Live 500字 4 U
例えば5万字の小説を書くとする。
それを同人誌にして、100部刷って頒布する。
すると500字ほどは、それにお金を払って手元に置いてくれるあなた一人のために書いた、ということになる。
紙の本のために字をつらねていると、ふとそんなことが頭をよぎって、書いたものをまじまじと見つめることがある。これは誰かに贈る言葉なのだ、と思う。
バンナムフェス2ndで、ライブ、というものをひさしぶりに感じながら、その感覚を思い返していた。
ところで、ライブってあんまり好きではない。完成度がそんなでもないことがあるからだ。いかんせん歌が、なんというか、うまくないときがある。グループで歌唱をする場合は特に練度が可視化(可聴化)されてしまって、いたたまれない。トラブルのときちゃんと音声を切れる仕組みさえあれば、口パクでうまい歌を流してくれた方が、わたしにとってはありがたい。
それから環境のよくなさがある。最近はずいぶんマシになったけれど、徹頭徹尾お近くのみなさまのクソデカ歌声を聞いて終わるという経験をした人は少なくないはずだ。しんとしたコンサート会場で、こちらの魂まで研磨されそうなすばらしい演奏がおこなわれている最中に、お徳用の袋をガサガサ言わせながら飴を食い始めたり、永遠に鼻をかみ続けるやつを一瞬だけ真空に詰めちゃえたらどんなにいいかと思う。
とかくライブは住みづらい。
バンナムフェスにおいてもやはり住みづらさを感じることはあった。前のやつが、盛り上がるとコンサートライトを頭上まで振り上げちゃうやつだったのだ。おまけに前のやつはわたしと同じユニットを愛していた。盛り上がりのタイミング、感情、そういうところには大変共感できるのだが、共感のたびにわたしの視界を縦長の光が遮るので弱った。輝度が低めのコンサートライトだったからまだいいが、大閃光だったらこちらにも考えが生まれてくる。
ライブの合間、知らないユニットのインタビューを聞きながら、たいへんお行儀のよくなった前のやつの後ろ姿を眺めつつ、ライブってこれだからなあ、と考えた。それから、5万字の小説を同人誌にすることを考えた。5万字書く、100部刷る、そうしたら、一人あたり500字、たぶんあなたのために書かれている。あなたのものとして生まれている。ZOZOマリンスタジアムに、自分一人のための座席番号を持って集まった一万人だか、二万人だか、そのために歌と演奏と演出が生まれている。今はお行儀のいい前のやつと、ライブってなあ、とか斜に構えているわたしの上に、平等に500字ずつ、あるいはきわめて特別に500字ずつ。
もちろんライブ配信だってあった。配信で見てくれているみんなへのコールも抜かりなく行われていた。しかし、ライブとライブ配信は、すくなくとも今の技術では体験としてぜんぜん重ならないだろうな、と思った。だって、音はちょいちょい外れるし、視界は知らんやつのコンサートライトで邪魔されるし、コンテンツとしてはあんまりじゃないか、ライブって。
でも、ここにいるあなたにはきっと取り分がある、ここにいるわたしにもきっと取り分がある。それはとてもフィジカルで原始的な営みだ。5万字の話を100冊の本にして、100人で分けるみたいに。
それなら、もしかしたら口パクじゃない方がいいのかも、と少しだけ思う。