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尾崎正教をアートプロジェクトの起源として考える

 この文章は、松山市文化創造支援協議会主催の2023年の展覧会「わたくし美術館開館支援センター」<企画>深澤孝史(美術家)<企画協力>土山あやか(子ども造形アトリエnekko講師)に際して、松川太郎の「とりごや美術館」の活動に出会ったこと契機に展覧会に展示したものを元にして書きました。アートプロジェクト、アートマネージメント、芸術祭に関わる人たちに広く読んでいただきたいと思い公開しようと思います。


「わたくし美術館開館支援センター」展示風景

①尾崎正教とわたくし美術館1

尾崎正教

 尾崎正教( 1922ー2001) は58歳まで小学校教員として働きながら、美術教育、アートオークション、コレクター組織の運営、私設美術館の立ち上げとネットワーク、芸術家支援、版画の販売、 芸術祭、アートプロジェクトなど、79歳で亡くなるその日まで、芸術の啓蒙普及活動を実践し続けた。現在の美術界には商業的、公共的、政治的、コミュニティーアートなど様々な活動の分野があるが、それらがまだ未文化な時代から関わってきており、アートプロデューサー、マネージャー、コーディネー ター、エデュケーター、ギャラリスト的な活動をまだそうした呼び名が生まれる前から芸術と人、芸術と社会を繋げる活動をしてきたのが尾崎正教だ。尾崎正教という人物は現在の日本の芸術界隈においてほとんど忘れ去られた人物である。だが私は、彼の活動や理念は現在の日本のアートプロジェクトや芸術祭の実践的基盤を形成した人物の一人だと考えている。芸術の専門家でもない一教師にそんなことが可能なのかと誰もが疑うだろうが、むしろ専門家ではなく教育者という立場であったからこそ彼は、美術家や評論家など理念的指導者に囲まれていた環境で評論家や美術家にはできない社会と理念、社会と表現を「実践的につなぐ」という仕事を発明していったのであった。この文章では、これから今でいう広い意味でのアートマネージメント、アートプロジェクト、芸術祭の実践的基盤を拓いた一人が尾崎正教であったことを彼の活動や思想を追っていくことであきらかにしていきたい。彼の活動の軸になっているのが教育と国づくりであり、芸術教育を通じて人を育て民主的で文化的な国を築いていくという信念があった。その具体的な手段が尾崎正教の代名詞とも言える活動の「わたくし美術館」である。「わたくし美術館」とは一体なんなのだろうか。尾崎正教が刊行した『わたくし美術館』という4冊の本 1980-1992(①)

①『わたくし美術館』1巻〜4巻

で紹介されている美術館だけでも347館あり、完全に私設のものもあれば企業が建てたものもある。さらにこの本には紹介されていない「わたくし美術館」も複数開館している。わたくし美術館の定義は曖昧な部分もあるが、わたくし美術館について語る彼の言葉を引用する。

 コレクションは、コレクションすることに意味があり、楽しみがあるものなのでしょう。けれども、コレクションを公開することには、自分が持つことのできた喜びを他人に伝えたいという、 人の心から心へ伝えられる共感があると思います。わたくし美術館はこの共感こそが、本来美術館・博物館の持つ意味であることを信じ― そのような心の問題が見失われがちな公共の美術館 (博物館)に対して― 誇らかにわたくし美術館と称したものです。(②『わたくし美術館 会報 vol.1』1981)

②『わたくし美術館 会報 vol.1』1981

尾崎は「心」の問題という言葉を使っているが、権威や制度で価値づけられた作品や場所ではなく、 個々人の勝手な感性で選ばれた作品から立ち上がった美術館ということだ。尾崎は愛国者を自認していたが、右翼的な思想を持っているのではなく、個々人の芸術活動、特に現代芸術家の表現を真摯に享受し発信していく拠点を形成することが民主的な国家を作っていくと信じて活動をしていた。美術教育普及運動(活動)とわたくし 美術館設立(制作)の二つを軸にした芸術による国づくりが尾崎の終生の理念的実践だった。それではこれから尾崎正教の生い立ちと活動の歴史を追ってもう少し具体的に「わたくし美術館」とはなんだったのか、そして現在を生きる私たちは「わたくし美術館」の活動を踏まえ、どういった文化芸術活動を志していけるのかを追ってみよう。

