小説 『Mimi』

   

 

二〇一四年度 群像文学新人賞 一次予選通過作品  原稿用紙一〇五枚

一、

  私は今もカメラマンの仕事をしているが、同業者に限らず、皆がデジタルカメラ……最近は携帯電話についているのだが、とにかく電子映像を人々が使う時代になって、もうどのくらいになるだろうか。あれは私がまだフィルム式の銀板写真で仕事をしていた、最後の季節だった。日本中が猛暑だの酷暑だのと騒がしかった、あの年の夏。

少なくともあの時、馬鹿みたいに毎日の様に繰り返し歌っていた歌は、今はもう耳にすることはほとんどなくなった。懐メロというには新しく、新曲でも流行歌でもないその歌の思い出が今、蘇る。

 

 その夏の日、私は東京から電車に乗って一時間位の所にある港町の駅前で、老婦人に道を訊かれた。

 「ヘイ、れでぃ。テレホン局はどこだね?」

  私はリュックサックとカメラケースと三脚を持って、信号待ちをしているところだった。後ろからそんな風に声をかけられて、少し驚いた。その「テレホン局」とは何なのかが分からなかったので――いや、実は一番びっくりしたのは、その老婦人の風貌だった。

青みがかった銀髪に真っ白い肌、鷲のような鼻に大きな唇。年齢は八十を過ぎているだろうが、腰が幾分曲がっていて、ビニール傘を杖代わりにしていた。

 何色と表現すればいいのかと迷う様な原色のムームーの上に、白いニットのレース編みのストール。靴は黒の毛皮のショートブーツ。コンビニエンスストアの袋をバッグがわりにしているらしく、ピンク色の財布や黒い手帳らしきものが透けて見えていた。

皺だらけとはいえ、手指は白く美しく、金や色石の指輪が似合っていて、決して高価でないそれらの宝石が、実際の値段以上の物に見えるくらいだった。子供の頃から宝石が好きだった私は、たいていの宝石の価値が予想できるのだが、せいぜいひとつ数万円位の、私の少ない収入でも貯金をすれば買えそうな位のオパールとルビーの指輪が左右にひとつずつ。首にはプラチナの細い鎖が光っていて、左耳には十ミリ玉位の真珠のピアス。そして、左の手首にはピンクゴールドの細い時計を身につけていた。

 化粧はローズレッドの発色のよい口紅と、くっきりと形よく描かれた眉。白い大きな帽子には、小さなオレンジ色の花がついていた。

 「テレホン局って、なんですか?」

 彼女の独特のムードに圧倒されつつも好奇心には勝てず、ついつい話にのってしまった。私は優しいとか親切だとかとよく言われるが、実際はそうでなく、単に好奇心旺盛なだけだ。だから、その不審な老婦人の質問に質問で返した。

 「テレホン局だよ、ほら……テレホン局」

 私の質問に答えられない彼女は、困っていた。確かにこの街は観光名所ではあるし、外国人も多い。彼女が純日本人でない事や、日本語が少し不自由な事は歴然としていた。でも、私は英語どころか、日本語も怪しい無学な人間だ。どうしたものかと悩み、青信号を渡る事なく、彼女と一緒に立ち尽くしていた。

 私は汗だくだったが、彼女は不思議とあまり汗をかいておらず、化粧も崩れてなかった。いったい、どうしたら彼女の様に崩れない化粧が出来るのか、後で聞いてみたいと思った。

 私はこの老婦人が、たった一人でテレホン局なるものを探して彷徨っているのを少し不憫に思い、とりあえず自分に出来る何かをしようと決めた。

 「ゆー、スクール出てるだろ?」

 「はい、まあ…」

 「ジュニアハイスコーウ? ハイスコーウ? それとも、ユニヴァーシティかい?」

 何故彼女はいちいち英語を使うのだろうか。文法はちゃんとした日本語なのに、単語が英語交混じりだ。これだけ日本語が出来るなら、単語も日本語を使えるだろうにと思った。

 「えーと……カレッジです」

 「じゃあ、イングリッシュはわかるだろう? うぇあいざ、テレホンエクスチェインジおふぃす?」

 彼女は私に電話局はどこかと流暢な英語で質問した。

 「ああ、電話局ですか。家でお使いですか?それとも携帯ですか?」

 「何でもいいよ、とにかく、テレホンが欲しいんだ」

 私は彼女に合う電話を世話する事に決めた。次の青信号を渡って、駅前の地図の前までゆっくりと歩きながら、彼女の事情を少し聞いた。

 六十代の息子さんと娘さんがそれぞれ結婚しているが、何ヶ月に一度位会いに来るとか来ないとか、元芸者で近くの長屋で一人暮らしをしているとか。老人の話は長く同じ内容の繰り返しが殆どだが、私はそんな話が好きだ。自分よりも倍以上の人生の話、知らない時代の話、自分なら耐えられない様な苦労や、そしてどことなく健やかな時代の小さな幸せのエピソード。実はそんな不便だが平和な時代が羨ましかった。

 「ポータブルテレホンにしませんか? 病院の中では使えませんが、外出中でも使えますし、何かと便利ですよ」

 私は彼女に携帯電話を勧めた。

 「ああ、ポータボウかい。いいね、今はハンディで。それにしよう」

 道々歩きながら、彼女に名前を訊ねた。すると、彼女は『ラ・ボエーム』のアリアの一節を口ずさんだ。しゃがれた声で、「みんなは私をミミと呼びます」と歌った。

 「ああ、ミミさんと仰るんですか」

 「おお、よく分かったね。ゆー、クアルチュアアがあるね」

 クアルチュアア、とはなんだろうか。と思ったが、黙って話を合わせた。

 そして、とある携帯電話会社のショップに着いた。受付で一時間以上かけて手続きをし、一番シンプルな防水携帯を契約した。くれぐれも電池を切らさない様にと、電池式の充電器もあわせて買った。

