「大人になるということ - 『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』感想」
はじめに。筆者は映画の感想を共有したり、評論家気取りであれこれうんちくを並べ、批評ごっこをするのが得意ではないし、そういった馴れ合いをしている輩を見るのも嫌いだ。年間200本以上映画を鑑賞する生活がかれこれ5年以上続いているが全て自己完結で済ませ、そういった人々の論争を安全なところから傍観しているような醜く哀しい人間である。しかしながら、本シリーズは自分が映画を好きになったきっかけの1つであり、恐らく劇場で観られるシリーズ最後の新作である。そこで、今回初めてレビューに挑戦してみることにした。中学時代周りに引かれるくらいインディ・ジョーンズを溺愛し、厨二病を発症していた筆者が、辛口で最新作をレビューすることとする。
本作は、御年80歳を迎えたハリソン・フォード演じるインディアナ・ジョーンズによる最後の冒険録である。胸沸るアクション、カーチェイス、金銀財宝の数々、謎解き、インディ節が唸る軽快な皮肉などシリーズお決まりの演出はもちろんのこと、孤独の焦燥感に駆られるインディの人間的な側面も垣間見える集大成に相応しい内容だった。しかしながら、全体的な感想としてはイマイチぱっとせず、淡白にストーリーが進んでいってしまった感があることも否めない。やはり、インディ・ジョーンズの冒険というのは、痛快で分かりやすいアクションシーンと両立して、どこか非日常的な神秘性を含んでいるものである。今まではWW2〜終戦直後を舞台とすることで、それらの空気感は一定に保たれ続けてきたが、60年代に舞台が移ることでメディアや情報社会の急進により、世界の不思議さ、ワイルドフロンティア感が失われてしまったし、後述する問題のSF 展開を必要とした大きな要因にもなった。また、それは冒険活劇の将来の課題として露呈している点でもあるだろう。
【以下ネタバレを含む】
1、本編に入るまでの回想の導入部分がとても長い。トータル2時間を越えるか越えないかの上映時間内で、息つく間もなくテンポよく進むのがシリーズの醍醐味であるのに、アンティキティラのダイヤルとフォラーの初出シーンに驚くほど時間を割きすぎているせいで、本編に入ってからのテンポにいまいち歯切れが足りない。『スターウォーズ』新3部作(2015-2019)、『マンダロリアン』(2019-)などでそのCG 合成技術力を遺憾無く発揮しているルーカス・フィルムが、最新のCG 技術を駆使してかつてのインディの姿を甦らせた、スーパーオナニータイムにしか感じられなかった。
2、全体的に会話シーンと説明が長い。これもストーリーの軽快さを削ぐ大きな要因である。とはいえフォードも80歳と高齢であり、この歳で実年齢より10歳若いインディを演じろと言われると、なるべく尺稼ぎしたい気持ちもわかるが、それくらいなら154分というシリーズ史上最長の上映時間を、もっとどうにかして短縮するくらい出来ただろう。
3、60年代末期を背景としているにもかかわらず、ヴィランがナチスの残党というのも少々勿体無い気がする。1969年といえばヴェトナム戦争の激化、アフリカン・アメリカンの公民権運動、女性の参政権活動、反戦活動など様々なポリティカル・ムーヴメント、そしてウッドストック・フェスティバルが開催されたことでカウンター・カルチャーが最盛期を迎えたまさに激動の年である。イギリスにおけるナショナル・フロントの台頭による、ネオナチズムの形成は目と鼻の先であるし、本編となんの関わり合いもないアポロ計画を下敷きに(David Bowie の”Space Oddity” が遠くから聴こえてくるくらい?)、ナチスに再び先祖返りするくらいなら少なくとも前作と同じく敵はソ連、またはアメリカ国内のナチズムに影響を受けたレイシズム組織やネオナチとの対立で、シリーズで一貫していたナチスやナショナリズムとの対立を再度描いてみせる、はたまた同年のシャロン・テート殺人事件でカルト教としてアメリカ全土を震え上がらせた、マンソン・ファミリーをモデルにオカルト路線と接合させ、古い世代と新しい価値観を持った世代との対立を描くことで、揺れ動く時代に分断されたアメリカ社会にインディが翻弄されるという設定の方がまだ60年代を舞台とする意義がある。また、前作は1957年が舞台だったということで、マット・ウィリアムズが『乱暴者』(1953)のマーロン・ブランドばりのロッカーズ・スタイルで決め込み、当時ロッカーズと相反するユース・カルチャーであったアイビー・リーグとの対立も劇中で見られ、マッカーシズムとコミュニズムの脅威に揺れる時代の細かい時代考証に拘りが感じられたのに対して、本作の衣装はいささかお粗末だった。