②尾崎正教と陽明学の影響

尾崎の母校である大洲中学校(現大洲高校)の敷地内中江藤樹邸址の至徳堂

 尾崎正教は1922(大正11)年大洲市に生まれた。大洲藩の家臣の家である尾崎家に養子として迎え入れられ育った。大洲藩は内村鑑三の『代表的日本人』でも有名な陽明学の創始者といわれる中江藤樹が学び仕えた場所でもあり、尾崎は中江藤樹にあやかって建てられた至徳堂で『孝経』を中心とした儒教を学んだ。息子の正明氏によると愛媛師範学校時代に安岡正篤の『王陽明研究』に影響を受けた。その後、戦争で中国の重慶に配属されたが、戦争末期に盲腸になり上海で療養したのちに帰還したとのことである。ちなみに重慶は日本が世界で初めての空爆を行った場所であり、尾崎自身も晩年に戦争体験を通じて自分の中の利己的な残忍な一面を見つけたこと(①『わたくし美術館 会報 vol.67』 2000)

(①『わたくし美術館 会報 vol.67』 2000)

について語っている。尾崎正教の愛国と民主主義との両立する思想の成立背景にはこの陽明学からの影響と日本の植民地主義からの反省の二つの側面が合わさってできたものと考えられる。今日では公共や憲法の問題を芸術が扱うことが珍しくなくなったが、尾崎による「個人の表現」と「天皇を中心とした国づくり」とを執拗に結びつける発想は、80年代、90年代にかけてのグローバリズムや商業主義、個人主義が台頭していく時代の美術界からはあまり支持されるものではなかった。また、尾崎が影響を受けた「孝」は儒教の重要概念の一つで、基本的には父母を敬愛する態度のことである。儒教研究の加地伸行によれば、父母を生きている祖先と考えて大切にすることであり、原始信仰の祖先崇拝と結びついているという。祖先崇拝は古代の家族制度とつながっていて、現代よりも圧倒的に病や死が身近であった時代において人間が生存していく合理的な手段として家族制度と祖先崇拝が発達していった。そうした信仰と制度が国家の政治体制と結びついて儒教が発展していった。中江藤樹は、融通が効かないほどに制度重視に固まっていった当時の儒教の主流である朱子学に「心」の問題を取り入れた王陽明の文章を読み、自身の心学を深めていった。尾崎は自身の全国を旅しながら行った版画行商を「聖人」としての活動と考えていたが、この「聖人」が指している意味を藤樹や陽明学に由来した祖先崇拝、人間社会の持続や継承の意思の言葉と捉えると尾崎の意図の理解が深まる。また陽明学は明治時代に入って新たな統治の学問として注目されるようになり、独自の解釈を取り入れていったのが国家主義者のイデオローグの一人である安岡正篤である。尾崎は彼の王陽明研究に影響を受けたのだった。戦前の安岡の思想は「哲人主義的民本思想」(②『安岡正篤の研究―民本主義の形成とその展開』川井良浩 2006)

(②『安岡正篤の研究―民本主義の形成とその展開』川井良浩 2006)

と呼ばれ、民本主義といえど個人を意思を尊重する民主主義とはある意味対極的な思想であった。「哲人主義的民本思想」は儒教の思想と天皇中心にした国体論とが結びついた思想で、天皇が道徳的に理想的な存在として位置しており、天皇に準ずる道徳的に優れた政治家や官僚が国を治めるべきで、国民は理想である天皇に従っていくことが良い国のあり方であるという考え方である。これを読むと戦後の尾崎の考え方とはまるで相反しており、実際に戦後の尾崎は、戦争への反省から軍隊的な学校教育の批判 (③『学校は軍隊である』年代不明1970年前後か?)

(③『学校は軍隊である』年代不明1970年前後か?)

