「変えることのできないものと変えるべきもの - 『きみの色』評論 (独自)」
⚠︎本論は作品評論中心の前編と、京アニ事件に触れる後編の2部構成となっている。大半は作品評論の前編にページを割いているが、後編は独自考察を含んでおり、山田尚子監督が意図した本作の作品性を著しく曲解している可能性がある。
(以下敬称略)
2年前の秋クール、『ぼっち・ざ・ろっく!』(2022) (以下ぼざろ) が前評判を覆して、空前のヒット作となったことは記憶に新しい。今春劇場公開された『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく! Re:』(2024)、現在公開中の後編にあたる『劇場総集編ぼっち・ざ・ろっく! Re: Re:』(2024)は、アニメ本編を劇場公開用に再編した作品でありながら、目覚ましい興行収入を記録し続けており、人気は未だに衰えることを知らないようだ。
作品に登場するバンドとして音楽活動を展開する「結束バンド」の2回目のライヴが、9月より全国5都市を周るZepp ツアーとしてスタートしたが、アニメ / 漫画作品から派生したバンドとしては異例のチケット倍率を誇り、現在もなおチケット争奪戦に敗れて嘆く多くのファンが散見できることからも、作品人気の異常性が見て取れるだろう。
2024年度春クールに放送されたアニメを振り返ってみても、シリーズものを除けば約7年ぶりのオリジナル・アニメーション作品であり、こちらも大きな反響を呼んだ東映アニメーション制作の『ガールズバンドクライ』(2024) (以下ガルクラ)、『【推しの子】』(2023-)の制作会社として名を馳せる、動画工房によるオリジナル・アニメーション『夜のクラゲは泳げない』(2024)、かねてからの原作人気で、アニメ化が切望されていた『ささやくように恋を歌う』(2024)。劇場作品では、「響け!ユーフォニアムシリーズ」(2015-2024)他京アニ作品や、先述の『ガルクラ』などの脚本で知られる花田十輝が指揮を取った、『数分間のエールを』(2024)が6月より公開されており、『劇場総集編ぼざろRe:』を含めると、実に5作品ものバンドをテーマにしたアニメ作品が、群雄割拠の争いを演じていたことが分かる。この『ぼざろ』に端を発して形成された一連のブームは、世に「バンドアニメ戦国時代」をもたらしたと言っても過言ではないだろう。
そんな『ぼざろ』人気から続く、今日のバンドアニメブームから遡ること15年前、「空気系 / 日常系」と称されるジャンルの定石を確立し、日本中に00年代のバンドブーム旋風を巻き起こした作品が、言わずもがな京都アニメーション制作の『けいおん!』(2009)である。そして、シリーズの制作を20代の若さで先導し、社会現象とも形容されたその人気を、突出した才能と感性で引き出した稀代の天才監督として、センセーショナルなデビューを飾ったのが山田尚子だ。
そんな山田が監督を務めた『きみの色』(2024)は、アニメーション映画としては5作目の、自身初となるオリジナル・ストーリーによるアニメーション映画である。
15年余り京都アニメーションに籍を置いてきた彼女だが、2019年に同社を退社し、湯浅政明監督作品の『映像研には手を出すな!』(2020)や、『犬王』(2021)で知られるサイエンスSARU に拠点を移したため、フリーランスに転じて以来、最初の劇場アニメ復帰作という点でも、本作は大きな期待を以って封切られた作品だったと言えるだろう(TV 向けアニメ作品としては、同じくサイエンスSARU 制作の『平家物語』(2021)の配信公開にて、一足先にカムバックを果たしている)。
「音楽 × 青春」というコンセプトを打ち出した本作は、山田が京アニ時代に描き続けてきた、「少女時代と大人の女性の狭間にあたる女子高生という未完成の時期」を同じくテーマとしていること、以前から劇伴に強いこだわりを持ち、インタビューなどで音楽への造詣の深さも披露していた彼女が、満を持して「音楽」をメインテーマに従えたオリジナル・アニメを作ること、という2つの要素は、京アニ作品を観て育った多くのファンに根付く、心の琴線を強く震わせたであろう。
加えて、作品を披露する度に細田守や新海誠らと並んで、ポストジブリの片翼として、メディアに取り上げられ続けてきた彼女の新作が劇場公開されるということは、普段熱心にアニメを追うことのない、ライト層の関心も攫っていったに違いない。
山田の脇を固めるスタッフには、オリジナル作品の脚本という重要ポストに、『けいおん!』 から『平家物語』まで、彼女が監督を務める作品では必ずタッグを組んできた吉田玲子を、音楽には、同じく『映画 聲の形』(2016)より山田尚子作品の常連に加わった牛尾憲輔を迎え、前作『リズと青い鳥』(2018)で描かれた、独特なビジュアルと繊細な少女像を踏襲したようなキャラクター・デザインを、前作『平家物語』で同職を務めた小島崇史が担当した。
制作会社は違えど、本作は山田尚子作品がテーマとして取り上げてきた要素と、それらを彩ってきたスタッフたちによって作られた、まさに「音楽 × 青春の集大成」というコンセプト通りの作品に仕上がっている。
【⚠︎以下ネタバレを含む。】
