動く歩道を知らない
仕事の都合で、エリートの集団を定点的にながめていた頃があった。そうしているとときどき、ぽろっ、と、うつに陥る人がいる。あのエネルギッシュな人が、と驚くような人が、そうなる。彼らにとってはモブB302とかモブT04Gであろうわたしのことですら、おびえたような目で見るようになる。そこからもとの位置へ戻った人を寡聞にして知らない。
その仕事を離れたあと、丸二年かけてじっくりと、わたしの精神は現実に対する敗北的撤退を続けた。いよいよ最後の支えが外れたのは、わたしの持って生まれた能力では、書くことにおいてすら、絶対にものにはならないと思い知ったときだった。それは最初にはマゾヒスティックな興奮として目の前にあらわれ、そのあと、典型的な落ち込みとなって全身に染み込んだ。酒を飲んで眠り、二時間で目をさまし、朝まで泣いて過ごした。
そういう、よくある不調に陥りながらまだ、わたしは卑近な好奇心とあさましい期待を抱いていた。偉大な芸術家たちのように、狂気のふちにある原色のインクをわずかでも掬いとれるのではないかと期待していた。実際には、きわめてありふれた感情が、正しくないタイミングで起こるというだけのことだった。恐怖がないのに、恐怖の反応だけがある。自分しかいない安全な部屋で精神がすくんでいる。強いブレーキをずっと踏まれている。頭が動かない。脳みそが、事実と妄想を同じ強度で参照し始める。左腕は、わたしにくっついているのがもう我慢ならないというように、不随意のタイミングでかんしゃくを起こす。
こんな苦しいのにぜんぜん陳腐やんけ最悪、と思って、病院へ行った。話の噛み合わない医者が薬を出してくれ、それはわたしの状態によく合った。わたしは社会にとって有用な人間になりたかった。薬はわたしの欠点をおぎなった。書くことにおいてすら根をはる価値がないのなら、社会にとっていくばくかでも有用な人間にならなければ、さもなければ、死んだほうがまし、だった。(有用さおよび死んだほうがましの基準はひとによってさまざまだし、わたしはそのことについて助言や諫言を受けるために書いているわけではない、念のため。)
薬。
薬はすごくて、人格は儚い。
薬を飲むと人格が変わる。ぎゅーっと踏まれていたブレーキがゆるむような感じがする。ときどき、ブレーキを踏む足に負けるときもあるけれど、総じて言えば以前よりもはるかに動ける。
休みの日、薬を飲み忘れたまま動こうとすると、がくっ、と動けなくなって驚く。動く歩道の上をすいすいと歩いていて、降りぐちの地面に一歩目を踏み出したときの感覚に似ている。わたしにとっては、数十年慣れ親しんだわたしに戻るだけのことだし、そもそもの速度が決して速くないから、数歩よろめく程度のことだが、動く歩道の上を駆けてきた人が急にこの状態に陥ったら、きっとつんのめって大怪我をするだろう。
ぽろっ、とこぼれ落ちたエリートが、わたしを見たまなざしを思い出す。恐怖なき恐怖が、強い強いブレーキが、あなたを大きな崖から突き落としてしまったのかなと、今更ながらに想像する。
いけしゃあしゃあと、わたしはもとの仕事に戻っている。まああれだ、難易度も低いから。で、死んだほうがまし、と言いながら、ものにもならない人生をまだ生きている。動く歩道を知らないから、自分の速度に意味があると信じている。ままならない人生がポンコツ・レジリエンスをやしなって、それがわたしを生かしている。