もしているが、尾崎の通底する「心」を中心にした国づくりという発想は陽明学から続いていることがわかる。また晩年の尾崎は戦争への反省が満了したと考え、封建制度なくして民主主義は理解できないと考え、天皇制を重視する思想へと回帰していった。(④『わたくし美術館 会報vol.63 』「日本国憲法を読もう」 1999)

(④『わたくし美術館 会報vol.63 』「日本国憲法を読もう」 1999)

尾崎は現代美術に教育及び国作りと結びつける活動をまさに死ぬまで続けていたが、日本が経済成長していくにつれ商業主義的、自由主義的なものに芸術作品が扱われていく流れの加速に抗いバランスをとるかのように天皇や、憲法の問題を押し出していったのであった。

③尾崎正教と創造美育協会

創造美育協会の中心人物たち

 尾崎正教が美術教育の運動を始める最初のきっかけは久保貞次郎との出会いと創造美育協会(以降「創美」と記す)の活動だった。尾崎は、久保貞次郎の考えを実現していく実行隊長の役割を担っており、しばしば久保の考えをはみ出していたと尾崎は晩年記していた。(①『わたくし美術館 会報 vol.53』 1997)

(①『わたくし美術館 会報 vol.53』 1997)

尾崎の創美との出会いについては、松山龍雄による連載「現代版画の舞台裏5」(②『版画芸術113』2001)

(②『版画芸術113』2001)

及び尾崎の残した原稿を参照すると、1951年雑誌『みづゑ』が久保貞次郎監修の「児童美術」の特集を組む。また『美術手帖』に栃木県真岡の久保邸での児童画研究会の案内が出ており、それらを見た尾崎は、洪水に襲われた田畑と次男の出産を前にした妻を置いて初めて上京し、真岡の1951年6月第8回児童美術研究会に参加。翌1952年に創造美育協会が設立、5月武蔵野美術大学の美術研修スクーリングで上京していた尾崎は設立に立ち会った。1953年には愛媛を離れ上京し大田区に居を構え、六郷小学校に赴任、その後嶺町小学校に異動。53年8月軽井沢の第2回創美全国セミナールから参加。(③当時の写真)

③当時の写真 第3回創美全国セミナール

湯川尚文、木下繁、藤沢典明、岡田清一、河村浩明、林建造らと盛んに研究会を開き創造教育啓蒙発展に邁進する。1955年第4回長野県湯田中全国セミナールから美術オークションをはじめる。57年8月湯田中で再び開催された「芸術家と美術教育者による討論会」をきっかけに、1958年福井県芦原温泉での会合で組織として、作品を3点持っていれば小コレクターであるとみなして美術愛好家を増やす「全国小コレクターの会」(④当時の写真)

④当時の写真

が発足、尾崎は事務局となる。創美は身をもって美術に関心を持ち実践的に促進できなければ、子どもたちの絵の良し悪しなぞわかるはずないという立場を貫いており、尾崎は教育者としてはじめは作品の売買や資金繰りなどの活動を躊躇っていたが、自分の意思と感性をもとに身銭を切って作品を購入することこそ一番の美術鑑賞教育であるという信念を持つようになっていった。58年から59年に小コレクターの会は久保ギャラリー、軽井沢、芦原温泉、名古屋、浦和などで盛んに開催。60年に瑛九(⑥写真)

⑥瑛九(『眠りの理由』の原稿に使われた写真)

が死去し、求心力を失った小コレクターの会だが瑛九亡き後は尾崎氏が会を引っ張っていき、1961年から東京小コレクターの会の事務局としてオークションを多数開催(⑦リーフレット)

⑦瑛九作品頒布会リーフレット
⑦磯辺行久作品頒布会リーフレット

していく。上京後から尾崎は瑛九の制作アシスタント(⑧「瑛九と私1-3」『版画センター ニュース』NO.12、14、15 1976)も

(⑧「瑛九と私1-2」『版画センター ニュース』NO.12、14 1976)


行っており、瑛九の死後に瑛九の会が発足し、『眠りの理由』(⑨)

⑨『眠りの理由』

という機関誌が発行され、編集も請け負っていた。また尾崎にとって瑛九と対照的な作家として位置づけられているオノサト・トシノブのシルクスクリーン版画のプロデュース(⑩写真)