 「テンキュウ、レディ。アイスクリン奢るよ、カッフェに行こう」

 真珠色のきれいな携帯を手に、彼女は言った。

 そして、駅前のファーストフード店で、私達はソフトクリームにありついた。

 「うん、デリィシャス……美味しいね」

 「ミミさんは、アメリカのどこにお住まいでしたか」

 「サンディエゴ……カリフォルニアだよ。四十八年住んでたよ」

 なるほど、彼女の日本語が怪しい理由が分かった。つまり、長きに渡る海外生活で、日本語を忘れてしまっているのだ。

 ソフトクリームを食べ終わると、彼女はビニール袋から煙草を取り出した。私も吸おうと、バッグから煙草のポーチを出した。偶然にも、同じメンソールの煙草だった。

 「ゆーは、ヴィジターかい? そんなに大荷物で。どこから来たんだね?」

 「東京です」

 「そうかい。はーばあでも撮るのかい? それ、中身はキャメラだろう?」

 「はい、仕事で」

 「へえ、ふぉーとグラファか、いいねえ」

 「全然儲かってなくて、殆ど道楽です。いつもはアルバイトをしています」

 彼女は煙草を三分の一くらい吸ってから、灰皿に押し付けて言った。

 「はーばあのフォトなんてどうするんだい?」

 「テレホンカードにするんです。公衆電話で使うカードです」

 「こうしゅうでんわ…って何だい?」

 「ええと、街にあるボックスの電話です。ほら、クラーク・ケントがスーパーマンになる時に入る、あれです」

 「ああ、ぱあぶリック・テレホンの事かい。なるほどね」

 彼女にテレホンカードの何たるかが分かったのかどうかはわからなかったが、それ以上訊けなかった。

 「あ、また煙草、根元まで吸っちゃった」私はそう呟いて、慌てて火を消した。

 「根元まで吸って何が悪いんだい?」

 「だって、みっともないでしょう?銀座のホステスやってた居酒屋のおかみさんに、煙草は根元まで吸ったらいけないと言われまして……」

 「そんなホステスの言うことなんか。みーは元芸者だよ。とらあすとみー。シガーなんてもんはリラックスして吸うもんだ。ノープロブレん、スタイルなんて関係ない」

 そう言われて私は少しほっとしたが、やはりなるべく煙草は根元まで吸わないようにしようと思った。

 「芸者さんて、アメリカで?」

 「まだ日本にいた頃だよ。みーはこれでもガールズすくう出てて、フィナンシャルコンフィディのレディだったんだ。琴に三味線に踊りと唄……全部出来るんだよ。みーの父さんが死んでフォーチューンを没収されて、フぁミリィを養うために花柳界のスカウトを受けたんだよ」

 つまり、戦後の財閥解体で財産を取り上げられたと言う意味なのは、後で辞書を引いてから私は理解した。彼女はもとは名門の家の令嬢だったと言うわけだ。 

「へえ……なんだか凄い。グレイトですね」

 彼女はにっこりと笑った。笑い皺が寄ると人懐こい笑顔になる。

 「テレホンナンバーをエクスチェえンジしてくれるかい?」

 彼女は思い出したように、手帳を取り出した。先ほど、自分の住所の書いてある後ろの方のページに、電話番号を書いたのである。

 彼女は手帳の一ページをめくり、自分の住所と電話番号と名前を縦書きの日本語でさらさらと書いた。達筆な昔の人独特の筆跡に、思わず感心した。話し言葉は英語混じりでも、書く文字は立派な日本語だった。

 私は名刺入れから、一枚の名刺を取り出して渡した。写真の仕事の時に使うものである。東京のアパートの住所が、仕事場兼事務所になっている事を伝えた。

 そして暫くしてから、もう昼近くになっていたので、私は撮影があるからと言って、彼女と別れた。

 「何かあったらコールしてくれよ」と彼女は言い残した。

 私は彼女の書いた手帳の切れ端をポケットに入れた。

 

 

二、

 港や街並みを夕方まで一通り撮り終えた後に、何本かのフィルムを近くの写真屋で現像に回して、クライアントの広告代理店に宅急便で送る手配をした。明日の午後には届くだろう。

 夕方過ぎに携帯が鳴った。

 「もしもし、撮影終わったか?」

 声の主はカメラ仲間の雄二だった。私はうんとだけ言った。

 「これから会えないかな」

 雄二はそうい言いながら、電話口で煙草を吸っている様子だ。きっと会社の喫煙室にいるのだろう。

 「ねえ、もう二人で会うのはやめようよ」

 私がそう言うと、雄二は溜息をついた。

 「まだ拘ってるのか、薫の事。もう三年も経つのに」

 「そうだよ、一生忘れられないよ。私たちのせいであんな事になって」

 「あれは事故で……それに、俺たちは何も」

 「死んだからって、私、薫を裏切れない。私、雄二の事、なんとも思ってないから」

 「じゃあ、何で避けるんだ」

 私は言葉に詰まった。

 「今から電車に乗るから、じゃあ」

 私はそう言って電話を切り、駅に向かって歩き出した。

 考え事をしていたら、東京方面とは逆のホームに行ってしまった。何となく今日は東京に帰りたくない気分になったので、そのまま来た鈍行の電車に乗り、とある田舎町の駅で降りた。駅前のコンビニで缶ビールとつまみと煙草を買い、海岸を目指して歩いた。

 海岸に着いた頃には、もうとっぷりと日が暮れていて、海はコールタールのように真っ黒だった。向こう岸には明かりががぽつぽつと見える。砂浜を少し歩いたところでカメラケースに腰掛けて、缶ビールをあけ、煙草をふかした。