ストーリーのアウトラインとしては、家族と離れて寮生活をしながら、ミッション系の女学校に通い、人間を色で認識することができるという主人公のトツ子、親代わりの祖母に無断で学校を退学してしまい、その真実を告げることができず、学校に行くフリをしてアルバイトに勤しむ少女きみ、音楽に対する情熱を持ちながらも、医者である母親の期待に応えようと勉学に励み、時より内緒で音楽を楽しむ少年ルイ、という三者三様の秘密や悩みを抱えた高校生たちが、しろねこ堂というきみのアルバイト先の古本屋で偶然一堂に会し、音楽という共通の好きなことに打ち込みつつ、各々が抱える秘密や悩みを共有しながら成長してゆくといった具合である。3人はそれぞれ明かすことができない秘密を内に秘めていて、お互いにそれらを共有することで心の錘を外し、問題の解決というハッピーエンドに向かってストーリーは展開される。
筆者の所感として、今までの山田尚子作品の中で最も抽象的な作品であり、深読みすればするほど、物語の主題が見えづらくなってしまうというのが、1回目に観終わった時の第一印象だったことは、まず最初に記しておきたい。しかしそれは、決して作品のクオリティや、最終的なこの作品に対する総評に直結している訳ではない。
先述の通り、3人の登場人物はそれぞれ悩みや秘密を抱えてはいるものの、なかなかそれらがストーリーの進行に関わる重要なポイントとして表面化してこないのも、現代の子どもたちが持つ特有の複雑さが原因なのだろう。Z世代以前の思春期の子どもたちといえば、親、先生、目上の権力に反抗している証として、例えば制服の着崩し、金髪、ピアス、飲酒、喫煙、暴走行為、深夜のコンビニでのたむろなど、何かしら目に見える形で自己表現がされていた。しかし、現代社会で思春期という多感な時期に悩み苦しむトツ子、きみ、ルイのような子どもたちは、自身の反抗心や意思を外へ外へ押し出すようなことはせず、自分の中に閉じ込めて、なるべく周りに気づかれないように内包させてしまう。そして、協調性という特有の連帯意識が邪魔をして、周りに同化し、なかなかそういった固有の悩みや秘密を他人に打ち明けづらくなったとも言える。
きみは学校を退学したことを打ち明けられず、祖母の前では反抗するような素振りを見せずに、祖母と同じ学校に通う従順な自慢の孫を演じている。ルイは音楽が好きな本当の自分をひたすらに母親から隠し続け、掃除をするという条件で借りている廃教会でのみ音楽好きの隠された自分を曝け出す。そして、彼もきみと同様に母親に反抗することもなく、家では家業である医者を継いでくれると期待する母親の望みに応えるべく、勉学に励む息子を演じることだけに集中する。トツ子の場合、彼女が抱える秘密や悩みについて本編では直接説明されてはいない。聖堂毎日、「変えることのできないものを受け入れる力をお与えください。」と、神への祈りを捧げる理由も言及されていない。だが、ストーリーの流れから推測するに、過去に「人の色が見える」という自分の個性を他人に知られたことで、トラウマが残るような体験をしてしまい、それ以降、他人に自分の個性を知られるのが怖いと思うようになった結果、自分の中に秘密として閉じ込めるようになったのだろう。ついに彼女は、きみとルイ対しても、終盤の廃教会での合宿まで、秘密について明かすことはない。(トツ子が持つ「人の色が見える」という設定は、共感覚という特別な知覚現象に該当するようだ。実例を挙げると元Pink Floyd のSyd Barrett は、視覚や聴覚等五感の刺激に色を見ることができたことを明かしており、音楽や絵画で優れた芸術作品を残した。)
必ずしも現代の子どもたち全員がそうでないにせよ、本作のストーリー展開の主幹になり得る問題意識が、雲のように掴みづらい存在だったのは、今を生きる子どもたちと、過ぎ去った世代を生きた私たちの中で生まれる、ジェネレーション・ギャップによるものなのかもしれない。
そういった意味では、主人公3人の最終的な着地点がはっきりとせず、曖昧ではあるが少しでも何かを変えようともがく姿は、Z世代の子どもたちが直面している実情を正確に捉え、作品に落とし込んでいたと言えるだろう。
今や彼らの多くにとっての個性や自己表現というものは、たとえば北宇治高校吹奏楽部員たちのように、各々が信じる正義や信条を貫き通すというものではない。どんなに仲の良い間柄でも、他人の顔色を伺い、空気を読み、遠慮し合いながら、互いのディスタンス間で緻密に調整された秩序の糸を決して乱すことがないよう、窮屈で複雑なシステムの中を生きているのだ。
また、本作の重要なポイントとしてもうひとつ挙げたいのが、「大人の存在」だ。 山田は、京アニでの10年間の監督業の中で、一貫して女子高生(および男子校生)という精神的にも身体的にも成長途中の、未完成の称号を持った少女たちにフォーカスをあてて、物語を紡いできた。
「けいおんシリーズ」(2009-2011)では、桜が丘高校軽音楽部の部員たちの何気ない日常、『たまこラブストーリー』(2014)では、たまこともち蔵の恋模様、『映画 聲の形』では、将也と硝子、彼らを取り巻く人々を巡るディスコミュニケーション、『リズと青い鳥』では、みぞれと希美の美しくも儚い不協和音。どれも子どもたちの、子どもたちによる、子どもたちのための物語である。さわ子先生や滝先生、うさぎ山商店街の人々、硝子の祖母など、物語のターニングポイントとなる助言をしたり、出来事に関わる大人はもちろんたくさんいるが、基本的に山田尚子作品に登場する少女少年たちは、未完成な自分自身と向き合い、自分と同じく未完成な様相をした相手と向き合い、未熟ながらも自分の意志で選択をし続けてきた。山田がチーフ演出を務めた『響け!ユーフォニアム2』(2016)にて、黄前久美子が田中あすかに言い放った言葉を引用して言えば、「先輩だってただの高校生なのに!」という言葉そのものであり、未熟で未完成だからこその彼女たちの素直な気持ちや愚直な言動が垣間見える、というのもまた、山田尚子作品の持ち味であろう。そこには、大人の存在が関わる問題との対峙という構図は無いに等しかった。