⑩オノサトトシノブ版画販促リーフレット

を行った。創造美育協会の活動の中で、他にも池田満寿夫、靉嘔、滝口修造、磯辺行久など第一線で活躍していく美術家、評論家との関係が作られていった。

④尾崎正教と勤評抗議の自殺


 1950年代後半に勤務評定に反対する社会党及び日教組と勤評を推進する自民党及び教育庁とが対立した勤評闘争が日本の大きな政治闘争として記録されている。尾崎正教は愛媛時代から日教組の活動も盛んに行っていたが(尾崎は共産党員ではなかった)、尾崎正教の教育制度に対する活動で、最も過激でセンセーショナルなものは勤務評定に対する抗議のために教育庁前で自殺を図った事だ。勤務評定とは教員の勤務態度から昇級を決定する制度で、発端は愛媛県であった。日教組と勤評を研究する岩月真也(2011)によると1956年11月、愛媛県では県財政の赤字克服という理由から教師の昇給は7割の者に制限され、その昇給決定に勤務評定が使用されることとなった。その後文部省は勤務評定を全国で実施する方針を決め、1958年4月の実施に向けて、1957年12月に「教職員の勤務評定試案」が発表されたことを契機に全国的な闘争が勃発することとなった。闘争が激化した愛媛では日教組がほぼ消滅する事態となる。ちなみに当時の愛媛県教育委員会委員長の竹葉秀雄は反日教組で、尾崎も影響を受けた国粋主義者の安岡正篤の高弟であった。この勤務評定制度に反対した尾崎は抗議の自殺を計ったのであった。尾崎にとって勤務評定制度は、個人の自由と創造性を学ぶための民主主義教育を根幹から破壊する行為で、戦争の残虐さを反省した尾崎には到底認められるものではなかった。当時の新聞(①)

①朝日新聞昭和33年4月23日付か

によると、当時六郷小学校に勤務していた尾崎は昭和33年4月19日、午前10時より都教育庁前で勤評反対デモ(4000人)に参加後(新聞によっては3年生の遠足のため金沢八景へと出かけ14時過ぎに帰校したのちとの記載もある)、学校の机で遺書の準備をし、20時前には学校を出て、教育庁前で服毒自殺を図る。教育庁前で宿直の職員発見されたのは午後11時半だった。同時に職員は遺書も発見していたが、それを無視し泥酔者として警察に連絡し家に運ばれたが、妻が様子がおかしいと病院へと 担ぎこみ、大量の睡眠薬を飲んで自殺を図ったことがわかった。『婦人公論』1958 年9月号に尾崎正教が記した「勤評に死の抗議をした教師の手記」(②)

②『婦人公論』1958 年9月号「勤評に死の抗議をした教師の手記」

が遺書とともに掲載された。戦後ゼロから民主主義教育・美術教育を模索していった現場の教員たちは、保守派の反動やアメリカの対日政策の変容に巻き込まれ、管理教育・成果主義の方針を受け入れざる得ない形となっていった。自殺未遂後の尾崎は、そのような流れに抗いながら、自身の創造的教育理念の思索を深めていき、その考えはのちに出版する『わたくし学校』にまとめられる。

⑤尾崎正教と磯辺行久

 創美の活動交流を深めていた美術家の磯辺行久が1964年に半年間渡欧し、アトリエを売却するとのことで、作品を預かって欲しいと頼まれた尾崎は学校の空部屋に磯辺の作品群を隠してしまっておいた。磯辺はそのままニューヨークに居を構え10年帰ってこないままであったが、その間尾崎は、磯辺と数えきれないほど文通を行い、東京での展示や制作などの指示なども受け教員をしながらさながら磯辺のアートマネージャーのような活動を続けていた。磯辺は1970年ペンシルヴェニア大学で環境計画を学び、当時新たにはじまったアースデイの活動に傾倒し、コネチカッ ト大学におけるアースデイの催しである「オースティンアーツセンター トリニティカレッジ春の芸術祭 我々を取りまくものー環境 人間・芸術・社会」(①資料)

①「オースティンアーツセンター トリニティカレッジ春の芸術祭 我々を取りまくものー環境 人間・芸術・社会」翻訳資料

で芸術監督的な立場を勤める。ニューヨークの磯辺から多数送られた書簡による尾崎へのアースデイの紹介や働きかけもあり、翌1971年東京の代々木公園で実施された日本で最初のアースデイイベントともいえる「人間と大地のまつり」(②報告書)

②〈報告書〉人間と大地のまつり

が、ヨシダ・ヨシエと尾崎正教の事務局体制によって実施された。一方、学校に置かれていた作品群は校舎の改築に伴い、移動せざるを得なくなり複数の知人を頼って作品を分散保管していたが、それも難しくなり千葉県長南町の手嶋重衛の敷地に新たに20坪の倉庫を建設しそこに作品を保管することとなった。そして尾崎はその倉庫を美術館と言い張ることを思い付き、最初のわたくし美術館である「磯辺行久美術館」(③リーフレットなど)