 波の音は穏やかだった。暫くその波の音を耳に、ビールを飲み続けた。

 ふと、涙が出てきた。

 私は、何が苦しいんだろう。

 薫を裏切って雄二と恋に堕ちた事だろうか。薫が死んだ事か。仕事がうまくいっていないせいか……数え上げたらきりがない。

 写真の仕事といっても、月に一、二度位あるかないかで、生活のために誰にも言わずに、テレクラのサクラのバイトをして食いつないでいる有様だ。あのバイトは精神をかなり消耗する。電話口で知らない男の性欲処理につきあうなんて、もうしたくないと思いつつ、時間と給料との都合の良さで辞められないでいる。雄二や他の友達がこの事を知ったらどう思うだろうかと思うと、情けない思いでいっぱいだ。

 実は薫の死から三年間の間、心療内科で薬を処方して貰っている。毎日、死にたい気持ちと死にたくない気持ちが往復している。でも、牢獄のような東京のアパートなんかで死にたくないし、死んだとしても誰にも知られたくない。

 私は三本目の缶ビールを空けた。

 四本目のビールを飲んでいると、少し離れた所にある小さなボートが目に留まった。

 私はふらふらと近づき、ボートを物色した。ぼろぼろではあるが、手ごろな大きさだ。しかも、もやい綱だけで鍵もチェーンもかけてない。オールも二本ちゃんとある。

 私は意を決して、そのボートに荷物を入れて、海へと押し出した。かなり重いが、一人でも何とか押せるくらいの小さなボートだった。

 数十分かけてボートを押し出し、海に出た。なんとかオールを漕いで沖まで出る事が出来た。

 携帯がまた鳴ったが、確認せずに切り、携帯のアドレスと履歴をすべて削除した。そして今朝診察の時に貰った二週間分の薬を取り出し、ビールで次々と流し込んだ。

 すると、間もなく眠気に襲われ、そのまま眠りについた。

 


 三、

 鼻に管を入れられた時の痛みには気づいたが、私は深く眠ったままだった。

 そして、目が覚めたら案の定、病院のベッドだった。ああ、また死ねなかったんだなと思った。

 ベッドの横には、看護師でも医者でもなく、意外な人物がいた。

 「ミミさん……?」

 「おや、気づいたかい」

 ミミさんは平然とした様子でナースコールのボタンを押し、看護師を呼んだ。私はまだ何が起こっているのかがわからないまま、ぼんやりしていた。

 「ミミさん、何で?」

 「しいっ。グランマとお呼び。いいかい?ゆーはみーのぐらんどどーたーって事になってるんだからね」

 何故ミミさんがここにいるのかと暫く考えた。少ししてから、ミミさんの書いたメモをポケットに入れたままだった事に気づいた。

 「孫って、なんで?」

 「ノーぷろおむレム。どぅーアすあいセイ」

 それから看護師が来て、続いて医者が呑気そうな感じで、気分はどうだとか、何故自殺しようとしたのかとかと訊いた。私は喉が渇いたとだけ言って、ぼんやりしたまま口をつぐんだ。自分でもなぜ死のうとしたか、よく分からなかったのだ。

 医者が去った後、看護師が言った。

 「お婆ちゃんを悲しませてはいけないよ。二日間もずっとあなたの傍に付き添ってたんだからね」

 看護師が去った後、ミミさんはビニール袋をごそごそとあさった。

 「夏みかん、イートするかい?」

 ミミさんは私の返事を聞かず、汚れた夏みかんを手で剥いた。甘酸っぱい匂いが立ち込めた。

 「プリーズ、夏みかん。イッツデリィシャス」

 私はだるくて起き上がりたくなかったが、ミミさんが勧めるので、重い身体を起こして、夏みかんを受け取り、口にした。ぱさぱさしていて、苦味のある酸っぱい味がした。

 「デリィシャス? あーゆー、おけい?」

 私は頷くことしか出来なかった。

「お茶も飲むかい? イングリッシュではイートはデリィシャスで、ドリンキンはテイスティって言うんだよ」

 ミミさんはペットボトルの緑茶を差し出して説明した。私は喉がからからだったので、遠慮なくお茶をぐびぐびと飲んだ。

 そして暫くするとミミさんは、また明日来ると言って帰った。

 

 オーバードーズをした直後は、いつも何か憑き物が落ちたようになる。けろりとした様子を見せたせいか、ミミさんが次の日に来た時には退院になった。

 ミミさんは、タクシー乗り場で言った。

 「とりあえず、カモナ、まいはうす。このまま東京に帰ったって、またピルと酒で死にかねないからね」

 「お邪魔じゃありませんか?」

 「ノープロブレム。みーは長屋で一人暮らしだからね」

 一緒にタクシーに乗り込み、数十分したら彼女の住むという長屋の前に着いた。

 「おや、ミミさん。お帰り。お孫さんかい?」

 長屋の窓から、隣人らしき老婦人がそう声をかけた。

 「いえーす。東京から遊びに来たんだ。暫くステイさせるからね」

 ミミさんがそう言うので、私は話を合わせるようにお辞儀をした。

 長屋の共同玄関に一番近い部屋がミミさんの部屋だった。六畳と四畳半の続き部屋だった。家具は少ししかなく、荷物が山積みされていた。特に多いのは衣類で、毛皮のコートやムームーやTシャツが一緒にカーテンレールにごっちゃに掛けてあった。

 「オープンざ、ディスウィンドぅー。暑いよ」

 ミミさんがそう言ったので、私は窓に掛かっている衣類をどけてを窓を開けた。扇風機をつけて、暫く空気を入れ替えた後、ミミさんは冷風機のスイッチを入れたが、すぐにピーピーと鳴ってから止まった。