だが、本作で彼女たちがしまい込む秘密の直接的な原因は、大人たちとの関係性の中で生成されている。きみと祖母、ルイと母、そしてトツ子とシスター日吉子。3人はそれぞれ心の中に秘めた問題の解決に際して、大人と対峙しなければならない。
そういった観点では、単にティーン・エイジャーという同じグループに所属する子どもたちの中でのみ起こる出来事から世界を拡張し、大人の視点からも救済を与えているようにも捉えられるだろう。
きみとルイの2人はストーリー終盤で、それぞれ自身が抱える問題の原因だった祖母と母に対して、自分の秘密を打ち明けることで、些細ながら問題を解決する。それを聞いた彼らの親は、2人の静かなる反抗を受け止め、「聖バレンタイン祭へライヴを観に行く」という行為を通して、それらを理解してあげようとする寛容さを示し、大人たちの側からも現代の子どもたちとの付き合い方、向き合い方の解決策を提示している。
そして、悩みを抱える子どもと、悩みを理解する大人の関係性を分かりやすくオーディエンスへ提示する役割を果たしているのが、シスター日吉子の存在だ。劇中でトツ子はシスター日吉子に対して、異性を含むバンドを組んでいること、修学旅行を仮病で休む、無断で寮にきみを招き入れるという、分かりやすくありふれた3つの嘘をつく。彼女は教師という立場上、生徒であるトツ子ときみのついた嘘に対して、奉仕活動という方法で罰を与えつつも、彼女たちに何か厳しい制裁を与えるわけでもなく、進むべき正しい道を押し付けることもない。しかし、直接的ではないものの、常にトツ子のことを気にかけ、彼女が困ったり迷ったりしたときには、そっと手を差し伸べる。そして、聖バレンタイン祭のバックステージにて、学生時代に"GOD almighty" という名のバンドで、音楽活動をしていたことをトツ子へ打ち明けた際、それに対する「変えられないものを受け入れてみてはどうか。」というトツ子の回答を以って、彼女もまた自身が抱える秘密という錘から解放される。
本作の舞台がミッション系の女学校、教会などキリスト教由来のものであるというのは、それぞれの登場人物が抱える秘密を「告解」することが、この作品が表象するメタファーにもなっている。トツ子、きみ、ルイの3人は、お互いに抱える秘密や悩みを「告解」することで、心の鉛を外し、それらを共有する。3人が対峙する大人たちに対しては、真実を「告解」することで、同じく心の鉛を外し、大人たちはそれを理解しようと努める。
『きみの色』という物語は、仲間同士、ないし子どもと大人の関係性の中で行われる、秘密や悩みの「告解」を通して生成される、相互作用の弁証法によって成立しているのだ。
周知のとおり山田尚子という監督は、(『たまこまーけっと』(2013)では、人語を喋る鳥のデラが登場するものの)SF やファンタジーチックな出来事、果ては何度も使い擦られたタイムリープや、年に何十もの作品が乱作される異世界転生という設定からは一線を置き、現実の世界から出てきたかのような少女を主人公に携え、現実世界で起こりうる等身大のアニメ表現を実践してきた。
「アニメと実写の境界線」、「アニメの特性を活かして描くべき内容とは」、といった不毛な議論は一旦置いておくとして、その驚くまでに写実的な表現技法は今作でも健在だ。カメラワークは実写映画のようにフレーミングが揺れ、光彩はゆらめき、被写体のフォーカスはパンとシャローを反復して、より一層青春の儚さを醸し出す。手足の仕草、揺れる眼、なびく髪の毛のアップショットは、キャラの表情やセリフを代弁、時には強調するかのように緻密に演出され、スクリーンという第3の壁を越えて、画面内の温度感や緊張感までもがオーディエンスに伝わってきそうなほどである。そして、往年のゴダール映画を彷彿とさえさせる、ラストシーンでの音のぶつ切り。彼女の20年弱に渡る創作活動の中で培われてきた、彼女にしか成し得ない独特のカメラワークと演出術は、今日も青春アニメ映画において右に出る者はいないだろう。
(山田尚子の表現技法については、『山田尚子監督アニメ『けいおん!』シリーズにおける運動と時間』(京都大学人間・科学研究科芸術文化講座編集委員会 2024) という論文で興味深い論述が展開されているので、ぜひ読んでいただきたい。)
もちろん、青春と両立して本作でメインテーマに掲げられた音楽についても特筆しなければならない。終盤で描かれる聖バレンタイン祭でのしろねこ堂のライヴは、物語のクライマックスを飾る重要なシーンであり、本作で1番の見どころと言ってもいい。TV 向け、劇場向けにかかわらず、多くのバンドアニメが尺の都合上でライヴシーンを大幅にカットすることが多い中、披露される3曲を全編に渡ってLIVE アクションで描き切っていることからも、音楽をテーマとする作品を謳う覚悟と、この作品の中で音楽が位置付ける比率の重さが見て取れる。