③「磯辺行久美術館」リーフレット

が1976年に誕生した。尾崎は『美術手帖 美術年鑑1977』に「私美術館試論」(④)

④『美術手帖 美術年鑑1977』「私美術館試論」

を掲載し当時の構想理念を記している。その後も尾崎は1989年に磯辺行久展の開催(⑤資料)

⑤磯辺行久美術展リーフレット

など、磯辺美術館を長南町の公立のわたくし美術館建設にするべく奔走するが、計画は頓挫し、磯辺も長南町から作品を引き揚げることとなり磯辺と尾崎の長い蜜月の時は90年頃終わりを迎えることとなる。

⑥尾崎正教と現代版画センター

 小コレクターの会も始まって10年以上が経ち、活動に停滞ムードも出つつあった1974年に現代版画センターが立ち上がった。尾崎正教はその事務局長として活動することになる。現代版画センターの設立は、1973年当時、毎日新聞社の販売調査課に勤務する綿貫不二夫が多数の企画書を書いてはボツにされるというのを繰り返している中、唯一通った企画書がきっかけとなった。毎日新聞が発行しているさまざまな新聞の利益率を調べてみると、ほとんどの新聞の販売収入が赤字の中で唯一利益率99パーセントのものがあり、それが毎日小学生新聞中学生新聞だった。小中学生新聞の部数を40万部から100万部に戻すため、子どもや保護者、学校に知ってもらおうとして考えたのが全国の小中学校25000校に絵を寄贈するというものだった。途中でそんな数の油絵を用意できないということがわかり、綿貫は複数の作品を刷れる版画の存在を知る。群馬出身の綿貫は文化パトロンの井上房一郎に相談に行き、翌日には土方定一を紹介されるも土方は版画は門外漢とのことで、今度は久保貞次郎を紹介される。さらに久保に紹介されたのが尾崎正教だった。ただ新聞社から企画と予算は下りたが、正式な会社の設立は認められず、当時渋谷で会社をしていた橋本遼一の事務所に間借りする形で始動し、1974年の2月には「全国版画コレクターの会(仮称)準備会」が発足。3月31日には高輪プリンスホテルの飛天の間で旗揚げオークション。開催に合わせて尾崎は関係者に熱烈なラブレターを送る。橋本遼一が組織のしきり役となり、「普遍的な活動を目指すならば普通名詞でいきましょう」ということで「現代版画センター」と正式名称が決まった。1977年に毎日新聞が事実上倒産したことを受け、その前年に現代版画セン ターへの資金も打ち切られることが決定したが、綿貫は毎日新聞社を辞め現代版画センターを買取り、1976年12月に株式会社化して代表となる。旗揚げから綿貫が中心となって全国を行脚して版画センターの会員ネットワークを築いており、教員の尾崎は「夏のキャラバン」(①資料)

①「尾崎正教夏のキャラバン」資料

と題し、主に夏休みを使った「富山の置薬売り」(『版画センターニュース』No2  1975)を自称した普及活動を行なったが、1977年以降は経営上の判断か尾崎が版画センターで全国行脚をすることはなくなった。法人化する前後に現在のアートフロントギャラリー代表の北川フラムも現代版画センターに参加するようになり、1977年の展覧会「現代と声」などをはじめ、さまざまなイベントを企画していくようになる。そのような若い世代の台頭や、株式会社化に伴う現代版画センターの経営方針などと尾崎の考えに徐々に溝も生まれ、事務局長、会員の席は置きつつもも次第に活動を自身の「わたくし美術館」へと移行していくことになる。尾崎のわたくし美術館のネットワークは、それまでの創美のネットワークだけではなく、綿貫らが中心となって全国行脚し築いていった現代版画センターのネットワークも合わさってできていった。現代版画センターの会員ネットワーク自体も尾崎は、美術教育と民主国家つくりのための理念とつなげて捉えていたのであろう。その後、1985年2月に現代版画センターは資金繰りがうまくいかず倒産する。その際、尾崎は会員代表として破産は不当だと抗告するが訴えは退けられた。

