースとした指導方法をそのまま令和に再現するようでは、良く言って「怠慢」、普通はハラスメントである。
 少なくとも、「恐怖や苦痛を利用して相手に変化を起こそうとしても、効果は乏しく、むしろ弊害が大きい」ことを理解する必要がある。加えて、部下の成長のためと称して厳しく叱る上司の態度には、「叱ることの快感への依存」があるという認識も重要である。
 若い職員ほど、このような最新の知見をネットから取り入れる能力が高く、古臭い根性論を否定するロジックを容易に見出せる。しかも、人手不足社会において、公務員試験に受かるレベルの人材は、いつでも辞めて別の仕事に就くことができる。
 マネージャー世代が「昭和の常識」からアップデートできないまま、粗雑な「指導」をすれば、間違いなく無邪気な加害者となり、希少な人材が失われる。
 

3 良質なマネージメント


 組織には、達成すべき社会的な目的(パーパス)がある。
 組織の目標はパーパスの実現であり、当然ながら「ハラスメントの防止」ではない。したがって、本日の研修も「ハラスメントはしないようにしましょう」というお題目を唱えるだけで終わっては、レベルが低過ぎて意味がない。
 保育組織のパーパスは「保育による子どもの健全な心身の発達」である。
 これは、社会の成り立たせるために必要不可欠な、極めて高度な公共性を有するパーパスである。金儲けを本質とする民間企業とは本質的に異なる。
 保育組織が行う業務の全ては、このパーパス実現のために役立つか否かで評価されなければならない。
 パーパス実現のためには、保育組織を健全に運営するマネージャーが必要となり、所長・副所長、園長・副園長がこれを担う。
 マネージャーとは、マネージメントを専門に行うプロのこと。
 プレイヤーとしての経験が豊かでも、マネージャーとしての能力を保証しない。むしろ、プレイヤーとしての優秀さが、しばしばマネージャーとしての資質上の問題(各種ハラスメントの要因)につながる。プレイヤーとしての実績がある者ほど、部下に対して「何故こんな簡単なこともできないのか」「何故教えても直ぐに覚えられないのか」「何故もっと仕事に全力で打ち込めないのか」と欠点ばかりを見てしまい、苛立ちが募り、コミュニケーションの基礎である「同じ人間としての共感」が形成できなくなるのである。
 マネージャーとは、プレイヤーとしての経験の長さや、常識的な知識、先輩の真似などでできるほど簡単な役割ではなく、不断の勉強が必要になる。
 年功制組織の場合、長く勤めたプレイヤーが順番にマネージャーになっていくが、このことを当然視すると、プロになるための勉強をせず、自分の感覚だけで粗雑なマネージメントを行うマネージャーだらけとなってしまい、組織としての極めて大きな弱点となる。
 
 例えば、最低限参照すべき以下のようなテキストを読んでいますか?
内閣官房内閣人事局「国家公務員のためのマネジメントテキスト」
https://www.cas.go.jp/jp/gaiyou/jimu/jinjikyoku/kanri_kondankai/pdf/kokkakoumuin_management_zenbun_2022_6_ver.pdf
 本日は概要版を配布してあるが、直ぐに全文を熟読していただきたい。
 「心理的安全性」も知らないようではマネージャーとして明らかに勉強不足。
 

