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十字街のモナミ

函館の旧市街には昔、カフェーがたくさんありました。幕末に開港し、昭和初期は東北以北最大の街だった函館。もし擬人化するなら、戦後再び北洋漁業で沸いた昭和30年あたりはバリバリ稼ぐお洒落なアラサーってとこでしょうか。当時生まれてバブル期まで生き残ったいくつかのうち、私の推しは「モナミ」でした。

よそ者の函館

小学生の頃、札幌から越して来た函館には長いこと馴染めなかった。「言葉が違う」と体育館の裏へ呼び出されたのが転校初日 (マンガか ! )。慰めはたまに家族で行く函館山からの景色だった。二つに分かれて広がる海を眺めて、いつか自分の居場所を見つけるぜ、と思っていた。

高校三年の夏、学校を抜け出すことを覚えた。一階教室の窓から靴を放って市電通りに出て「谷地頭」か「函館どっく」ゆきに乗れば15分で旧市街だ。カリフォルニアベイビーで文庫本を読み、新島襄がアメリカへ密航した小さな波止場を眺めてぼーっとする。ラッピやハセストやスタバはまだなくて、金森倉庫の煉瓦色とカリベビの青色だけがある。学校には部活が始まる頃戻ればいい(ことにした)。

妄想の旧市街

函館山の坂で名を持つのは19個(個でいいの?)らしい。内陸側に住んでいた私には、名のない坂ほど旧市街の暮らしが見えて好ましかった。坂の上の教会群には開港時代と同じ鐘が鳴り、祈る人たちがいる。一時閉鎖されていた英国領事館では偶然、破れたドアを見つけた。そっと木の曲がり階段を上ると個室が並び、部屋の床やタイル細工を施した暖炉の中には昭和40年代の古新聞やアイドル雑誌「明星」が散らばっていた。石畳の坂を下りたら柳並木とホテル中央荘のある銀座通りへ。昭和初期の若くて勢いのある函館を空想する絶好の養分だ。ただ、カッコいい和洋折衷建築が使われなくなったり、できた時とはかけ離れた扱いをされているのだけが悔しかった。

路面電車は本物の函館へ行くタイムマシンだ。私が来たのが少し遅かっただけで、まだあちこちに影がある。

愛しのモナミ

「モナミ」は電停でいうと十字街と宝来町の間にあった。モルタル造りの二軒ひと棟で、右のモナミと左の小さなカメラ店、めいめい感じのいい入口がついている。外の直線的なデザインと小さな丸窓は昭和のモダン調だ。そっとドアを押してみる。呼び鈴がチリンと鳴って、中には糊の効いた白いカバーのかかったソファー席がいくつか。奥には足掛け付きのコントワール(立ち飲みカウンター)が大人っぽくて、でも妙に懐かしい。ふっと、お客のいないホールの奥から年配の女性が現れた。ブラウスと短いエプロンをつけた立ち姿は背筋が伸びて、何かお稽古ごとの先生みたいだ。

「あの……やってらっしゃいますか?」こわごわ訊くと、その人の表情が少しだけ緩んだ。平日の昼間っからくる高校生なんて不審に決まっているが、叱られはしなさそうだ。「お席はどちらにします?」と言われてカウンターを選んだ。ビニールのかかった活版印刷のメニューを眺めてミルクセーキを頼むと、その人はカウンターの端に据えたオスターブレンダーに卵黄、牛乳、ジガーで計ったシロップと大きな氷をいくつか入れて回し始めた。年代物のアメリカ家電の大音量に気を取られていると、液体は氷の入ったシェーカーに移され、慣れた手つきでシロップが注がれる。そして女店主は小さく一息吸うと左足を45度にすっと引き、顔の高さでカラカラとシェイカーを振る。シェイカーの音がゆっくりになったと思った途端、もったりした卵色の液体がロングのタンブラーに注がれる。

うまく言えないけど、何か凄いものを見た気がした。相手が学校をサボった子供でも、この人がする仕事はたぶんいつもと一緒なんだ(大人になって、それがバーテンダーのシェイキングだと知った。あんなにさりげなくて毅然としたシェイキングはその後、見たことがない)。

