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読書、その複雑で愛しき相棒

吐き出していることの効果が多方面に出ている。

読書モチベーションが復活してきた。

もっと書くことの視点や感性を広げたいという欲を原動力に、自然な気持ちとして「読みたい」が出てきた。
わー!なんて健康的な欲の出方なんだ!感動!

俺は読書は小さい時などは純粋に楽しかったり好奇心を満たせて好きだったんだけど、10代後半くらいから

優秀になりたい
賢くなりたい
有利でありたい
成功したい

そして人から褒められたい、尊敬されたい!!!!

みたいな承認欲求(今思えば孤独感や将来の不安からの防衛)が出てきて、それを起点にした読書をするようになってからあんまり楽しくなくなった。

<本は読んだ方がいい>
<たくさん読んだ方がいい>
<こんな本を読むのが優秀なんだ>
<これは抑えておいて当然>

誰が言い始めたのかそんな声を内面化して、特に関心もない古典や科学や様々な本を読んでは挫折し、人が「読んだ方がいい」という本に手を伸ばしては分からなさに劣等感を募らせ、比例して俺は読書が苦手になった。

量は今より圧倒的に読んでいたけど、あまり栄養になっている感じじゃなかった。

苦しい読書をしてたなぁ。

喜びやニーズが起点じゃない、恐れや防衛から学んでも恐れにエネルギーが注がれていくことが多いと知ったのは20代半ば。
生きるのが大変で、そもそも読書どころではなかったこともあり、当時は本屋勤めにも関わらず本はめっきり読まなくなった。

そんなこんなで、その後も恐れから本を買ったり読んでは、ちょっとなあ、、と思っていたのだけど。

今回復活してきたモチベーションは、「知りたい!」「もっとできるようになりたい!」みたいな、子どもの頃の感覚に近い。

そうそうこれだよ!
君との再会をずっと待ってた!!

思えば、俺はさほど「デキる」読書家ではない。
速読とかでバンバン本読んで、どんどん情報整理して驚異的にアウトプットしてバリバリ成長して…みたいなのに憧れた時はあったし、何度も試した。
速読本もたくさん読んだし読書のセミナーにも行き、トレーニングの合宿まで検討したこともあった。

でも今はわかる。
別にそんなことしたいわけじゃなかったんだな。だから身にならなかったんだ。

本をただの情報みたいに扱って使い捨てるように接するんじゃなくて、出会いたかった。味わいたかった。
どんな本でも書いた人がいて、時間や思いが含まれているんだし。

何より、自分に合った形で本と付き合っていきたかった。

たくさん読むのがいいとか、これが必須だとか、こんな読み方がいいとかどうでもいい。というか他人にそういうの決められたくない。

俺はその時々に俺に合った本を、その時に読みたい読み方で読みたい。
自分の感性に合わせて、本とぼちぼち散歩するみたいに歩いていきたい。

最近、あらゆる分野で『自分にあったかたち』を求めているな。

それを実際に色々試して、やってみて、感じて、見つけて選んでいきたいんだな。

本当は君が好きだったこと、ちゃんと思い出せてよかった。

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