4 マネージメントの基礎はコミュニケーション


 上記の資料にもあるとおり、マネージメントの基礎は、リーダーも含めたメンバー間の活発なコミュニケーションにある。
 メンバーにはそれぞれ強み・弱みがあり、また、抱えている悩み事・困りごとも一人一人異なる。組織力を発揮するためには、それぞれのメンバーの強みを活かし、弱みや時間的制約をカバーし合うことが必要となる。
 そのためには、職場のリーダーが、個々のメンバーとしっかりコミュニケーションを取り、それぞれの人となりを理解することが大前提となる。
 この点、従来の「昭和的」組織における常識は、真逆であった。全てのメンバーが24時間仕事に打ち込める均質な存在(具体的には、専業主婦と結婚した心身壮健な男性)であることを前提に、全員に同じ能力・同じ努力を求め、個々の私生活から生じる時間的制約は「迷惑」として抑圧してきたのである。
 これで済むなら、マネージメントも楽ちんである。何も考えず、業務の進行管理だけすればよい。機械的にメンバーに仕事を割り振り、個人の都合は全て無視。こんな簡単な仕事なら、誰にでもできる。年功制で順番にマネージャーに配置しても、大きな問題にはならないであろう。
 しかし、組織がメンバーをこのように扱うことは、現実の人としての在り様に反する。人にはそれぞれ得意不得意があり、さらに私生活(プライベート、ライフ)がある。「ライフ」こそ、人が生きる意味、生きる喜びなのであって、職業としての労働(ワーク)は、本来は「ライフ」を成り立たせるための手段に過ぎない。それが人としての自然な姿である。
 メンバーの我慢を当然とし、まして美徳と見るのは、基本的にブラック企業の発想と同じである。ブラック企業は生産性が著しく低く、持続性に欠けており、実際、直ぐに潰れて夜逃げする。最初から潰れるのを前提に、短期間で労働者を限界まで搾取し、荒稼ぎして逃げる、組織犯罪型のビジネスモデルである。当然ながら、そのような組織に持続性も発展性もありえない。
 例えば、勤務時間の虚偽申告(実際に残業した時間より短く申告させたり、なかったことにさせる)を強要するような組織は、メンバーのモチベーションが上がるはずがない。全員が目の前の仕事をこなすことで精一杯で、職場内の人間関係もギスギスする。業務の質は低劣で、改善も創意工夫も生まれない。当然ながら離職率は高く、応募者もわずかで、人手不足が常態化する。益々残業が増え、益々残業代が踏み倒されるブラック循環が高速回転する。残業代がまともに払われない環境では、事実上「定額働かせ放題」となり、労働時間管理がなされず、過労死(とその損害賠償請求訴訟)リスクも高まる。
 極めて高度の公共的なパーパスを持つ保育組織が、このような持続性も発展性もない組織体質、組織文化であってよいはずがない。
 ハラスメントが悪であるのは、「法律や世間が許さないから」ではない。 「職場のコミュンケーションを完全に阻害し、良質なマネージメントを完全に不可能とし、組織のパーパスが完全に実現できなくなるから」である。
 したがって、「ハラスメントをしないこと」は単なる最低限の必要条件に過ぎず、「ハラスメントに当たらないからやってもいい」ことには全くならない。「コミュニケーションを阻害し、良質なマネージメントに反し、組織のパーパス実現の足を引っ張るような行為は、全てやってはならない」のである。
 

5 組織のパーパスを実現するためには


 暗く、どんよりした顔の職員が、いい仕事などできるはずがない。
 (パワハラが組織を根本的に破壊する理由)
 職員が幸せでなければ、市民を幸せにする仕事はできない。
 (業務で疲弊した職員が市民に良質なサービスを提供できるはずがない)
 職員が幸せに働ける環境を整えるのが、マネージメントである。
 一人の人間の中で、私生活は不幸だが仕事は充実、なんて絶対にあり得ない。
 そうであれば、職員の悩みごと、困りごとに寄り添って支援するのが、マネージャーの当然の任務となる。そういう者がリーダーでなければ、決して組織力は発揮されず、パーパスも実現しない。
 皆さんの中には、「自分が若いころの上司は、我慢を強いるばかりだった。自分はその中で耐えて、努力して、今の立場になった。にもかかわらず、何故自分達は同じようにしてはならないのか。理不尽だ。不公平だ」と思う人がいるかもしれない。一人の人間としては自然な感情であろう。しかし、自分が先輩から酷い目に合わされたから、後輩に同じことをしてよいか(正当化されるか)といえば、よいわけがない。児童虐待被害者が成人して行う児童虐待(いわゆる虐待の連鎖)が、単なる犯罪であることと、全く同じである。
 組織を一歩一歩、より良く変化させていくために力を尽くすのが、リーダーであり、マネージャーである。旧態依然、同じ過ちを繰り返すだけでよい役割なのであれば、存在意義はない。案山子でも立てておけばよい。
 「何故自分が今リーダーであるのか」
 「何故自分が今マネージャーであるのか」
 皆さんが、誇りと自負を持って働いているのであれば、どう行動すべきかは自ずと明らかなはず。
 