1曲名の「反省文 〜善きもの美しきもの真実なるもの〜」は、New Order の”Blue Monday” の有名なイントロを彷彿とさせる、16分のバスドラムのキック音から始まる。それに続く音色豊かな電子音の波と、ディストーションで歪んだリッケンバッカーの激しいストローク、きみCV. 高石あかりが歌う無機質な歌声が織りなすアンサンブルは、ポスト・パンク期にあたる80年代後半〜90年代にかけてイギリスで流行したマッドチェスター、または後年のレイヴ・カルチャーを体現化したかのようだ。
高校生たちを主人公とした青春アニメーション・フィルムであることを忘れて、まるで『24アワー・パーティ・ピープル』(2002) の世界に迷い込んでしまったかのように錯覚するのも束の間、2曲目の「あるく」では、シンプルなピアノの旋律の反復が、聖歌のようにスピリチュアルな世界観を演出する。ルイが弾く世界最古の楽器として知られるテルミン、それに追随して上げられるギター・ノイズの咆哮は、The Velvet Underground やSonic Youth らの実験的ノイズ・ロック、My Bloody Valentine らのシューゲイズ・サウンドのそれであり、彼女彼らの内なる叫びが漏れ出るかのように、Fender のアンプからハウリング音が響き渡る。ルイがオルガンを演奏する際、ペダルの送風音が環境音としてそのまま録音されていたのも、音楽監督を兼任した牛尾憲輔の強いこだわりが感じられた点だ。
最後に披露されるこの映画のメインテーマ「水金地火木土天アーメン」は、劇中でトツ子が見たきみの色から着想を得て作曲されたキラー・チューンだ。コーラスとオクターバーのかかったニューウェイヴ的なサウンドで奏られる印象的なギター・リフと、煌びやかなシンセサイザー、言葉遊びのように軽快に羅列された詞で歌われるキャッチーなフレーズが耳に残り、思わず口ずさんでしまうようなポップさがある。「物語はハッピーエンドで終わりたい。」と言及する山田の言葉のとおり、今までの重苦しい雰囲気を取っ払うような爽快感に溢れており、ライヴが始まったときは曇り顔だった3人も、この曲にたどり着く頃には笑顔で自信にあふれた表情に変わる。
そして、この曲に合わせて“くるくる回ってきらきらと” 修道服を揺らすシスター日吉子、『NANA』(2000-)で登場する、ヴィヴィアン・ウエストウッドのラブジャケットを連想させるような服装でライヴに駆けつけるきみの祖母、楽しそうな息子の姿に思わず笑みが溢れるルイの母の姿が描かれているのは、「告解」を通じた子どもたちへの理解の表れでもある。
また、牛尾による劇中音楽も大変素晴らしい。「音楽」をテーマとしている都合上、劇伴がテーマを阻害することのないよう、全体的には引きの目線から、かつ計算し尽された音楽は、時に環境音を織り交ぜながら効果的に使用され、作品へ一層の彩りを与えている。テクノやエレクトロニカから出発し、アンビエントや現代音楽までもカバーする幅広い引き出しと音楽的知識には、相変わらず感服させられた(牛尾と山田の劇伴におけるこだわりや、音楽的趣向については、『CONTINUE Vol.84』(コンティニュー編集部 2024)連載のインタビュー記事にて、本人による細部にわたる解説がされているので、ぜひ参考にしていただきたい)。
中でも一際印象に残ったのは、Underworld の"Born Slippy Nuxx" をリミックスしたM23 だろう。Underworld のライヴでは必ずセットリストの最後に演奏される彼らの代表曲であり、劇中では修学旅行を仮病でサボったトツ子と、祖母に嘘をついて寮に忍び込んだきみが過ごす一夜のシーンで使用されている。
90年代に一世を風靡し、老若男女問わず今でも青春映画の金字塔として人気を誇る、『トレインスポッティング』(1996) の劇中歌として有名な本楽曲は、ストーリーの終盤、上物のヘロインの売買に成功し、1日にして巨万の富を手に入れた悪友グループを出し抜いたユアン・マクレガー演じる主人公マーク・レントンが、人生の再出発に対する希望を胸に、盗んだお金を片手に空港へ向かうラストシーンで流れる。
サッチャリズムによる弊害の余波をもろに受けて、社会の周縁にはじかれた疎外感を感じながらも、後先考えずに快楽主義的で刹那的な生き方をした80年代イギリスの若者たち。薬物、窃盗、暴行などの犯罪的な悪事には手を染めないが、他人になかなか明かすことのできない悩みを抱えながら、夜の学校の一室でマンガを回し読みし(マンガのタイトル『天使もいいかもね』は、こちらも矢沢あいの『天使なんかじゃない』(1991-1994)のパロディのようだ)、お菓子を食べ、ネイルを塗り合い、ささやかな反抗に興じる現代の若者トツ子ときみ(彼女たちの一連の行為は、女子生徒が教師である修道女たちに反抗して悪戯を仕掛ける、カトリック系寄宿学校での日常を描いた映画、『青春がいっぱい』(1966)からの影響も見られる)。
時代背景やベクトルこそ違うものの、若者時代ならではの、年長者や権力に対する無差別的な反抗心、実在はつかみ取れないが、なんとなくどこかで感じる不安感や疎外感というものは、国や時代を越境しても変容することはないのだ。どの時代に生きようと普遍的に漂う若者時代、青春時代の独特な空気感を、"Born Slippy Nuxx" が強固に結び付けているかのようである。