 「あれ、ゲットしたばっかりなのに」

 ミミさんは冷風機をがんがんと叩いた。私はそばに寄って様子を見た。

 「ああ、水がいっぱいだから、水を捨てないと動かないんですよ」

 私は冷風機の下の方を開けて、水でいっぱいになったタンクの水を部屋の隅にある流しに持って行き、水を捨てて、またセットしてからスイッチを入れた。

 「おお、グレイト。さすがはふぉーとグラファだね。マシンに詳しいんだね」

 いえ、普通ですとも言えず、私は口ごもった。

 ミミさんは冷蔵庫から麦茶のボトルを出した。私はすかさず流しにあるコップを二つ用意した。

 「よく気がつくね」ミミさんは麦茶を注ぎながら言った。

 「アシスタントの仕事の方が長かったですから」

 「ああ、涼しくなった」

 二人で暫く涼んでいると、遠くに豆腐屋のらっぱの音が聞こえた。自然に二人の目が合い、私は豆腐を買いに外に出た。

 


 四、

 こうして二人の共同生活が始まった。ミミさんは私の事をよく気のつくいい娘だと言ってくれたが、気がつくのはミミさんの方だった。私の着替えや歯ブラシを退院前から揃えておいてくれたのだ。正直、服のセンスは変わっていて、着るのが少し恥ずかしいデザインのものが多かったが、サイズがぴったりだった。お金を払うと言ったら、元気になってから働いて返せと言われた。

 隣に住むミミさんの友達も、元芸者で大分出身だった。ミミさんの父親が大分の人だとかで、よく二人は大分弁で話をしていたが、私には何を話しているのかが、さっぱり分からなかった。

 同じ県内に住むと言う、息子さんや娘さんは、何故かミミさんの家に来る事はなかった。ミミさんが見た目よりもずっと達者で、一人で自活出来ているからだろうか。でも、年老いた自分の母親がたった一人で暮らしているのだから、もっと頻繁に様子を見に来てもよさそうなものだと私は思った。一度、家族は来ないのかと聞いたら、

 「半世紀近くも離れていたから仕方ないさ。お互いのプライバシィは守りたいからね」

 と、ミミさんは顔色ひとつ変えずに言った。

 それでも、本が乱雑に入っているカラーボックスの上とテレビの上には、家族の写真が沢山飾ってあった。

 私はその中の一枚の写真を見て、訊ねた。

 「この息子さんと三人で撮った写真は…ミミさんの旦那さんですか?」

 「ノーノー、ハズバンドじゃないよ。フィアンセだった人だよ。海軍中尉でね、メリーする前にベィビィが出来てね。ヒーは戦争に行ったきり、十年も帰ってこなかったんだ。てっきりダイしたと思っていたら、フィリピンで取り残されてね。戦争が終わって、みーがアメリカに行った後に、リビングしてた事が分かってね。先月、息子を連れて九州に会いに行った時のフォトだよ」

 「瞼の親子の対面、てやつですか」

 「いえーす。ひーわず、グレイトメン。なんて言ったって、海軍中尉だからね。立派な青年将校だったんだよ」

 「娘さんは一緒じゃないんですか?」

 「娘は別の人のベィビーだからね」

 「娘さんのお父様は?」

 「もうとっくにダイしてるよ。土建屋の息子さ。女にはだらしない人だったね」

 私はなんだか娘さんを不憫に思った。自分が愛されて生まれてこなかった事や、父親がそんな人だったとか。しかも、写真の一枚もないなんて、なんだか可哀想になった。娘さんはお孫さんと二人の写真があるが、ミミさんに顔がそっくりだったが、どことなく、もの悲しげな表情をしていた。

 ミミさんは私の自殺未遂の話は一切訊かなかった。てっきり「何故あんなことをした」と説教されると思い込んでいたので、なんだか拍子抜けしてしまった。自分から話そうにも、タイミングがつかめないし、話したくなかったから、こちらとしては都合がいいのだが。

 

 そうこうして数日が過ぎ、二人の共同生活は安定してきた。

 ミミさんは毎朝欠かさずに、裏庭の縁側に、キャットフードと水と牛乳と煮干を置き、寄って来る何匹かの野良猫を眺めるのが日課で、後はのんびりと一日を過ごしていた。テレビを観ていることが多く、六畳の茶の間の卓袱台の前に、低い椅子を置いて、いつもその上に座っていた。アメリカでは正座する習慣がなかったので、床の上の生活ができないと言っていた。もちろん床に布団を敷いて寝ることも出来ないので、奥の四畳半にベッドが置いてあり、そこで寝ている。私は炬燵布団を敷いてタオルケットをかけて寝ていた。

 精神薬や睡眠薬は、オーバードーズした後は効かないので、東京の主治医に処方箋をファックスして貰って、薬を取り寄せたりはしなかった。はじめの数日間は頭がぼんやりしていて眠れなかったが、ミミさんが毎晩十時にはテレビを消して、寝室に行って寝てしまうし、朝は五時には起きて、猫の餌やりをしに起きて来るので、次第に薬がなくても眠れるようになった。ただし、まだ一日中頭がぼんやりしていたが。

 

 

 五、

 雄二からの電話は、入院中にも一日おきくらいあったが、私は無視した。メールも、もちろん返さなかった。クライアントの広告代理店には、里帰りをしているので、当分東京には戻らないとだけ伝えた。雄二はその代理店の社員だから、故郷のない私が里帰りするなどありえないのを知っているので、営業マンから話を聞いたらしく、メールに何回も「今どこにいる」というメッセージが残されていた。

 雄二は薫の恋人で、薫は私の親友だった。随分と長い付き合いだ。私たちがまだ二十代前半で、現像所で働いていた頃からの付き合いになる。私が撮影と現像をする現場の仕事をしていた時に、薫は受付をやっていた。同い年という事もあり、知り合ってすぐに仲良くなった。