6 メンバーの「ワーク」と「ライフ」


 組織としては、メンバーに「ワーク」を優先してもらえば楽であるが、個々のメンバーにとっては、「ライフ」側こそが重要。これは単なる事実である。
 また、個々のメンバーの「ライフ」(特に自由時間)が充実して初めて、「ワーク」から受ける心身の負荷に立ち向かう精神のエネルギーが生じ、業務に自発性や創意工夫が生まれ、ビジネス組織全体にも活力がもたらされる。
 したがって、一人の人間であるメンバーについて、その「ワーク」の面しか見ない人、見えない人は、マネージャーとしての資質に欠ける。メンバーが「ワーク」を優先して当然と考えるマネージャーは、メンバーとの間で人間味に欠けるやり取り(形式的な報告と指示)しか成立せず、結局はハラスメント的な言動に至る(かえって組織にとって大きなダメージに)。
 マネージャーの役割が、「上から圧を加えて権力的にメンバーを動かす」ことから「横(同じ高さ)に立って支援し、個々のメンバーが強みを発揮できるよう環境を整える」ことに変化すれば、「男性的な」(ジェンダー的な意味での)リーダー像は、時代遅れのものとなる。
 既存の価値観そのままに、「昨日あるがごとく今日ある」体質の組織は、急激な少子化の中では、必ずメンバー獲得競争に敗れ、持続できなくなる。組織のマネージャーは、組織の継続性を生み出すためにこそ、常に社会の変化に即して組織を柔軟に変革していく責任を負う。
 若者が就職先として志望してくれなくなるのは、もちろん若者が悪いのではなく、組織のマネージャー層が怠慢なのである。
 現在の社会の流れからは、無駄な仕事を「やらない」「止める」決断をする役割こそ、マネージャーに求められる。仕事を増やすことは、誰にでもできる。しかし、「この仕事は無駄だから止める」「無駄なプロセスだから省略する」という決断は、リーダー・マネージャーにしかできない。
 常に問題意識を持ち、無駄を排し、生産性の高い仕事に集中できる環境を一歩一歩実現していくのが、マネージメントである。
 

7 若手との意識のギャップを率直に認める勇気


 組織のエネルギーは、いつの時代も若手がもたらす。主役は若手。組織を持続・発展させたければ、次代を担う若者の価値にフォーカスすべき。自分の価値観がずれていないか、真剣に自問しなければならない。
 例えば、睡眠時間を削って働くこと、長時間残業することは、脳にとっては、酒を飲みながら働くことと同じ効果(判断力、集中力の著しい低下)をもたらすが、何故か「頑張っている」「真面目」と評価してしまう。
 逆に、しっかり寝ること、なるべく残業しないこと、年休を100%行使することは、効率良く、集中してパフォーマンスを発揮するための必要条件であり、歴史的・社会横断的な常識であるが、何故か「やる気がない」「組織に反抗的」とみなしてしまう。
 これらは、「昭和的」価値感(非科学的精神論)の象徴である。
 年休(権利であり取得理由を問うこと自体不適切)や育休の申し出を受けて、露骨に嫌な顔を見せたり、嫌がらせで応えるような上司の存在は、部下のモチベーションを下げ、心理的安全性を損ない、組織を硬直化させる害悪でしかない。このような上司がのさばる組織に未来はない。
 若手職員の価値観に対応できるよう、組織を変化させていくのが、リーダー・マネージャーの力である。そうしなければ、若者からは恐竜化した組織と見なされ、人材獲得競争に敗れ、組織の継続性が失われる。
 そのためには、若手に一方的に教えるのではなく、自分の感性が古くなっていることを率直に認め、謙虚になり、若手から学ばなければならない。双方向のコミュニケーションである。というか、そもそもコミュニケーションとは、双方向のものである。
 部下から上司への一方向の「報告」、上司から部下への一方向の「指示」があっても、コミュニケーションとは到底呼べない。重要なのは「相談」。部下から上司への相談はもちろん、上司から部下への相談こそ重要である。双方向のやり取りの中で、一緒になって考えていくのである。
 