描かれるテーマも、語られるストーリーも、全く関係のない両者であるが、本編で何度も繰り返し言及される、「変えることのできないものを受け入れる力を、変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別できる冷静さを」という、「ニーバーの祈り」から引用された言葉は、心なしか『トレインスポッティング』のテーマで、80年代に英国政府によるアンチドラッグ・キャンペーンとして掲げられたスローガン、"Choose Life" と共鳴し合うような親密性が感じられる。どの方向を向いて歩みを進めていくべきかという人生の指標は、今も昔も本人の意思と選択によって変えることができることを、暗に示唆しているかのようだ。
蛇足ではあるが、全編にわたって細かな音楽ネタが張り巡らされていたのも、観ていてあっと思わされる楽しい瞬間だった。例えば、きみが着ている"KIDS", "Pumpkins", 白地に黒い星のロゴTシャツは、それぞれKISS, The Smashing Pumpkins, David Bowie のバンドロゴやアルバムジャケットから引用されているし、ライヴで観客の中に紛れている天使の格好をした幼い子どもは、同じくThe Smashing Pumpkins の'Siamese Dream' (1993) のアルバムジャケットに写る、妖精の羽を背負った女の子のイメージとも被る(または、天使の羽を着けた少女が登場する、嶽本野ばらの『エミリー』(2002)も連想させられる)。
兄のおさがりとして、きみが使用するリッケンバッカーのギターは、言わずもがなモッズ、ブリティッシュ・インヴェイジョン、パンク・ロック、ニューウェイヴ、ブリット・ポップに至るまで、イギリスのポップ・ミュージックシーンとサブカルチャーを支えてきた代名詞だ。
2012年のロンドン・オリンピック閉会式にてパフォーマンスを披露し、イギリスを象徴するバンドの1つとして数えられるThe Who のギタリスト、Pete Townshend が愛用するギターとしても知られ、彼らが1965年にイギリスのTV 番組'Shindig!' で初めてパフォーマンスを披露した際にも、リッケンバッカーのギターが使われた。それから、The Who といえば、ユニオンジャックの国旗に身を包んだ有名なアーティスト写真と、彼らが音楽を担当した『さらば青春の光』(1979)にて、主人公ジミーがブライトンの海辺の崖をベスパで疾走するシーンを、『映画 けいおん!』のエンディングでそれぞれオマージュしていること、『映画 聲の形』のオープニングを飾ったのが、The Who の"My Generation" だったことも忘れてはならない。
昨今の音楽をテーマとするアニメ / マンガ作品の傾向のひとつとして、実在するバンド、ミュージシャンとのコラボレーション、彼らに関するオマージュネタが目立つことが挙げられるだろう。
例えば『ぼざろ』では、ASIAN KUNG-FU GENERATION の楽曲のカバーや本編におけるパロディ、KANA-BOON の谷口鮪、tricot の中嶋イッキュウ、元the peggies の北澤ゆうほなど、国内音楽シーンの第一線で活躍するアーティストを劇中歌の作曲として迎えている。
『ガルクラ』ではいきものがかり、木村カエラ、YUKI、SCANDAL など、J ロックという言葉がまだジャンルとして浸透する前世紀に活躍したアーティストたちを、軒並みプロデュースしていたことで知られるagehasprings が、全面的に劇中歌の楽曲製作へ携わっており、加えて本編サブタイトルは、全13話すべてのエピソードで実在の楽曲の曲名から引用されている。
マンガ作品でいえば、「次にくるマンガ大賞2023」のWEB マンガ部門で1位を獲得した『気になっている人が男じゃなかった』(2022-)では、Bon Jovi, Nirvana, Beck, Radiohead 他、80年代ハード・ロックや、90年代のオルタナティヴ・ロック、グランジシーンを彩ったバンドの作品が実名で登場し、2024年現在、未映像化作品にも関わらず、本編で登場するアーティストたちの楽曲を収録したコンピレーション盤がサウンドトラックとしてリリースされているし、『少年ジャンプ+』で現在連載中の『ふつうの軽音部』(2024-)でも、ナンバーガール、フジファブリックなど実在のバンドについての言及が目立つ。
『きみの色』では、直接的なバンドやミュージシャンに関する言及、楽曲の使用こそほぼないものの、山田や牛尾の現在に至るまでの音楽体験そのものにインスパイアされたフレーバーを作中へ取り込んでおり、イギリスやヨーロッパ諸国の、特にロックとダンス・ミュージックとの融和性が、特に濃かった時代にあたる音楽文化に対するリスペクトが、全編に渡って強く感じられる。また、例に挙げた多くの作品において、邦ロックとの強い繋がりが感じられる中で、敢えて80年代~90年代の英~欧の音楽を回顧的にピックアップし、作中に反映させているのは、単なる制作側の体験に基づいた主観性を超越して、本作のテーマに準じた「個性(色)の大切さ」や、「好きなものを好きと言える勇気」というメッセージとも合致しているといえるだろう。
