昔、友人とバリ島へ旅行に出たときのことだ。事前に立てたスケジュールをなぞる日々にうんざりして、体調不良を言い訳に、半日ほどの自由時間を得たことがある。あの日、足の裏で感じた砂浜の熱さ、無目的に歩いた水辺の光、ホテルまで戻るあいだに食べたジェラートの冷たさ。全てが眩しいほど幸福なものとして記憶に焼きついている。 もっとも、体調不良という言い訳は無言のうちに看破され、人間関係にしっかりとした亀裂が走った。あたりまえだ。不誠実だ。今は反省している。 しかしその逸脱によって、わ
仕事の都合で、エリートの集団を定点的にながめていた頃があった。そうしているとときどき、ぽろっ、と、うつに陥る人がいる。あのエネルギッシュな人が、と驚くような人が、そうなる。彼らにとってはモブB302とかモブT04Gであろうわたしのことですら、おびえたような目で見るようになる。そこからもとの位置へ戻った人を寡聞にして知らない。 その仕事を離れたあと、丸二年かけてじっくりと、わたしの精神は現実に対する敗北的撤退を続けた。いよいよ最後の支えが外れたのは、わたしの持って生まれた
きみは三島を知っているか。三島は、伊豆半島のつけねにある街である。東海岸は熱海と西海岸の沼津のあいだにあるふたつの駅のうち、西側にある方が三島である。北西に雄大な富士をのぞみ、富士からの澄んだ湧水が小川となって街のいたるところを流れる、そういう街だ。三島由紀夫の筆名の由来となったことをご存知の方も多いだろう。 ちなみに東側の駅は「函南」といい、「かんなみ」と読む。知らなさがすごい。 先日、三島へ一人旅に行ってきた。クラフトビールめぐりをしているときに偶然通りかかって、
音楽の三要素とは、という問いがある。クイズとしては頻出の問いで、ベタ問、に数えられるらしい。答えは、(1)リズム、(2)メロディー、(3)ハーモニー。 その一連の流れを聞いたとき、なるほどな、と思った。たとえ独唱であっても、その音の連続のなかにハーモニーはある。 その定義をあてはめれば、それは音楽ではなかった。そこにはリズムもメロディーもなく、かろうじて、ハーモニーがあった。それも和音という言葉より広い定義を必要とするハーモニーだった。 にもかかわらず、それは音楽で
例えば5万字の小説を書くとする。 それを同人誌にして、100部刷って頒布する。 すると500字ほどは、それにお金を払って手元に置いてくれるあなた一人のために書いた、ということになる。 紙の本のために字をつらねていると、ふとそんなことが頭をよぎって、書いたものをまじまじと見つめることがある。これは誰かに贈る言葉なのだ、と思う。 バンナムフェス2ndで、ライブ、というものをひさしぶりに感じながら、その感覚を思い返していた。 ところで、ライブってあんまり好きではない。
バンナムフェス2nd2日目のことだった。 広い、広いZOZOマリンスタジアムの一塁側フロア2から、視力の届く限り、ステージを見つめていた。 彼女は黒い衣装を着ていた。黒が彼女に割り当てのカラーだからだ。彼女は、まるで球場いっぱいのオーケストラへ指示を届けようとするように大きく、その長い手足で空を切る。ぱっ、ぱっ、と歯切れよく止めを入れる。それが音楽にぴたりとはまる。元気にはねて、飛んで、切れ味のいいターン。勢いがよすぎて、かわいらしい、の箱にはとても入れられない。