8 ない方がよい面倒事(迷惑)ではなく、当然の組織課題(お互い様)


 「ライフ」重視を強めるメンバーによる「ワーク」縮小は、当然の社会の流れであり、どの組織においても共通する課題である。
 にもかかわらず、リーダーが個々のメンバーの希望を「迷惑」と捉えて抑圧するのは、職責を放棄し、自らの無能を示すものである。各メンバーの業務負担を調整すること、無駄な業務やプロセスを切り捨てる決断をすることは、メンバーにはできず、リーダーであるマネージャーにしかできない。安易な惰性(慣れ親しんだやり方を漫然と続けたいという思考停止)に流れず、自らに与えられた権限を適切に行使する責任を、強く自覚すべきである。
 それぞれのメンバーの悩みごと・困りごとの組織的なフォローは、「迷惑」ではなく、「お互い様」である。このマインドセットこそが、心理的に安全な組織を形成するために必須である。助けられたメンバーが、次に助ける側に回ることで、組織は生産性を劇的に高めることができる。自分のことしか考えないメンバーをいくら集めても、決して組織力は発揮されない。
 メンバーが他者の悩みごと、困りごとへの対応を「迷惑」と考え、互いに牽制し合い、我慢し合う組織文化においては、全てが個人の問題に矮小化され、本来浮上すべき組織課題がいつまで経っても認識されなくなる(例えば、保育士の配置基準が一向に見直されない要因として、現場の保育士が「善意の自己犠牲で」「我慢して」「頑張って」何とかしてしまうことにより、是正の必要性が社会に認知されなくなるという悪循環が指摘できる)。
 組織課題が常に個人の問題に矮小化され、メンバーの我慢が当然視される組織であれば、そのような職場に、急激に減少する若者が来てくれるはずがない。間違って来たとしても、直ぐに辞めてしまう。当然の結果である。
 