⑦尾崎正教とわたくし学校

 尾崎の創美の活動や勤評抗議からもわかるように、小学校教員の仕事や現代版画センター、わたくし美術館活動と同時進行で、学校教育の問題に対しても多くの文筆活動などを行っていた。その集大成として1979年に小学校教員であった自身の教育実践と現行の学校制度に対する批判的考察から、『わたくし学校』(①)

①『わたくし学校』1979

という新たな学校のあり方を提案する本を出版した。尾崎が「制度」ではなく、「心」の問題を扱おうとしている点において「わたくし美術館」と一環していることが読み取れるため一部引用する。

 日本ではどういうわけだか「私」が市民権を得ていません。私生児として世の片隅に追いやられています。公正とか公益といえば他人を押しのけても通用しますが、私利、私欲といえば悪いこととして人の指弾を受けます。「私」が市民権を持たないから、個として社会に立ち向うことができないのです。私怨が権利を持たないから、それを公憤に転化することによって自己の主張を通そうと試みられたのだと思います。( p6 )

 私が「学校は軍隊である」というと、人は私を奇をてらう者のように思うだろうが、私は、これが 日本の教育の誤りの一番の根源だといいたいんだ。~ その一つは、日本の先生が、軍隊教育以外の教育というものを知らないこと。しかもそれを知らないという自覚がないこと。もう一つは、日本の学校の編成が戦前の軍隊の組織を踏襲していること。軍隊というのは、その典型的なものが歩兵で、小隊というのが戦斗のための単位になるわけだ。一ヶ小隊というのは三ヶ分隊ー十五人で編成されていた。即ち四十五人が一つの戦斗の単位になっており、それが軍隊教育の単位なんだ。言い換えたら、一学級四十五人というのと一ヶ小隊四十五人というのとはぴったり一致するわけ。文部省が一学級の定員を四十五人と定め、それを基準に教育の方法を展開しているから僕は日本の学校は軍隊であると言っているんだ。(p69 )
(※令和3年改正法では、学級編制の標準の引下げ小学校の学級編制の標準を40人(第1学年は35人)から35人に引き下げるとなっているので尾崎の目標値の30人からはまだ遠い)

 尾崎の考える「私学校」の構想だが、自身が赴任していた大田区田園調布南の嶺町小学校の情況を詳細にまず分析をしている。地形、地理、所在地、高区域、校区人口、校舎敷地、運動場面積、校舎構造 面積、その他施設(給食調理室、倉庫等)、体育館(講堂)、プール、教室数、児童数、職員数など である。それは尾崎のいう既存の教育制度が作る「軍隊学校」を具体的に解体するためである。私学校は1971年に構想されており、その年の資料を元に検討が行われている。まずは45人学級をやめ、尾崎の構想する寺子屋式の私学校にするために独自に校区を区分し、商店街や駅前など立地条件に合わせた教育機能と少人数教室の再配置を考える。各教室は街のマンションや、公共施設、倉庫、 マーケットなどの物件に校区ごとに分散させることで少人数クラスを設置する。本校舎もあり、そこには屋上庭園、ビニルハウス、栽培園、天体観測所、飼育池、水田、休息室などが設置されている。 また職員室は設置せず、コンサートホールの管理室があり、そこに校長と教頭が詰めている。校長の主な業務は教育図書を読むことで毎月レポート提出が義務付けられている。尾崎は教員の教育学に対する知識の乏しさを憂いており、教育図書、専門書、専門家と関わるきっかけなど環境がないことが問題だと訴えている。3階にあるコンサートホールは歌うこと、聴くことを重要と考えるために設置、音楽室は別にある。図書室は学校で最も重要な施設とする。指導教師の他にヘルパーを配置。予備室。 2階には美術室、版画のための小部屋。美術館。演技室=朗読、演劇による表現を重視、人形劇の舞台のほか、立木、立体、扉などの簡単なセットが設置でき、本読みなどができる。そのほかに醸造、 発酵室、理科室、お店など。1階には彫塑室、染織室、保健・ベッド室、製麺・製パン室、給食調理室、遊戯・控え室、廃品処理室がある。私学校が公学校と違う最も大きな点は、物と心が共通課題であることで、もののいのちを知るということが人間を知ることであることを体験を通して知らせたいという考えのもと、家庭の廃品を分類し整理してもう一度役立てることを教える。 運動場、体育館は、「祭り」の場所として機能する。私学校が、個人の自由を充分に尊重しながら、社会的連帯性を育ててゆくのは、コミュニティの生活のリズムに乗っているからであり、その生活のリズムは「まつり」から生じると尾崎は考える。 そして私学校構想の締めくりに「私小学校」の架空の一日物語られる。 このように尾崎は、「わたくし美術館」構想に関しては、創美時代に出会った衝撃的な現代美術を普及していくような、ある意味保守的、限定的な運動にも感じるが、「心」を取り戻した公立学校=「わたくし 学校」構想を読むと、まるで学校を現在でいうところの複合的で本質的、創造的な学びに力を入れたコミュニティアートセンターや美術大学、地域に根差した芸術祭の構想を見ている感覚になる。