聖バレンタイン祭でのライヴを経て、自分自身の色を見たことが無かったというトツ子は、「見えた!」という掛け声と共に、太陽と重なる自分の手にピンクの色彩を見る。
これは、彼女が今まで隠し続けてきた「人に色が見える」という特別な個性を、きみ、ルイとの交流や、秘密の「告解」、シスター日吉子との関係性を経て、自分の個性を認められるようになった瞬間を切り取ったシーンだと言える。つまり、他人に自分の個性(秘密、悩み)を知られることを恐れ、きみに見える青色、ルイに見える緑色に憧れ続けたトツ子が、ついに自分の中にピンク色という個性を見出すということは、自身に対する自己肯定にも捉えられる。
「色」は、この世に約1677万通り存在すると言われている。そして、色と同じく人がそれぞれ持つ「個性」も多種多様である。自分の色を持つことは自分自身を認めること、他人の持つ色と交じって新たな色になることは、他人を認めること。
トツ子、きみ、ルイの3人による物語は、「色」という概念を通して、我々にそれぞれの個性を持つことの大切さというメッセージを残してくれた。色の組み合わせは未知数なのであり、その組み合わせの数だけ人の個性が持つ可能性は、この世界に広がっているのだ。
“色というのは光の波のようなもので、長さの違う光の波で色んな色の形になる”
【⚠︎ 以下2019年7月に起きた、京都アニメーション放火殺人事件(以下京アニ事件)について触れる。また、山田尚子を糾弾する意図は一切無いことをあらかじめ明記しておく。】
この評論の導入を、山田尚子という1人の人間のイントロダクションから始めたのには訳がある。それは本作に、京アニ事件の被害者としての体験が反映されたメッセージ性を感じたからだ。
事実のとおり、この事件は36人の犠牲者、33人の重軽傷者、数えきれない遺族と被害者を出した、近現代で最悪の無差別殺人事件である。京アニという国内有数のアニメーション制作会社を低迷させ、アニメというコンテンツ全体の大きな損失となった以上に、36名の尊い命が奪われ、希望に満ち溢れた将来を奪い、犠牲者の遺族、残された多くの関係者の心に永久に消えることのない深い傷跡をつけた、決して許されてはならない惨劇だ。そして、2019年まで京アニに在籍していた山田自身も、事件の被害を被り、癒える事の無い心の傷を負ったであろう当事者である。
「自身のラノベのアイディアを京アニに盗まれた」という根も葉も無い妄想に支配され、身勝手極まりない行動で、多くの尊い命を一瞬にして奪い去った犯人青葉真司。彼は身柄確保後、被告人として京都地裁で行われた22回の審理の中で、何度か山田尚子の名前を口にした。しかし、結審として死刑判決が下された12月の裁判結果を経ても、山田本人から事件についてのコメントはされていない。同じスタジオで苦楽を共にした同僚との突然の別れは、ここで取り上げることもおこがましく無礼な程に、以降の創作活動に大きな影を落としたに違いない。結果、彼女は沈黙を貫き、我々に告げることなくひっそりと京アニを去った。
2021年、山田が監督を務めた『平家物語』が配信されるという第一報が届いた時、前作『リズと青い鳥』以来3年ぶりの監督作品で、京アニ事件以降初めての作品となることと同様に、サイエンスSARU にて制作された作品であり、彼女が京アニを既に退社していたという事実は、ファンを驚かせたことだろう。同時に事件以来、世間に告げることなく京アニを退社していたことに関して、疑問を呈したファンも少なからずいたかもしれない。
以上の経緯を前提に、本作を改めて見返してみると、前編で論じた作品の表にあたるテーマと両立して、山田の個人的なメッセージを孕んだ作品としての、隠された側面があるように感じられてならない。
本作の舞台設定にキリスト教由来のものが多いということ、「告解」という行為がメタファーとして物語の重要な位置を占めているという点は、前編で説明したとおりだ。知識が乏しいせいで、宗教学や神学の適当な言葉を使って説明できないのは、実に歯痒いことであるが、キリスト教という宗教は、カソリック、プロテスタントにかかわらず、神の代理人を務める司祭に自らの罪を告解(告白)することで、神に対して赦しを請うという教えの元に成り立つ宗教である。
京アニ事件の被害者としての山田の個人的体験が、作品に反映されているのだとするならば、この舞台設定や「告解」という行為は、事件をきっかけに京アニを離れて、別の場所でアニメ制作を続けている彼女自身の懺悔の表れとも解釈できる。
筆者は断じてこのようなことを思ったことはないが、あくまで仮定の話として、事件後に沈黙のまま京アニを離れて、今も事件に関する言及の無いまま、変わらずアニメ作品を制作していることは、もしかしたら一部の人々には、誤った捉え方をされてしまったかもしれない。または、事件後に無言のまま古巣を後にしたことに対して、本人が負目を感じていたのかもしれない。
トツ子、きみ、ルイと同じくして山田が抱く秘密というのは、我々には簡単に明かすことができず、到底理解することも叶わないであろう、京アニ事件の被害者としての苦しみや悲しみといった錘なのではないだろうか。
これらを踏まえて、主人公の1人であるきみと、山田本人とを重ねて考えてみるとどうだろう。きみの秘密は学校を無断で辞めたことであり、それを言い出せないことに引け目を感じている。山田の場合、沈黙のまま京アニを退職し、サイエンスSARU に活動拠点の場を移したことを、しばらく世間に公表しなかったことに対して引け目を感じていたのかもしれない。