9 ハラスメントが浮き彫りにする組織文化


 仕事上の苦難を個人が引き受け(押し付け)、誰も文句を言わず(言わせず)、黙々と働く(働かせる)組織においては、「上」の人間は専横が許され、「下」の人間は理不尽に耐えるのが美徳となる。このよう組織文化の下では、ハラスメントが増殖するのは必定である。自浄作用は働かず、組織内の「常識」が、変化の早い外部社会と乖離する一方となる。ハラスメントは、被害者が黙って耐えるほどに悪質さがエスカレートし、最終的には犯罪レベルに到達する(子供社会におけるいじめと全く同一の構造)。やがて大きな不祥事となって爆発し、組織に大打撃を与える。
 逆に、被害者(ないしその予備軍)が「嫌なことは嫌!」と素直に表明できる空間においては、悪質なハラスメントは発生しない。実際には、ハラスメントを受けた被害者は、自尊感情を失い、自分が悪いと考えて抱え込んでしまいがち。しかし、周囲が積極的に声を上げる(相談する、通報する)ことで、事態は動かせる。そのような仕組みを、組織にビルトインしなければならない。
 ハラスメントが蔓延する組織では、声を上げた職員が「職場で浮く」=報復を受ける。加害者は、組織内の強者として君臨し、ますます自己正当化を強める。誰もが我が身可愛さに見て見ぬふりをし、問題は隠蔽される。ハラスメント現象の悪化は、日常の組織文化の病理の反映であり、そのような組織は着々と法的リスクを拡大し、最後には大きな不祥事を起こして自滅する。
 仕事上の悩みを率直に出し合い、解決手段を集団的に模索し、互いにカバーし合える組織であれば、メンバーは安心して創意を発揮できる。マネージャーは、個々の能力を最大限に発揮させるべく、いかにフラット(心理的に安全)で、自発性を引き出せる組織を形成できるかが、腕の見せ所である。
 自分が若手だった時代を考えれば、「上」から権力的・威圧的に行動を強いる上司がいれば、その理不尽さ、恐怖、屈辱感、無力感から、モチベーションが大きく損なわれることは、容易に理解できるはずである。
 ところが、人間は悲しいことに、年齢を重ね、「上」に見られるようになると、若いころの感覚をすっかり失ってしまう。「自分がやられたように厳しく指導するのが部下のためである」などという倒錯した思考を始めてしまう。このような思考は、組織のダメな部分を温存し、ダメなまま次の世代に引き継ぐものでしかない。旧態依然の誤りを漫然と繰り返しているだけである。
 しかし、組織の外の社会は変化し続けている。パワハラ的な指導を正当化する「昭和の感性」は、既に社会では通用しない。これから組織に入ろうとする若者にとっては、正に前時代の遺物に過ぎない。パワハラ的な指導が横行する組織であれば、そんな職場には人は集まらず、持続性が確実に失われる。
 上司が「自分は上司だ、偉いんだ、黙って従え」という態度を見せることは、部下のモチベーションを下げ、組織の体質を劣化させ、不祥事を招き寄せるものでしかない。上に立って一方的に指示するのではなく、横(同じ高さ)に立って支援し、伴走するイメージが、現在のあるべきマネージャーの姿である。
 

10 一人の人間として


 リーダーも一人の人間であり、何か特別な才能・才覚に恵まれた「超人」ではない。責任の重さに押し潰されそうになったり、決断をする勇気が出ないことも、いくらでもある。人として当たり前である。
 ところが、皆さんの部下、特に若い人ほど、概ね、皆さんを一人の人間として見ていない。「〇〇長」という機械、感情なく精勤し、部下を権力的に動かしても心の痛みを感じないロボットのような存在と見ている。このような捉え方は、縦社会の秩序意識が自然に生み出す感覚であり、日本のビジネス組織のコミュニケーションが貧しくなりがちな大きな原因である。
 同じ人間の発する言葉でなければ、心に届いたり、心を動かしたりできるか? そんな存在に自分もなりたいと思うか?
 共感なければコミュニケーションなし。
 だから、成功談(自慢話)ではなく、失敗談(とそこからの学び)を話してください。
 勝利経験ではなく、挫折体験(とそこからの回復)を語ってださい。
 武勇伝ではなく、顔が赤くなるような話を披露してください。
 表面的な強さだけでなく、本当は弱い存在であることもさらしてください。
 そうやって初めて、若者は「ああこの人も人間なんだ。自分と大して変わらない存在なんだ」と理解でき、共感の基盤が形成される。
 そもそも、「超」ではない普通の人間がリーダーをできる仕組みになっていないと、若者から「自分はいいです」「やりたくないです」と言われてしまう。これでは組織は持続できない。
 したがって、リーダーは強がりの仮面を外し、自らSOSを出すことを「恥」とせず、むしろ「ビジネススキル」と捉え、積極的に周囲に助けを求め、巻き込む姿勢を見せるべきである。自らの行動をもって、部下に範を示すのである。
 例えば、保育現場では、保護者による悪質なクレームや不当要求行為が目立つようになっており、対応に困難を来すことが増えている。かつての役所の常識からは、「ひたすら聞く」「ひたすら我慢する」という選択肢しかなかったであろう。しかし、そんな対応は間違っている。今や「カスハラ」問題を認識した世間の常識にも反する。そして、市役所には、私のような存在や、警察からの出向職員など、外部人材でありながら組織内に存在するリソースがある。こういったリソースを素早く動員(=できるだけ早くSOSを発信)してほしい。そうすれば、実際に、適切に毅然と対応することが可能となる。そうすることで事態の主導権を回復し、担当職員を救済できる。
 もちろん、部下からSOSを受けたときには、できる限り早く、可能な限り強く、サポートに回ってほしい。その姿を積極的にメンバーに見せてほしい。
 助けを求めたら助けてもらえる、助けを求められたら助ける、その循環がメンバーに組織への愛着と心理的安全性をもたらし、組織力を劇的に高める。
 互いに仕事を押し付け合うぐらいなら、さっさと一人で片付けた方が早い。しかし、一人では決してできない大きな仕事が、組織であればできる。組織のパーパスの価値が大きければ大きいほど、各メンバーのちょっとした努力の集積が、大きな社会的価値を生み出す。保育組織のパーパスは、社会を支える次世代のメンバーの育成であり、極めて大きい。誇るべきである。 互いに助け合うことが。人類の種としての<強み>であり、人が必ず組織を構成して社会活動する根本的な意味である。足を引っ張り合うだけの組織であれば、ない方がまし。
 目の前の雑事に忙殺されるだけではなく、ものごとを大きく捉え、一人の人間として、組織がもたらす目の前の仕事の<価値>や<意味>を考え抜き、自分の言葉でメンバーに伝えていただきたい。
 それがリーダーの存在意義である。


