【企画展】ホー・ツーニェン「エージェントのA」 シンガポールの多元性と博覧強記
新幹線で東南アジアの歴史を読みながら、東京に向かった。その国の歴史については、華人文学を通して少し知ったつもりでいたが、改めて本を読んでみると、自分の理解と異なる歴史が書かれている。
はたして何を知ったら、理解したと言い切れるのだろう。ため息が出た。
さて東京では、7月7日まで東京都現代美術館で開催されていた、シンガポールの芸術家ホー・ツーニェンの個展、『エージェントのA』を鑑賞した。
展示のメインは映像を使ったインスタレーションである。観客は複数の展示室をめぐり、映像を鑑賞する。一つの映像は20分~1時間の長さである。まるで短編映画の上映会のような展示構成になっている。
事前に上映時間を調べていなかったにもかかわらず、60分ある「時間のT」の上映30秒前に潜りこめたのは奇跡だった。展示室には椅子が用意されているが、筆者が訪れた時には、どの展示室も満席で、多くの鑑賞者は立ち見していた。
東京都現代美術館のサイトではあまり作品の特色や魅力が見えてこないのだが、シンガポール美術館の動画でその魅力をうまく伝えている。
(シンガポールに和室を再現したのだろうか?)
「時間のT」
しかし、立ち見でも1時間の上映時間を長いと感じることはなかった。「時間のT」は「時」をテーマにした映像インスタレーションである。展示室正面の紗幕には、「時」をテーマとしたアニメーションが映される。
マレー語の時の表現、鉄道と標準時、中国宋代の技術者が開発した水時計、放射性廃棄物の管理、フォーディズムやトヨタイズムが変えた労働の時間、かげろうの生態、小津安二郎映画の親と子、日本の友人のアルバム――など、この作品は「時」をテーマにした映像の断片から成り立っている。
同じ断片が少しづつ形を変えながら現れ、鑑賞者を思索へといざなう。技術史、生物学、物理学、個人の記憶など多様な「時」のあり方が描かれることにより、時が生命をはぐくみ、ノスタルジーの対象となる一方で、時が人を支配し、人の管理に用いられるという暴力性が伝わる。
映像には、抗議運動の記録映像の断片が挟まる。マスクで顔を隠し、特定の主張をかかげない白紙のプラカードや横断幕を掲げた人々。ナレーションは何も説明しない。調べてみると、ホー・ツーニェン自身による過去の作品「The 49th Hexagram」であるらしい。(このタイトルは『易経』の49番目の卦――すなわち「革」――「あらためる」の意)
(下記のリンクは解説の映像)
Hammer Projects: Ho Tzu Nyen (youtube.com)
もとは韓国の政治史をめぐる作品なのだが、映像の断片として「時間のT」に組み込まれたとき、顔を隠す匿名性と、白紙の主張は、近年の東アジアで起きた具体的な事件と、弾圧の過去を思い起こさせる。まだ生々しい痛みを伴う記憶が、抽象的で哲学的なテーマに接続される。
それにしても、構想の大きさや、西洋、中国、日本などを幅広く参照する関心の広さには驚かざるを得ない。生物学、物理学、天文学、環境問題など、自然科学の時間論も広く参照される。その一方で、作者の出身地であるシンガポールに関しては、時計台を管理する老人の姿があるくらいだ。子供時代へのノスタルジーを提示するときでさえも、作者は自らの姿を現さず、日本の友人のアルバムを使う。
自らの出自にとらわれず、専門領域にとらわれない横断的な視野を持つこと――東と西の結節点であったシンガポールでは、まだ世界への夢を見ることが可能なのだろうか。
「名前のない男」
この作品の主人公は、ライ・テクという歴史上の人物である。1939‐47年にマラヤ共産党の書記長をつとめたこの人物の正体は、イギリスの送り込んだスパイであり、第二次世界大戦中は日本軍の協力者となった、三重スパイである。戦後、裏切りが明らかになり、共産党を除名される。非合法の活動を行うため様々な偽名を使い、その本名はいまだに不明である。
ここまで読めば、卑劣で狡猾な裏切り者の姿、常識では理解不可能な変節者の姿が思い浮かぶだろう。ホー・ツーニェンは、香港の映画俳優トニー・レオンの出演シーンを切り貼りして編集した映像に、ライ・テクの生涯を解説するナレーションをつける。
芸術映画のなかで不誠実な男性作家を演じるトニー・レオン、ノワール映画で裏社会の男を演じるトニー・レオン、歴史映画で漢奸を演じるトニー・レオン……スタイリッシュな映像と、影のあるダンディな俳優の姿が次々に現れる。香港映画のスターとして高い評価を得てきたトニー・レオン、わたしたちが親しんでいた映画のストーリーや男性像と、ライ・テクの経歴は、実は重なり合うものなのだろうか。
もし、トニー・レオンがライ・テクを演じたら、人々は同じように拍手喝采するのだろうか。
だが、引用されるそれぞれの映画の背景にある史実と表現の問題を振り返るとき、その時代の作家たちもまたスパイと裏切りの汚名を負った者たちがいることを思い出す。
引用作品のうち、日中戦争の時代を舞台にした『ラスト、コーション』の原作は、女性作家の張愛玲が実在の女スパイをモデルに描いた作品である。張愛玲自身が、戦時中に親日政府の要人と結婚し、非難されていた。『2046』の監督ウォン・カーウァイと、その着想となった作品を書いた劉以鬯は、影響を受けた作家として穆時英の名を挙げる。穆時英は日中戦争中に日本軍に協力したとされてきたが、国民党の送り込んだスパイであるという説がある。映像の背後には、もうひとつの政治的な二重所属、真相不明の歴史がある。
華やかな映像の背後にあるのは、歴史の陰影である。
展示を見ながら、筆者も大学に入学したばかりのころは、自然科学や『易経』に興味を持ったことを思い出した。だが、いつしか狭い領域に閉じこもるようになってしまった。
ホー・ツーニェンは、シンガポールの名の由来と建国神話を扱った作品「ウタマ――歴史に現れたる名はすべて我なり」で、シンガポールの歴史の不確かさを強調する。シンガポールを発見、命名したのは伝承とは他の人物かもしれないとさえ言う。
しかしホー・ツーニェンの作品から感じるのは、シンガポールの複数制を逆手に取り、中国の伝統、西洋近代の技術、東南アジアの歴史など多元的な知の領域を横断する想像力の可能性である。