 そんなある日、薫は、取引先の広告代理店に美大卒で入社したカメラマンの雄二と知り合い、すぐにつき合うようになった。薫と雄二が交際を始めて一年後に、二人は同棲するようになり、私が引っ越しを手伝う事になった。その時に私は雄二と初めて出会った。

 引越しの日に薫に彼を紹介された時、ひと目で「この人だ」と私は思ったし、後々、雄二もそうだと言っていた。よく三人で遊びに行ったが、薫の見ていない時やいない時によく目が合った。雄二も私もお互いに好意を持っていたが、その事には触れず、何となく気まずいような、微妙で複雑な空気がいつも流れていた。お互いの存在がお互いの心にあるのがわかった。私も雄二も何となくまずいとは思っていたが、薫が趣味を持たない女だったので、そんな彼女の手前、私たちは何もアクションを起こせなかった。薫は鈍いのか、はたまた私へのあてつけなのか、私と雄二が出会ってから、三年前に亡くなる何年もの間、しきりに三人で会おうとした。

 今にして思えば、薫は女特有の意地悪いところがあった。雄二への私の気持ちを知って、あえて三人で会って、私が苦悩するのを愉しんでいたような気がする。そして、同時に雄二の誠実さを試すように、わざと三人で会おうとしていたのかもしれないとも思える。

 薫は美人でモデルもやっていたが、なぜか普通の容姿の私に対して、女として張り合っている感じがした。時には意地の悪い発言もあったが、私はあえて気づかないふりをして、適当にやり過ごしていた。女同士の関係には、時にはこういった微妙な駆け引き染みた関係もあるのだと私は思う。親友とはいえ、薫とはそんな緊張感のある関係だった。だから私は、三人で会うのをなるべく避けたが、仕事の都合もあって、雄二との縁は切れなかった。

 現像所が縮小して私と薫が会社を辞めた時、私と薫は大手広告代理店に勤める雄二を頼らざるを得なかった。薫はなかなか働き口が見つからず、雄二の専業主婦みたいになってしまったし、私は私で、彼に写真の仕事を月に一、二回くらい回して貰う様になった。私は最初は、夜間の倉庫の作業のアルバイトをしながら、写真の仕事をしていた。商品や建物の撮影だけでなく、イメージ写真をフォトバンクに預けたりと、地道に活動をしていた。

 そして何年かしての三年前、薫は私に言った。

 「雄二はあんたの事好きなんじゃないのかな?」

 私は一瞬ぎくりとしたが、平静を装った。その時薫は妊娠初期だったが、それに気づいたのは薫が死んだ時だった。

 洗濯物が風に飛ばされて、アパートの裏の木に引っかかって取れなくなった時に、薫は大家さんから梯子を借りて洗濯物を取ろうとした。その時に、梯子から転落した。落ちた時に、頭を強く打ったのだという話だった。皆は事故だと言っていたが、私は自殺だと思っている。ちょうどその数日前に、私は雄二から告白され、薫とは別れると言われたのだ。その日の夜に、二人は別れる事になったと、雄二は言っていた。薫は金沢の実家に帰るという話になり、そしてその直後に薫は死んだ。

 薫は雄二と付き合っている間に、何人かと浮気をしていた。妊娠していたと聞いた時、私は直感的に雄二の子供ではないと思ったが、雄二はそれに気づいていたのか、いなかったのかは未だにわからない。だが、葬式で雄二は、皆の前では自分の子供だと言っていた。私は雄二の子供ではないなどとは言えなかった。雄二が薫の浮気には気づいていなかっただろうとは思われるが、気づいていたとしても、私の口からは何も言えなかった。

 そして、私は彼女の死後、体調を崩し、心療内科で睡眠薬を処方して貰うようになった。しかし、薬がなかなか合わずに苦しみ、精神安定剤まで飲むようになってしまった。今回でオーバードラッグは三回目となる。私はあの日からずっと眠れない日々が続いている。

 


 六、

 満月の夕べ、うたた寝をしていたら、ミミさんが三味線の手入れをしていた。

 「三味線て、本当に猫の皮を剥いで作るんですか?」

 「いえす。プアーな話だけどね」

 猫の好きなミミさんと、三味線を大切に布で拭くミミさん…どちらが本当のミミさんなのかと少し考えてしまった。

 「何か聞くかい?」

 「はい、ぜひ」

 ミミさんは三味線のチューニングをしばらくして、歌いだした。

 「水の出花と二人が仲は、せかれ会われぬ、身の因果。たとえどなたの意見でも、思い切る気はさらにない」

 ミミさんの声はしゃがれていたが、それでも朗々と、そして生き生きと歌った。唄の意味は分からなかったが、私は感動して思わず拍手をするのを忘れてしまった。

 しばらくしてから、ミミさんは何かリクエストはあるかと私に訊いた。そう言われて、日本のジェー・ポップが浮かんだが、ミミさんが知るはずもないと思って、口ごもり、暫く悩んだ。

 「アメリカの歌とかって三味線で弾けるんですか?」

 「ああ、マイふぇいばりっナンバーならね」

 「ミミさんは何がお好きですか?」

 「スタンダート・ジャズなんか好きかねえ……」

 そう言うと、暫く三味線で音を探しながら、ミミさんはサマータイムを選んだ。

 低く呻く様に、かすれた声でミミさんは、静かに優しく歌い上げた。

 