シスター日吉子がきみに対して言った「何かこう、もう少し、心が軽くなるような、心の内を歌にしてみるのはどうでしょう。」、「私たちは何度も歩き直すことができるのです。」といった言葉は、山田自身にも投げかけている言葉のようにも聞こえ、サイエンスSARU という新天地で、音楽をテーマにした作品を制作しているという類似点もある。また、同じくシスター日吉子による「あなたはこの学校を卒業したのです。あなた自身のタイミングで。」という言葉は、「京アニを自身のタイミングで退社したに過ぎず、心はいつも京アニと共にある。」という釈明にも繋がる。
加えて、ライヴ前のバックステージにて、「私、よくよく考えたら学校辞めてるのに、ライヴなんてして良かったのかな。」というきみの言葉。これは「京アニを突然去ったにもかかわらず、作品を発表しても良かったのだろうか。」という山田自身の自問自答を通して、京アニ事件を経て作品を作り続けることの葛藤を表現しているとも感じられる。
ライヴが終わってしばらく時間が経った後、ルイは母親の望み通り進学のために、小さな町を後にする。海辺の防波堤でトツ子と隣り合って座るきみは、「またすぐに会えるよ。」とつぶやく。ルイが乗った船が汽笛を上げて港を発つ。ルイの顔へのクローズアップと共に突然消える周りの音。微かに音がフェードインしながら、船を追いかけて走るきみが見える。「がんばって!」という心からの叫びを上げながら、必死にルイを追いかけるきみ。それに応えるべく七色の紙テープを掴み、必死に彼女へ手を振るルイ。風が吹き、空へ舞い上がる紙テープ。大空でなびく紙テープをカメラがとらえ、この物語は幕を閉じる。
最後に描かれるこの一連のシーンは、きみが抱いてはいたが、遂に明かすことは果たせなかった、ルイに対しての好意の表れである。しかし同時に、町を出て新しい場所に出発するルイは、山田が後にした京アニの仲間たちの隠喩にも感じられる。山田は精一杯の声を振り絞りながら、旅立つ仲間たちを追いかける。きみの声で叫ばれるセリフは、突然居なくなってしまった仲間たちに対する、山田の最後の呼びかけにも聞こえ、色々な想いが交錯して声にならない気持ちに変わる。最後にルイの手を離れて空に舞い上がる紙テープも同様に、旅立った36人の仲間たちを示唆していると言えるだろう。本編が“See You” の2言で締め括られるのも、山田が直接伝えることは叶わなかった、彼らへの最後のメッセージだと推察できる。筆者はこの終盤のラストシーンの流れに、思わず涙してしまった。
エンドロール後のポストクレジットで、トツ子に呼び戻されるように腕を引かれるきみ。これは山田が仲間たちとの別れを惜しみ、受け入れつつ、それでも残されたこの世界で前を向いて歩いて行こうという、彼女自身の決意の表れでもある。
この作品に漂う独特な浮遊感、抽象的で雲のように掴みづらい主題というのは、描きたかった物語と、描かれるべき物語という相反するテーマで構築された二重構造によって、意図的に生み出されていたものだったのかもしれない。
京アニ事件をモデルにしたとされる出来事を描いた、藤本タツキ原作の劇場アニメ『ルックバック』(2024)が今夏に公開され、再び京アニ事件の惨状が思い起こされたことは記憶に新しい。本作では、クエンティン・タランティーノ監督作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)でモデルとなった、マンソン・ファミリーによって引き起こされた、シャロン・テート事件を巡る並行世界を引用して、美大での無差別殺人事件が起きた現実と、起きなかった空想の並行世界を併せて描いている。本編では、ものづくりにかける情熱を描きながら、京アニ事件を外の視点から構造的に捉え、直接事件を彷彿させる惨劇を描くことで、現実社会に与えた衝撃、残された人々の揺れ動く感情を描いてみせた。
対して山田は、京アニに所属していた元スタッフで、言わずもがな事件の被害者だ。『きみの色』は京アニ事件を隠喩的ではあるが、当事者としての内の視点から、事件との精神的決別と、残された被害者たちへの救済を提示していると言えるだろう。
「変えることのできないものを受け入れる力を、変えるべきものを変える勇気を、変えられないものと変えるべきものを区別できる冷静さを」というニーバーの言葉は、「起きてしまった事実を受け入れなければならないが、しかしそれを理由にそこに留まることはせず、強い意志を持って進み続ける」という、京アニ事件を通じた彼女自身に対する、残された人々に対する救済のメッセージなのだ。
たしかに山田は事件後、祖母に告げることなく学校を退学したきみと同じように、我々に告げることなく京アニを後にした。学友にも告げることなく学校を後にしたものの、白ねこ堂というバンドを従えて突然学校に戻ってきたきみと同じように、事件に関して沈黙を貫いたまま、突然新作を携えて我々の前に戻ってきた。事件後にメディアを使って何かコメントを発信したり、自身の現状を明かしたり、何かしらアクションを起こすことはできただろう。だが、彼女は旅立った仲間たちへの想い、残された者として何をするべきなのかという問いを、「作品を作り続けること」という強い意志の元で、『きみの色』に込めることを選んだ。世間に対して言葉や文字で発信するのではなく、彼女と仲間たちの1番の接点だった、アニメという表現方法を使って、志半ばに散っていった仲間たちの想いは、未だここに生きていることを示した。そして、彼女が京アニ事件の被害者として負った悲しみ、苦しみ、迷い、決意という様々な感情を全て作品に投影し、ものづくりに関わる表現者としての在り方、山田尚子という作家の在り方を、自己肯定的に証明してみせた。『きみの色』は、彼女なりの京アニ事件に対するアンサーなのだ。