捜査官メイソンはアフロ・アメリカンを投影したウエアで決まっていたものの、サマー・オブ・ラブ全盛期の69年、たとえ東海岸であっても長髪にカラフルなウエア、幅広のベルボトム・パンツ、ヒップな衣装に身を包んだヒッピーたちの姿は街中にたくさんあったはず。せっかく学生運動のデモの様子を描いたりしているのだから、もっと雰囲気作りの一環としてエキストラの衣装にも気を配るべきだった。インディの冒険とは関係のない日常カットとはいえ、歴史上の史実を扱う映画としてのプライドは最後まで持ち続けて欲しかった。
4、今回一緒に旅をすることとなったヘレナとテディについて。マット・ウィリアムズに代わって、インディの後継者を作ろうとしているディズニーの思惑が透けて見える。『レイダース』のマリオンのようなジェンダー規範に囚われないアトラクティブな女性像を描きたいという試みは理解できるが、ヘレナが父親を失くした後、盗人として生計を立てていたという根本的な問題は劇中では何も解決しないし、なぜそのような生活を送るに至ったのかの背景も一切謎である。インディが彼女の名付け親であるという設定を加味するのであれば、具体的なエピソードが必要だったし、せっかく序盤に長時間を割いてインディと彼女の父親バジルの関係性を描いたにもかかわらず、何一つ伏線が回収されなかった。テディも脚本上の不都合を埋める便利屋としてこき使われているだけで、特に何かインディとの間に友情や特別な感情が芽生える訳でもない。シリーズ史上最も共感性の薄い人選であったことは明白である。ここまで来ると、『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』(2022)で劇的なカムバックを遂げたキー・ホイ・クァンがシリーズに復帰した世界線、シャイア・ラヴーフがハリウッドに干されず、再びインディと親子タッグを組んだ世界線も見てみたかった気もするが、それこそダイヤルで歴史を改変しようとしたフォラーと同罪の愚業である。(アントニオ・バンデラスの出番が短く扱いが雑だったのも、個人的に配役に期待していただけに納得がいかなかった。)
5、終盤のSF 展開。今までの作品でも、人間の理解を超えた超常現象がストーリーの終幕を決定付ける重要なキーとなってきた。しかし、それらは結果論的に偶発したものであり、物語を締め括るために通らなければならない通過地点に伝説や迷信の超常現象は使われていない。だが、今回は物語の終幕に到達するまでに、タイムスリップという超常現象を経験するのは必須であり、ある種の神秘性に欠けた方法でSF 要素を導入したのには疑問を持った。それに今までのヴィランには、伝説の財宝に対して利己的な執着心を見せる反面、どこかインテリな側面というものが垣間見られた。『レイダース』のべロックは名目上はヒトラーのためだが、考古学者としての聖櫃に対する学術的探究心、『魔宮の伝説』のモラ・ラムは残虐な支配者でありながら、邪神教の繁栄と邪神カーリーに対する絶対的服従心、『最後の聖戦』のドノバンには永遠の命とインディの父が残した聖杯の記述に対する知的好奇心、『クリスタル・スカルの王国』のスパルコ大佐には、超常現象や万物に対する知識の探究心があった。そんな中で本作ヴィランのフォラーの最終的な目的が、WW2 にタイムスリップしてヒトラーを殺害し歴史を改変、ナチスの再起を目指すことというのは動機付けが浅すぎるし、ダイヤルの力で紀元前まで遡ってタイムスリップし、果ては歴史上の戦いの渦中に遭遇するというのは、現代の解釈を以ってしてもあまりに誇張表現が過ぎる。ひいては歴史上の出来事や人々との直接的な接触なんて議論する余地もなくナンセンスである。加えて、フォラーとアメリカ政府の癒着のような描写があっただけに、もっとアメリカの闇が垣間見えるような展開を期待していたが、それらも伏線回収されずじまいだったのも歯痒い。