七、

 今朝は、ミミさんが炊飯器のタイマーを掛け違えたので、私が朝食のパンをコンビニで買いに行く事になった。

 コンビニの帰り道に、美人のひまわりが咲いていたので、私は一枚撮ろうと、携帯をポケットから取り出そうとしたが、入っていなかった。そういえば、昨日バッテリーが切れたから充電したままだったのを思い出した。私はあたりを見回し、そのひまわりを一本もいで走り去った。花泥棒は罪にならないとは言うものの、やはり気がひける思いがあったので。

 「ミミさん、見て見て」

 「おや、びゅーてぃフォーだねえ」

 ミミさんは花泥棒をとがめずに、笑顔で受け取った。

 「一枚撮っていい?」

 「まだメイクしてないから……」

 「いいの、いいの」

 私はさっさと仕事用の一眼レフカメラを取り出し、ひまわりを持ったミミさんを撮った。ミミさんは照れくさそうだったが、それがかえっていい表情だった。

 「イチゴサンドケーキはあったかい?」

 「ええ、メロン味はお嫌いでしたよね」

 忘れていた携帯は、卓袱台の上にぽつんとあった。はて、いつ充電器から外したのかと思ったが、気にせずパンをかじりながらミミさんと談笑した。

 私はこんな温かな日常が、いつまでも続く事をひそかに願った。

 

 その日の夕方、ミミさんは珍しく友達と会うと言って出かけた。私はこの際だからと、ミミさんのいない間に大掃除をしようと決めた。ミミさんは掃除が得意ではない様子だった。掃除は私が来て約一ヶ月の間していなかったのだ。

 布団を外に出して叩き、洗濯物を洗って干し、衣類を片付けた。掃除機の中にはゴミがいっぱいになっていたので、きっとまたミミさんは壊れたと勘違いして放置していたのだろう。それでもまったく掃除をしていないわけではなかったのだと気づき、ほっとした。

 ついでに冷蔵庫の中身を吟味して、夕食のおかずを作ろうとした。ミミさんはあまり固いものが食べられないので、魚の切り身をすってゼリーと煮て、パテだかムースだかの様なものを作ってみた。ミミさんに何かもう一品食べたいものはないか、あれば食材を帰りに買ってきて欲しいと電話しようとしたが、繋がらなかった。

 二時間くらいで帰ってくるはずのミミさんは、夜の七時を過ぎても帰って来なかった。私は心配になり、何度か携帯に電話したが、とうとう繋がらないままだった。

 結局、ミミさんが帰ってきたのは、夜の九時過ぎ頃だった。

 「どうしたんですか、こんな時間まで」

 「ちょっと、ボーイフレンドとドリンキンしてきた……ああ、ディナーかい。そーりー、イートしてきたよ」

 ミミさんはほろ酔い加減で、少し寝るから先に夕食を食べていてくれと言って、寝室にこもって、そのまま朝まで寝てしまった。

 それから何日かに一度、ミミさんは先日のように、ボーイフレンドとお酒を飲みに行っては遅くなり、先に寝てしまう事が続いた。毎回ポーカーフェイスのミミさんだが、帰ってきた直後は決まって浮かない顔をしているし、翌朝にその事を聞くと、楽しかったと笑顔を見せていた。

 「そのお年でボーイフレンドだなんて、グレイトですねえ」

 と私が言うと、ミミさんは苦笑していた。

 


 八、

 八月も半ば過ぎ、ミミさんは残暑見舞いを書くと言って、郵便局で葉書を十枚くらい買ってきた。

 「サマーカードなんてのは、四十八年ぶりだよ。クリスマスカードなら書いてたけどね」

 楽しそうに筆を滑らせるミミさんは、その日のうちに、入れ歯の調整に歯医者さんに行くついでに葉書を出した。

 私も書いたが、雄二にだけは書けなかった。毎年、自作の写真入り葉書で三十枚以上は出していたが、今年は絵つき葉書で済ませた。

 「ゆー、出かけるかい?」

 「はい、葉書を出しに散歩がてら」

 「じゃあ、ついでにキッコマンを買ってきとくれ。キッコマンだよ、キッコマン」 

 出かける前に空を見ると、西の雲が濃い灰色だった。雨が降りそうだと思い、傘を持って出かけた。朝の天気予報でも、台風が接近中との予報だった。

 私は郵便ポストに葉書を入れて、近くのスーパーで醤油と煙草を買った。その後、近くの公園の東屋で、買ったばかりの煙草で一服しながら、ぼんやりとしていた。

 暫くすると、雨が降り始めたが、私はかまわず東屋にいた。すると、遠くから何かの鳴き声が聞こえてきた。

 子猫の鳴き声だと気づいたのは、もう暫くしてからだった。始めは比較的力強く鳴いていたので、心配はしなかったが、段々と鳴き声が悲痛なものへと変わっていった。風雨で方向が分からなかったが、とりあえず公園内を探した。雨は段々と強くなり始めた。

 東屋に醤油を置いたまま、私は子猫を探した。猫の鳴きまねををしたりして呼びかけたが、次第に子猫は鳴く事も出来なくなったのか、鳴き声は風に消えていった。

 数十分くらいして、やっと見つけた子猫は、草むらにいた。臍の緒が雑草に絡まっていたので、私は仰天した。無理に引っ張るわけにも行かず、傘を子猫にさしかけて、急いで長屋に帰った。