【パワーハラスメントとは】


 パワハラの定義:労働施策総合推進法30条の2
①  職場において行われる優越的な関係を背景とした言動であって
②  業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより
③  労働者の就業環境が害される

 厚労省の整理する6類型(典型例であり、これらに限定されない)
①  身体的な攻撃(暴行、傷害)
②  精神的な攻撃(脅迫、名誉棄損、侮辱、暴言)
③  人間関係からの切り離し(隔離、仲間外し、無視)
④  過大な要求(業務上明らかに不要、不可能なことの強制、仕事の妨害)
⑤  過小な要求(業務上の合理性なく程度の低い仕事をさせる、仕事をさせない)
⑥  個の侵害(私的なことに過度に立ち入る)
 
 上記「必要かつ相当な範囲」の解釈は、社会通念に照らしたケースバイケースの判断となるが、少なくとも、職場の外で堂々とはできない行為(隠し録音されてネットに上げられたら炎上するもの)、家族に見られたら尊敬を失う行為、逆に家族がやられたら腹が立つような行為は、必要性・相当性を欠く。
 一方、部下や後輩に対する「必要かつ相当」な指導は、全く問題ないどころか、職務上の義務であるから、堂々と行わなければならない。

 両者の違いは、例えば以下のようなポイントで考えることができる。
・組織の外にいる第三者から見て、正当な内容・方法だと理解されるか
・客観的な事実や社会科学的な根拠に基づく指導か、個人的な思い込みや組織文化の偏りによる独善的な指導か(昭和方式は令和ではパワハラ)
=自分が上からやられたとおり下にやり返す方式になっていないか
・間違った行為の指摘や原因の掘下げと対策か、間違った主体の人格非難か
・指導される側の自尊感情に配慮しているか、指導する側の攻撃的な感情をそのまま表出させているか(留飲を下げるための行為)
=冷静か、怒りに任せているか
・適切な環境を整えてから行っているか、その場の勢いや一罰百戒を口実として衆人環視の中で吊し上げているか
・部下の指導方法について、科学的知見を学んだり、専門家の研修やディスカッションが行われているか、個人的な感覚や経験で行っているか
・そもそもベースとなるコミュニケーションが日常的に成立しているか
=上司から失敗談や仕事以外の自己開示(雑談)がされているか