⑧尾崎正教とわたくし美術館2

 1979年に尾崎は「わたくし美術館」の第1巻を刊行する。第1巻には、それまで交流のあった私設、公設、企業美術館、ギャラリー、コレクターの紹介が中心に編まれているが、後半は尾崎の仮想美術館の紹介と、もし「わたくし美術館」の理念が日本国に実装されたらという夢物語(①『わたくし美術館』1巻)

①『わたくし美術館』1巻 1989

が小説風に描写されている。まず尾崎はナショナル(現パナソニック)の社長が外国の客人と話す様子そのものを社長に物語る。応接間にもしオノサトトシノブの絵が飾ってあり、そこで客人の対応をしたら日本の美術が伝統と前衛が通底する世界一線級のものと理解され、ナショナルの商品自体の評価も変わって来るであろうと社長にプレゼンする。社長は尾崎の話に乗っかりオノサトトシノブの絵画の購入を1億3千万円で申し出るが、尾崎は一企業の顔を作りたいわけではなく、美術で日本の顔を作りたいと断る。オノサト以外にも瑛九、靉嘔、菅井汲、李禹煥、磯辺行久、 関根伸夫、山口長男、福井延光などを紹介し、ドクメンタやポンピドゥーセンターに匹敵する美術館村を作ることが「わたくし美術館」の刊行の目的であると語り、唐突にやってきた名古屋の画商が尾崎に支払いの催促をして話は終わる。「わたくし美術館」の基本コンセプトとしては、自分の好きな石を集めた美術館があっても良いし、 骨董でも模型でもどんなテーマのものがあってもいいが、彼の運動の究極目標には、日本の現代美術を世界に発信する美術館村を日本人のアイデンティティと直接結びついた形で建設することだった。それぞれの市民が作る小さな美術館も重要だが、尾崎個人の「わたくし美術館」構想は、日本国の顔としての「わたくし美術館」だった。尾崎はその後、1979年より「美術館訪問記」(②わたくし美術館 会報より)

②「美術館訪問記」(わたくし美術館 会報より)

と題して、定期的に日本中の美術館、ギャラリー、アートスペースを仲間と共に巡り、オークションも続けながらネットワークをさらに深める全国行脚を死ぬまで続けた。尾崎は2001年の10月に79歳で亡くなるが、それも新潟県小国町の美術旅行中の出来事だった。「わたくし美術館の会」も発足。1992年までに「わたくし美術館」を4巻まで完成させ、2001年までに会報誌を70号発行した。 1988年にはアートジャーナル(③映像)

③「アートジャーナル」Vol.3 袋井赤レンガファイナル(川俣正)

という、ビデオテープの隔月刊のビデオマガジンも発行し7巻続いた。また活動のなかで、新たにわたくし美術館や芸術祭や展覧会を立ち上げる動きが松山や湯布院、清水、伊豆、柏、三島など多くの地域ではじまった。松山では、1983年に「大街道わたくしの町美術館展」、1984年に「第2回大街道わたくしの町美術館展」、1991年「大街道わたくしの町美術館「上をむいて歩こう」展」(⑤新聞資料他)