 「ハサミ! ミミさんハサミ! ハサミを貸して下さい!」

 「どうしたんだい? 血相を変えて……カアルム、ゆあセルフ」

 私はミミさんに、状況を手短に話した。すると、ミミさんは急いでバスタオルとハサミを持って、私の後について公園に向かった。

 風雨は前にも増して強くなっていた。私のさしかけた傘はとっくに吹き飛んでどこかに行ってしまった。

 子猫を再び見つけ、ミミさんは慎重に絡まった臍の緒と雑草とを切り離し、タオルに包んで持ち帰った。

 「ミルクと湯たんぽの用意をしとくれ……オーマイガッ。まだこんなにリルなのに」

 私は薬缶にお湯を沸かし、常備してあるスキムミルクを人肌のお湯にといた。

 ミミさんは子猫をタオルで拭いて、新しいバスタオルに包んで、スポイトでミルクを飲ませた。辛うじて子猫は少しずつミルクを飲み始めたので、私はほっとした。

 「明日、アニマルホスピタルに連れて行こう。テレホンガイドブックで、近くのを探しといとくれ」

 私はカラーボックスの中の電話帳を取り出し、動物病院を探した。

 「……助かりますかね?」

 「へるぷするんだよ」

 ミミさんはそう言って、またミルクを子猫に与え続けた。

 「まったく、まだ臍の緒も取れていない子を捨てるなんて……人間はクウエルだね。犬畜生にも劣るって昔はよく言ったもんだけど、犬畜生の方が何倍もましさ。ピーポーあービックレイジイ」

 みかん箱の中に毛布と湯たんぽを入れ、子猫を包んでやると、ミミさん大きな溜息をついて言った。

「さて、後は神様がなんとかして下さるだろうよ……ディナーがまだだったね。キッコマンはどうした?」

 「あ、すみません。公園に忘れてきたんだと思います……」

 「やれやれ。今夜はしらたきをソースでクッキンするしかないね」

 子猫の傍を離れないまま、私たちは夕飯を食べた。テレビはいつも通りついていたが、やはり耳に入って来なかった。

 外はまだ雨が強く降っていて、ごうごうと風が吹いていた。

 食事が終わった後に、もう一度子猫にミルクをやりながら、ミミさんはぶつぶつと子猫に語りかけた。

 「ドリンク、もあ。ヘイ、リルキャッ。ドリンクもあプリーズ。ライブうぃずあうとぎびんぐイットアップ!」

 ミミさんは多分、もっとミルクを飲めといっているのだろう。そして、生きろと言っているらしかった。

 「どん、ダイ……」

 私ははっとした。もしかして、私が自殺未遂をした時も、ミミさんはこんな風に悲しげに見守っていたのかと。

 「まだ身体が冷たいね。ゆー、カイロがその棚にあるだろう」

 湯たんぽだけでは温度が足りないのか、ミミさんは私に使い捨てカイロを持ってくるように言った。カイロを二つ開けて、手ぬぐいで包んでから、子猫にあてた。子猫はやっと安らかな寝息をたてた。ミミさんが子猫の額を指でくすぐると、子猫は嬉しそうに目を細めた。

 「今夜がヤマだね。この子が助かったらミラクルだよ」

 ミミさんと私は一晩中子猫を見守った。必ず助かると信じて。

 

 しかし、結局子猫は助からなかった。

 明朝、公園の隅に、二人で子猫のお墓を作った。

 「この子は何の為に生まれてきたんでしょうね」

 私は公園の隅に、シャベルで穴を掘りながら呟いた。

 ミミさんは答えず、子猫を小さな箱に入れて、タオルをかけてやった。何か英語で子猫に話しかけていたが、聞き取れなかった。

 「てんきゅう、リルキャッ」最後に聞こえたのは、その一言だけだった。

 ミミさんは涙目で箱を閉じ、私が掘った穴に箱をそっと入れ、土をかけた。棒切れで出来た十字架に花輪をかけてやり、静かに黙祷を捧げた。

 私は動物を飼った事がないので、今まで動物の死を知らなかった。たった一晩の出会いだったが、この子猫の死は私の心に暗い影を落とした。しかし、涙は出てこないし、まだ子猫が死んだ事が実感出来ずにいた。いや、子猫が生きていた事さえも実感していないのかもしれない。

 生まれて数日も経たずに死んだ命。一体あの子猫は何の為に生まれて死んだのか。また、私自身も何故生まれて生きているのかと、自問自答した。

 

 

 九、

 「近頃私たちは、いい感じ」

 夏も終わり、初秋になった頃、今年最後の祭りがあるとミミさんは言った。散歩の途中で、街の掲示板に、近くの神社で縁日があると書いてあったのを見たと言った。ミミさんがパフィーの歌を口ずさみながら、押入れのダンボールから浴衣を引っ張り出しているのを見て、ああ、また後で片付けるのは私なんだなあと思いながらも、微笑ましく見守った。

 私は昼食の片付けをしながら、ふと、あの歌は昔、雄二が接待のカラオケでパフィーの物まねをしていた事を思い出した。そう言えば、最近、雄二からの電話がないなと思った。

 「うまく行っても、ダメになっても、それがあなたの生きる道」

 「ミミさん、その歌、いつ覚えたんですか? わりと前の歌ですよ。テレビでパフィーなんて、最近見かけないし」

 「ん、ボーイフレンドとこないだカラオケで覚えた」

 ミミさんは本当に歌が好きで、一、二回聞いただけでだいたいの歌を覚えてしまうほどの記憶力の持ち主である。その割には、火のついた煙草を灰皿に置いたままトイレに行ってそのままにしてしまったりと、危なっかしいところもあるのだが。

 確か、先週の金曜日にまた、ボーイフレンドとデートしてくると言って、夕方に出かけて、夜遅くに帰って来た。ここ一ヶ月くらい、毎週金曜日にデートをしに外出するので、もしかしたら、相手は現役のサラリーマンかもしれない。八十を過ぎても現役サラリーマンとデートだなんて、なんだか素敵だなあと思った。