それ以来、旧市街へ行けばモナミへ寄った。こざっぱりした白髪頭の、常連らしい男性たちがボックス席でコーヒーを飲んでいる日もあった。他に誰も居ないと私は昔話をせがみ、彼女は嫁いできて初めて喫茶店を開いたことや、カメラ店は療養中のご主人が営んでいたこと、大門にロシア風に紅茶を出す大きなサモワールを据えたカフェがあったことなどを話してくれた。控えめな言葉に、函館訛りはほとんどなかった。

緑色のクリームソーダ、あのシェイキング見たさに注文するミルクセーキ、白いドイリーペーパーに乗ったジャムトースト。ハイスツールに浅く腰掛けて振り向けば、ドアの上には小さなステンドグラス。私は昔のまま生きているこの店に、満足しきっていた。大学を出て出版社に就職し、雑誌を送りたいと言ったとき初めて、彦坂満喜さんというお名前をお聞きした。お体の調子がすぐれないと聞いてからは、彦坂さんとモナミに変わりがないか確かめたくて、帰省の折に店を訪ねた。1980年代末、「地上げ」という嫌な言葉が流行って、旧市街の表通りから歯が抜けるように建物が消えていった時期だ。函館山の裾に突き刺さるように高層マンションができたのも、確かあの頃だ。

「今度、閉めるんですよ。」
いつもと同じ声の調子で彦坂さんが言った。とうとう来る時が来たのだ。どうにもできないことは知っている。残念です、としか言えないままコーヒーカップが空になり、お店の思い出にと頂いた切子のショットグラスと銀メッキのコーヒースプーンは、私から頼んだはずなのによく覚えていない。次に帰省した時には、モナミは消えていた。きれいさっぱり更地になったアスファルトの奥に見えるのがご自宅だろうと見当はつくが、モナミの彦坂さんにはもう会えない。今思えば、こちらから便りをした時に返事を頂く、淡いつきあいだった。

函館カフェ文化の影

 誰か、モナミを知りませんか。そう言っていたら、函館の老舗タウン誌「街」の編集さんがゆかりの人を見つけてきて下さった。その方は、彦坂さんの夫の姪にあたる木村尚子さん。「街」編集室の河田節さんと文芸誌同人だったそうで、見ず知らずの私に快く時間を下さった。聞けば、新潟県十日市市出身の木村さんは18歳で親類の彦坂さん夫妻を頼って来函し、モナミ開業の昭和22年からご自身が結婚するまで満喜さんを手伝っていたという。当時、旧市街ではカフェがよく流行っていて、「ミス潤」「珈琲園」「ブラジル」といった喫茶店がそれぞれに工夫を凝らしていたらしい。第二次大戦後だから甘いものがまだ貴重で、モナミはあんみつも出す名曲喫茶としてなかなか流行っていたそうだ。入口に小さなレセプションカウンターがあったのは、その忙しい時代の名残だそうだ。

木村さんからは他にも、彦坂さんが新潟の長岡高女を出て上京し、バスガイドを経て日銀のタイピストをしていたこと(どうりでキリリとしていたわけだ)、多趣味で引退後も若い仲間と賑やかに過ごされたことなどを伺った。よかった。胸のつかえが消えた。彦坂さんは若者が集う全盛期の旧市街を生きた闊達な女性だったのだ。モナミと共に。

「あの人はとにかくお洒落でわがまま。(引退後も)パッチワークや登山はするし、千代ヶ台(昔の函館のスポーツ施設が集まる場所)で白髪の女性がランニングしていたから驚いて、顔を見たら叔母なのよ。根性がすごかったけど、それもまた可愛いの、同じ歳になってみれば、ね……。」

モナミが消えて、私が電車で十字街へ行くことはなくなった。木村さんと待ち合わせたのも、旧市街とは反対側の丘にある公立はこだて未来大学だ。十字街は変わった。けれど、遠くから眺める函館山と街はまだ美しい。モナミを偲ぶにはここがちょうど良かったのかもしれない、なんとなく。

今でもどこかの古い街並みを歩くとつい、眼で影を探してしまう。モナミのようなミルクホールが、まだどこかにあるかもしれない。

(タウン誌「街」533号 2012年1月1日発行 を加筆修正)


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