見出し画像

世界は私が思っていたよりもずっと複雑だった。

世の中って、なんて複雑に成り立っているんだろう。
そんなことについ最近気がついた。
私の頭に思い浮かんでいた社会の像は、実際のそれよりも、もっとずっと単純だったなと思う。

私の父は林業をしていて、母はパンを焼く人だ。私の周りの大人たちは、教師だったり、農家だったり、カフェやレストランの人だったり、あるいは陶芸家か大工か、、。要するに、「〇〇屋さん」とか「〇〇家さん」とか、そういう名前のついた人たちが互いに支え合って、社会って成り立っているんだと思っていた。田舎で育った私を取り巻いていた環境は、私の想像力に収まるくらい単純な姿をしているように私には見えていて、とにかくそれが私が生きてきた"社会像"だった。

でも、世界に出てみると様子は少し違うようだった。ドイツのホームステイ先のパパは、紙パックを作る会社で、紙パックを作るための機械のメンテナンスをする人だったし、フランスのパパは、石油を掘り出すための機械の部品か何かを開発しているエンジニアだった。
目の前にある一つのモノをとってみても、それは無数の人の手を介して、お店屋さんの手元まで来る。そこには、商品を作る人もいるけれど、そのための機械を開発する人やその機械の部品を製造する人もいる。商品のパッケージをデザインする人もいれば、パッケージのプラスチックや紙を製造する人もし、当然できた商品を運ぶ人もいる。それらの会社には、現場で働く人もいるけれど、人事や経理で働く人もいるだろうし、あるいは会社の食堂で働く人や警備員さんもいるかもしれない。
そういう無数の人と人とが複雑に関わり合って、今の社会は形をなしているらしい。
無数の職と職との中にお金を流して、グルグルグルグル回すことでそれぞれの生活を支えていく、そういう仕組みの中に、私たちは生きているらかった。



でも今はみんなお家にステイするときらしくて、今までぐるぐる回っていた"社会"が止まってしまったようだ。
例えば、みんなあんまり車に乗らなくなった。そうしたら石油の需要がすごく減って、フランスのパパの仕事にまで影響が及んだらしい。
1つの動きが止まってしまったときに、そのことが起こす影響の甚大さと幅広さは、今や計り知れない。というよりも、社会のほとんどありとあらゆる所に影響が現れると言ったほうが正しいのかもしれない。

要するに、"社会"は「〇〇屋さん」の集合ではなくって、もっともっと細かく細かく分業されていて、その全貌は私なんかの想像力の及ぶところではないほど、よっぽど複雑なものだった。そんなことを思い知った。

でも同時に、想像も及ばないほどの無数の職が支え合っている社会って、ちょっとある意味素晴らしいのかもしれないなんて、思わないでもない。私は身の回りのことができる限り目に見える範囲で解決できてしまうような、地産地消型、自給自足型の社会が、より持続可能で、より豊かだと思っていた。でも実際は社会ってそんなに単純な姿で存在できるものなのかな、なんて、思ったりした。

私は、"消費する"ことがいくら経済のためにとても大切なことであったとしても、必要以上に"消費する"ことは地球環境を破壊し続けている行為であると思ってきた。だから私は、"消費する"ことをできるだけ減らそうと努めてきた。でも、そういう行動一つ一つに、まさに、他人の生活がかかっている。そういうシステムの上に、私が、今まさに生きていることを改めて思い知ったのである。

(決して消費することを肯定するためにこの文章を書いたわけではなくて、世界って複雑なんだなぁって思った、ただそれだけのことが言いたかったのです。)

写真は全然関係ないけど、ポルトガルのリスボンに行ったときに撮った写真。