育児ノイローゼだった私にかけたい言葉#2
前回の記事では
産後鬱
育児ノイローゼに至った経緯?
きっかけ?
を書きました。
タイトルの「かけたい言葉」
には未だたどり着かず申し訳ない。
背景を伝えることも大切かな と思ったので。
といいながら、まだ「ことば」はでてきません 笑
今回は
夫が渡航してからの約4カ月間をどうすごしたのか
です。
正直、
書くのを躊躇ったくらい、
結構赤裸々に書きました。
泣きながら書いた箇所もあります。
夫が渡航するまでは一瞬だったのに、
夫が渡航してからの1日は本当に本当に長かった。
気が狂いそうになる(いや、もう狂っていた)
のは目に見えていたので、
頼れるものはとりあえず全部頼ってみた。
頼れる社会資源は?
一時保育
完全なワンオペが始まった2022年夏はコロナ真盛で、
近所の保育園は一時保育閉鎖。
実家と自宅の間の保育園に一時保育で預けたものの、
・次男を連れて片道30ー40分の送迎。
・帰宅後の長男の不穏
・次男を連れて毎回昼寝布団やおむつ等、荷物を全部持って帰らないといけない
等で足が向かなくなるのは想像に難くない。
結局5-6回くらいだったかな・・・。
児童館
自宅から車で10分程のところにあった。
首が座ったばかりの子どもと
自分が歩きたいように歩きたい子ども
2人を連れての外出がそもそもしんどさしかなかった。
加えて
コロナ渦で
毎度書かされる問診
検温
「わたしたち、何か悪いことしてるのかな」
ってさえ気持ちになりながら
捕まらない子どもを捕まえて検温し、
問診を記入した。
室内は2-3組ほど利用していたが、
・広い庭があるのに外遊びができない(危険 という謎理由)
・解決策が特にないのに子育てのこと色々聞かれるのが辛かった
のでそこまでして利用する価値があるのか が正直な感想だった。
消化不良のまま、
子供二人連れてのしんどい移動に加え、
帰宅後の静まり返った家が、
孤独感に追い打ちをかけられ
余計に気が重かった。
児童館は2回ほど足を運んだが程なく遠のいた。
ベビーシッター
ひょんなことから相場より安価で来ていただけることになったこと、
シッターさんご自身がとても良い方、
彼女の子どもと長男が同年齢ということもあり
自宅で子どもたちと一緒に遊んでもらった。
平均月1-2回ほど来てもらった。
その間に買い物や家の用事、自分のことを済ませたりしていた。
彼女と出会えなかったことを考えると今でもぞっとする。
近所のカフェ
近所に全て手作りのおいしいカフェがある。
食材も地元の野菜等を使っていたり
斬新なメニューだけど家でも真似できそう
な感じで独身の頃から頻繁に通っていた。
コロナを期にテイクアウトも始まり、
この4カ月、私はここのテイクアウトに頼りまくった。
産後、気が狂いそうなほど食を気にしまくっていた私でも、
ここのご飯は安心して長男にあげることができた。
私の痩せ落ちた体をギリギリのところで凌いでくれた。
カフェの皆さんも渡航直前までとても気にかけてくださり、
最後は
「ポーランドで食べてね」とお持たせまでくれた。
いきつけの小料理屋
独身時代から一人でふらりとよく通っていた夫婦で営んでいた小料理屋。
私の結婚出産も泣いて喜んでくれた。
私の状況も理解して「いつでもおいで」と言ってくれ、
お客さんが少ない時は
私の代わりに次男をあやしてくれたり、長男にご飯をあげたりしてくれ
「一人でゆっくり食べて」ととても気を使ってくれていた。
他の常連さんも、子どもを連れて散歩まででかけてくれたりする人もいた。
女将さんは私の体調をとても心配してくれた
(なんでそんなに心配してくれてるんだろう と当時はわからなかった)
でも小料理屋という店柄、一人で乳飲み子2人抱えて頻繁に通うのは憚られたが、心のよりどころだった。
友人
距離的に気軽に会える友人がいなかった。
いても仕事をしていたり で、日中気軽に会える人は皆無だった。
時折遠方の友人家族が遊びにきてくれたりしたが、1秒でも長く家にいてほしかった。
彼らが帰った後に再び押し寄せる孤独がまた辛くて仕方がなかった。
実家
通常、実家を頼りにする。
ただ、もともと、母とは折り合いが悪かった。
長男が生まれてから、自分がどう育てられたか
を思い出したら、私の母への憎悪は増していた。
日数的には頼っていたものの、
それに比例して
私の心の安寧はまったく得られなかった。
母は子供達はかわいがってくれたものの、
ことあるごとへの私への嫌味や否定する言葉が本当に耐えられなかった。
しまいには眩暈による吐き気、動けなくなるまでに陥った。
でも一人で子どもを見なくて済む のには代えられず、最初の2カ月は実家に通った。
長男の存在
当時、子ども2人のうち、特に長男とのかかわりが辛かった。
・自己主張
・泣かれる
・一時保育から帰宅後の不穏
・長男の気になる体のこと
特に長男に泣かれると、私は言葉通り
「発狂」していた。
ものもいくつも壊したし、
何かを床に投げつけた勢いで窓ガラスにヒビが入った。
自分が発狂することで長男を無理やり泣き止ませていた。
一方で
「自分が彼らの生命や人生を100%負っている」
と強迫観念に近い責任を感じていたため、
自分の体は重たく苦しいけれど、
「外に連れて行かねばならない」
「滋養のあるものを食べさせなければならない」
「歯磨きをちゃんとしないといけない」
頭はガッチガチだった。
一度でも仕上げ磨きができなかったら
「どうしよう。この子は虫歯になってしまう」
と怯えていたのと同時に、
彼のためと思ってやっていることを拒否されると、イライラして本人に辛くあたったりしていた。
今思うと本人に本当に申し訳ないことをした と悔やんでいる。
さっきあげた社会資源で助かった面は当然あるが、
私自身、心から安らいだり安心できる時間はなかった。
第二の母の存在
20代の頃、保健師として働いていた時に意気投合した住民さんがいた。
年齢は私の親くらい。
退職後も何かと連絡を取り合ったり会ったりしていた。
夫が渡航して2か月後くらい経った頃、私は彼女に電話をした。
SOSのつもりで電話したのではなかったが(多分)
すぐに飛んできてくれた。
彼女とは気負いなく話せるし、子供達のこともとてもかわいがってくれた。
結局渡航までの残り約2か月間、
延べ、半分近くは一緒に過ごしてくれた。
子供達が寝静まった後、
夜な夜なお互い涙しながら語り合った夜もあった。
彼女がいなかったら自分がどうなっていたか、想像がつかない。
夫の存在
正直なところ、夫は家事をするタイプではない。
産後爆増する家事も、ほぼ手伝ってもらった記憶はない。
*育児はまだ積極的な方 だとは思う
なので、夫が先に渡航しても、別に家事の量は変わらないし
何なら自分のペースで全部できるからちょっとは楽かな とさえ思っていた。
そんな夫だが(失礼)、いなくなったらこんなにも辛いものか と。
家事はやらないが、存在は大きかったんだな と痛感した。
(でも家事はしてほしい)
約4カ月の孤独育児の後半は
第二の母に私の心と体、子供達も助けられ、
夫の一時帰国を迎えた。
この時思ったのは、ソフト面のサポートも当然必要だが、
心から安心できる存在が一番重要なのだな と痛いほどわかった。
つづく
続く。
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