これらの考察が、果たして第2のテーマとして作中で描かれていた内容なのか否か、それを詮索するのはあまりにも愚業過ぎる。そして、青春映画をテーマとして扱った前提で、山田は本作の制作意図を述べているため、後編で展開した筆者の駄文が、的を得た考察であるかどうかを証明する手立ては無い。それは、常磐みどりが向ける嫉妬の矛先は、果たしてたまこへのものなのか、もち蔵へのものなのか、はたまたみぞれと希美、どちらがリズでどちらが青い鳥なのかなど、山田尚子作品の本編で明かされなかった謎と同じくして、永遠に答えが明かされることのない問いである。だが、あえて明確な答えを用意しないということは、すなわち作品の捉え方を、我々受け手個人に委ねているということでもある。
山田は本作の劇場パンフレットに掲載されたインタビューにて、こう答えている。
「人それぞれの勝手にそうとらえてえてしまう感覚ってあって、おもしろいですよね。そこでとらえたものも思い込みに過ぎないかもしれないですが、私、思い込みや勘違いって、ものを作るうえで非常に大事だと思っているんです。(中略) 答えが出ないでほしいって思いながら描いていて、分からないことのほうがおもしろい、勘違いさせてほしい、しておきたいというのがある気がします。」
山田尚子監督は『きみの色』を制作することで、京アニ事件との精神的決別と、被害者の立場からの救済を導き出すことを果たした。しかし、これからも続いていくであろう彼女の表現者としての旅路が、『きみの色』で終わってしまう、この作品がキャリアの最高傑作として終わってしまう、ということはないだろう。彼女は必ずやまた新たな傑作を携えて、新しい物語を紡いでくれると信じている。
この散文は筆者自身に対する戒めでもある。2019年7月18日、筆者は京都市内の就業先での勤務中に、事件が起きたことを知った。(世代柄、「涼宮ハルヒシリーズ」や「けいおんシリーズ」は知っていたものの)当時、京アニ作品はおろか、アニメというコンテンツ自体に全く興味関心がなかった身としては、事の重大さを理解しないままにこの悲惨な事件と向き合うことから逃避してしまった。
振り返ってみれば、中学時代からロックに興味を持ち始め、ギターヒーローへの憧れという、正統な動機でギターを手に取った自分にとっては、『けいおん!』に影響を受けてバンドや楽器を始めるような社会現象に巻き込まれたことは、アニメやマンガというコンテンツ自体に対してさえも、嫌悪感を抱くきっかけになってしまった程である。
時は流れ、コロナウイルスが世界中に蔓延し始めた2020年を契機に、長年の趣味である映画観賞の延長で、アニメ作品にふれる機会が格段に増えた。
気づけば現在、筆者の関心事の大半はアニメ作品にある。関心の対象は京アニ作品も例に漏れず、『響け!ユーフォニアム3』(2024)で有終の美を飾ったシリーズを、『特別編 響け!ユーフォニアム ~アンサンブルコンテスト~』(2023)に端を発してリアタイで追ったことも記憶に新しく、ここ数年で宇治市や豊郷町他、京アニ作品の舞台となった聖地を何度も訪れ、関連イベントにも足繫く通う日々が続いている。
しかし、2019年の事件以降、今日京アニ制作による新作アニメ作品をテレビで、劇場で観られるようになったのは、決して当たり前のことではない。空白の数年間、被害者や残された関係者たちの血と汗滲む尽力と、作品人気を支えたファンたちによる絶え間ない支援があってこその復興である。だがしかし、判決を経てもなお、当事者の皆様の心の傷が完全に癒えることはないし、事件から5年経った現在も、京アニ制作による完全新作アニメ作品は未だ作られていない。何を以って復興と言うかの判断にも困る。
筆者は復興までに京アニが辿った、想像を絶する過程を知らない。事件以降も変わらず、作品を支持し続けたファンたちの悲しみも知らない。「アニメの魅力にもっと早く気づいていれば」、「事件が起きたあの日以降、微力ながら自分にも何かできることがあったのではないか」。京アニ関連の作品に触れる度に、これらの後悔の念が脳裏をよぎらないことは一度としてない。
8月30日、『きみの色』を観終えたその足で京阪電車に飛び乗り、宇治市へ向かった。そして、今年7月に設置された「志しを繋ぐ碑」の前で手を合わせた。意志はこれからも間違いなく受け継がれ、続いてゆく。
今日までに京都アニメーション作品に携わったすべての方々へ、改めて敬意を表して。
参考文献
キネマ旬報編集社 『キネマ旬報2024年8月号No. 1946』 (キネマ旬報社 2024)
CONTINUE 編集部 『CONTINUE Vol.84』 (太田出版 2024)
『きみの色』パンフレット (TOHO Animation STUDIO 2024)
(2024年8月30日 執筆・2024年9月11日 完稿)
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