とここまで酷評が続いたが、もちろん良かった点もたくさんある。まず、サラー役のジョン・リス=デイヴィスのシリーズ復帰、これは英断だった。前作のマリオンから過去作キャラのカムバックは続いているが、サラーは『レイダース』、『最後の聖戦』での活躍は無論、小説版ヤング・インディでも登場するなど、インディの人生には欠かせない冒険仲間である。今回は本編に直接関わる活躍こそ無いものの、共に同じ時代を生きた仲間として、聖櫃を追い求めたあの日々から長い月日が流れたが、今もこうしてお互いの人生を歩んでいるという証明としての役割を果たしてくれた。『レイダース』ではたくさんの子どもたちを引き連れて、インディをべロックの手から救ったのも印象的だったが、そんな彼らも成長して子どもがいて、サラーはおじいちゃんになったというのもなんとも感慨深い。マッツ・ミケルセンが演じた知的な頭脳派ヴィラン、ユルゲン・フォラーのキャラクターもよかった。『007 / カジノ・ロワイヤル』で彼が演じたル・シッフルを彷彿とさせ、自分では直接手をかけないが、頭脳明晰で目的のためには犠牲も厭わない冷酷さが、ナチスの残党そのものだった。次に、アメリカでのチェイスシーン。大学で強襲されたインディが、バイクで追いかけられるところで追手からの逃亡に使ったのはなんと馬。ニューヨークの大都会を馬で駆け巡るインディの姿には、往年の砂漠や荒野を馬で駆け巡るそれと同じ光景を彷彿させられた素晴らしいシーンだった。また、バイクや電車を馬でやり過ごすという二項対立的な立ち位置は、『イージー・ライダー』(1969)のバイクの車輪と馬の蹄をクローズアップして対比したシーンのような、古い時代と新しい時代という比喩にも感じられ、インディの突飛な行動力の健在を印象付けたシーンでありながら、ストーリーのメッセージ性を説明することに関しても上手く機能していたと言える。それからジョン・ウィリアムズのスコアも素晴らしかった。元々、今作で作曲業からの引退を明言していたこともあって、楽曲からも彼のコンポーサーとしての集大成を飾るべく、力と熱量が感じられる。なんといっても映画史に残る名曲「レイダース・マーチ」を、シアターの良質なサウンドシステムで聴ける。それだけでもこの映画の価値はあるかもしれない。最後にラストシーン。このエンディングを観たことで、それまで頭の中でぐるぐると回っていた疑問点や違和感が全てどうでもよくなって、目から大粒の涙が噴き出た。マリオンとの再会で、『レイダース』のUボート内でのワンシーンを再現し、そこでエンディングを迎えるというのは出来過ぎた美しすぎる幕引きだった。エンディングという点では、『最後の聖戦』と『クリスタル・スカルの王国』も素晴らしい出来栄えで大好きなのだが、本作はそれに匹敵するような終幕だったかもしれない。
ナチスの脅威に屈することなく、縦横無尽に世界を股にかけて冒険するインディ・ジョーンズ。”It belongs in a museum.” の口癖を心情に、コロニアリズムやエスノセントリズムをも肯定しかねない宝探しをする日々。そんな彼も成長して、いつしか無敵の冒険野郎も年老いた男性へ。息子は戦争で無くし、妻とも離婚調停中、心の拠り所だった大学教授の職は定年で退職に。愛国者として多くの戦争に協力してきたアメリカも新しい時代へ突入し、世間とのギャップに自分の居場所を見出せない。世界中を旅して多くの歴史的財宝を手に入れても、彼自身に残されたものは何もなかった。そんな彼が最後に求めた宝の存在、それは愛。そう、誰もが最終的には大人になるのだ。物語のラスト、かつて孤独に打ちしがれていた彼の隣には、一緒に旅をしたヘレナとテディが、長年苦楽を共にした盟友サラーが、そして愛する妻マリオンがいる。そして、インディとマリオンのキスで彼の物語は終わりを迎える。本当に彼の冒険はここで終わってしまうのだろうか。エンドロール前の最終カット、インディはベランダに干してあるトレードマークのフェドーラハットを手に取る。大人になって変わるものと変わらないもの。インディのあくなき挑戦心はこれからも変わることはないだろう。彼の冒険に終わりはない。
前作『クリスタル・スカルの王国』から15年の年月を経て再び劇場で新作を観られたこと、これほど喜ばしいことはない。当時中学生だった筆者は、特設サイトで何度もティーザーを観返し、前売り券を購入して観に行ったことをよく覚えている。それから15年の年月が経ち、その間に多くの映画を観て、多くの本で学んだ。その過程で「映画」という普遍的なエンターテイメントに、いつしか社会的問題提起やメッセージを要求するようになり、単純に映画の本質を見誤るようになったのは自分の方だったのかもしれない。無垢だった少年時代に夢見た未知の世界、胸踊らされる冒険、そして限りなく広がる無限の可能性が未だにこの映画には残されている。そう、ちょうどジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグという2人の巨匠が、子どもの頃夢中になったジェームズ・ボンドに想いを馳せ、インディ・ジョーンズという企画について話を始めたハワイでのあの日と同じように。
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