⑤1984年「第2回大街道わたくしの町美術館展」記録資料
⑤1991年「大街道わたくしの町美術館「上をむいて歩こう」展」リーフレット

を開催。第2回は川俣正とPHスタジオを招聘し、大規模なインスタレーションからイベントスペースを立ち上げた。もちろん川俣の力が大きいが、展覧会も現在のアートプロジェクトへと形態が変容している。静岡県清水市では、本阿弥清が「虹の美術館」の開設準備を1986年よりはじめ、2001年から2005年まで開館する。さらに尾崎は、「高等学校美術館」という運動も同時進行して行う。これはわたくし美術館とわたくし学校の理念を一つにしたような活動で、高校のある町には高校の中でも外でもどちらでも良いので一つの美術館を設置しようというもので、その普及活動のために学校に販売するための版画集を制作し20万円で販売した。 最後に晩年の尾崎の活動だが1995年あたりから「文化勲章リーグ」(わたくし美術館会報誌52号 1996)という活動を始める。これが尾崎の最後の国家理念的プロジェクトだった。1994年に大江健三郎が文化勲章を辞退したニュースを目にした尾崎は、はじめは大江に感心するのだが、徐々に違和感を覚えるようになり、天皇制と民主主義が共在している日本の状況に着目する。文化勲章に反対する人たちは、民主主義が進化完成した終局的政治体制と考えて、そのために天皇制の打倒が必須だと考えるが、自身の人生観と照らし合わせると民主主義が究極の形とは到底信じられず、むしろ民主主義の原理は相対的なものなので終局的という思考と馴染まないし、民主主義だけが国民の幸福を保証するとは限らないので、民主主義と天皇制が並列する「いいかげんな日本国憲法」を誇りに思いたいと宣言する。文化勲章を否定し、天皇制を否定するのであれば順序として日本国憲法を改訂するべきだと尾崎は主張するようになる。こうして、日本国憲法についての記事も増え、新たに開設準備をしている三島の美術館を半ば強引に「憲法の杜美術館」(わたくし美術館会報誌70号 2001)と呼びはじめる。2000年に発行した会報誌67号のあとがきを引用すると

「中支戦線4年間の生活は自分がいかに利己的で、残忍な存在かと気づかされ、己に戦犯の衣を着せ永く日の丸、君が代に嫌悪の感情に溺れていました。しかし、77歳の齢を越え、戦後50年を平和窓法を守り通して来た上はもう少し自己の存在に自信を持ち、大和魂に誇りを持ちたいと思います。今、思うのですが、私が頑なに日の丸君が代に背を向けて来たのは、自らの罪を他に着せて自分の免罪符にしていたのではないかと思います。このことは、文化勲章についても、天皇制についても共通した認識があると思います。この会は由布院空想の森美術館の高見館長も言うように、反対の意見も自由に闘わせられ、迫った意見でも、それはそのまま横に置いて協力できるところは一緒にやって行きたいと思います。例えば、文化勲章リーグには反対だけれども、野田哲也展は開きたいというように。」

と書かれている。晩年の尾崎は戦前に受けた第日本帝国の教育に回帰した視点で、民主国家の建設を構想しており、仲間からの賛同もなかなか得られずにいた。だが尾崎は、戦前の「心」はあるが個人の自由がない封建制度的な世界と、戦後の個人の自由や制度はあるが「心」が失われた世界の両方を体験してきた彼ならではの視点から双方の特性を合わせた国として日本を捉え直す変化はありつつも、一から国をつくっていくという意思は変わらなかった。「心」から生まれ育つ場所を終生渇望した尾崎の理念的活動は最後まで貫かれていたのである。
 この文章は、尾崎正教の活動をアートプロジェクトの起源として考えてみるという趣旨で書いてみたものである。アートプロジェクトの定義はなかなか難しいが、人々が共に在るということを創造的な形で行うさまざまな実践と考えると、尾崎の活動と我々の現在の活動がほとんど変わらない形で行われていることに気づかされる。それは、啓蒙活動的なわたくし美術館運動よりも、より尾崎の人間の原初的な創造性の教育を希求する思想が発揮されている「わたくし学校」が本質をつき、現在にも通じているように感じた。ただどちらも根本的には、愛を持って人々と関わるという尾崎の聖人としての精神で通底している。




この文章を書くにあたりさまざまな方のご協力をいただきました。誠にありがとうございました。

協力(敬称略)
尾崎正明、赤見正行、綿貫不二夫、矢野徹志、杉山はるか、田中美紀、豊田 勝、豊田 渉、羽藤八五子、浜田玲子、本阿弥清、升田裕康、松川晃、松川弘子

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