 「ミミさんのボーイフレンドって、おいくつの方ですか? その歌を歌う方って、随分とお若い方とお見受けしますが」

 「ふふふ、イッツ、シークレッ」ミミさんは一瞬にやりとしながら、こちらを見た。

 「なんか、ご自分の事は色々と話して下さるのに、例のボーイフレンドの事だけは、鉄のカーテン締め切ってらっしゃいますよね」

 私は布巾で皿を拭きながら、ミミさんが店を開いてる様子を覗き込んだ。やはり浴衣と留袖や帯なんかが、未整理のままごっちゃにしまいこんである様子だったが、ナフタリンがちゃんと一緒に入っていた。元芸者だけあって、ダンボール二、三箱分くらいの和服があった。中には高そうな着物も入っている。昔、金沢に旅行に行った時に見た、加賀友禅らしきものもあったし、中学の修学旅行の時に見学した、京友禅らしきものもあった。それらと一緒に、比較的安そうな浴衣とが散乱している。

 「これ、ゆー、フィッティング出来るかい? ちょっと袖通してごらん」

 ミミさんはそう言って、藤の花が描かれている浴衣を私に差し出した。随分と古そうな感じのものだった。

 「ミミさんと私じゃサイズが合わないでしょ」

 「ノーノー、これはみーの姉のだよ。ゆーと同じくらいトールだったから、多分フィットするはずさ。うちは、オランダ人の血が入っているから、父さんなんか大入道で、しょっちゅう鴨居に頭をぶつけてたさ。チビなのはみーだけさ」

 「お姉さまって、東京の?」

 「ノー、三番目の姉だよ。病気で早死にしたんだ」

 「もしかして、三番目だから三子さんて名前を付けられちゃったって言う、あのお姉さまですか?」

 「いえーす。彼女は大女でね。そこらの男よりもトールだったよ」

 ミミさんは九人きょうだいの末っ子で、上に八人、姉と兄がいたとこないだ話していた。生き残っているのは長姉である東京のお姉さんとミミさんだけで、あとはみんな病気で早死にしたという話だった。確か、三子お姉さんと言う人は、十七歳の時に、肺結核で亡くなったと聞いている。

 ミミさんの家はなかなかの名家で、戊辰戦争だか西南戦争だかの時に、砲術師範をしていたらしい。

 ミミさんの長姉は絶世の美人で、その美貌のおかげで男爵家に嫁いだと言っていた。だが、男爵家とミミさんの実家では少し格が違ったので、一段上の家に養女になってから、お姉さんは男爵家に嫁いだと言う話である。その養子先の家名が森鴎外や司馬遼太郎の小説に載っているのを、こないだミミさんが本棚から本を引っ張り出して見せてくれた。特徴のある変わった名前なので、本当の話らしかった。ちなみに東京のお姉さんは、男爵と離婚した後、ミミさんの実家の家名には戻らず、今でも養子先の家名を名乗っている。お姉さんの若い頃の写真を見せられたが、原節子に似た感じの、ミミさんよりももっとバタ臭い顔立ちの、昔風の美女だった。YMCAの会員だったとかの集合写真もあったので、本当に凄い家柄なんだなと思った。

 私は皿を片付けてから、浴衣を受け取って袖を通してみた。長身でがっちりしている私が、大女とは言え、大正時代の女性とサイズが合う筈がないと思っていたが、意外なことに、袖の長さも丈もぴったりだった。

 「おお、やっぱり。三子姉さまと同じサイズだ」

 「これ、すごく高価な浴衣なんじゃないですか? 手描きの手染めですよね?」

 「昔はプリントの浴衣なんてなかったからね。こっちのピンクの型染めの浴衣なんかもフィットしそうだね」

 「もしかして、今夜は二人で浴衣着て縁日に行くんですか? 私、これ着て?」

 「しゅわあ。れっつごうとぅ、縁日とぅげだあ」

 ミミさんはにこにこしながら、そう言った。そして、今度は自分の浴衣を探すべく、ダンボール箱をひっくり返して、さらに散らかし続けた。

 私は大人になってから初めて和服を着るべく、ミミさんから着付けを習うことにした。片付けなんか後でいいやと言う気になって、二人で帯やなんかの発掘作業を行った。

 

 十、

 ミミさんは白地に藍色の朝顔の柄の浴衣を着込んだ。私は藤柄の浴衣を着付けて貰った。夕飯を軽く済ませて、薄暗くなりはじめた頃に、二人で縁日へと繰り出した。少し歩くと、遠くから東京音頭が聞こえてきた。慣れない浴衣で帯が苦しかったが、それでも何だか楽しい気分になってきた。

 「だんしんぐしておいで」

 「え、でも。踊ったことないから」

 「いいから……輪の中に入って、適当にコピーしていればいいさ。みーはここでステイしてるよ」

 ミミさんは、仮設のベンチに腰掛け、やぐらの方を見やった。

 「何かお飲みになりますか? ビールとチューハイとラムネがあるみたいですけど。私、買って来ます」

 「じゃあ、ビアーを買ってきとくれ」

 私は近くの屋台でビールを買ってきて、ミミさんに手渡した。

 「ほら、次のミュージックがスタートするよ。さあさあ、れっつだんしんぐ」

 ミミさんにそう言われて、私は踊りの輪に入ってみた。

 お邪魔しますと近くの人に断ってから、私は見よう見真似で、ドラえもん音頭を踊った。昔ジャズダンスを少しかじったので、リズムを数えながら、前の人の振りを真似して覚えた。おかげで後半はなんとかついていけるようになった。

 二、三曲踊って喉が渇いたので、踊りの輪から抜けて、屋台でラムネを買って飲みながら、ミミさんの元へ戻った。

 「ゆー、ビギナーのわりに上手いじゃないか」

 ミミさんはそう言って、ビールを飲み干した。

 「昔、少しだけジャズダンスを習ったから……はあ、疲れました」

 「ジャズダンスかい、なるほどね。どれ、屋台でも冷やかそうかね」

 暫く二人で屋台を見て歩いた。たこ焼きだの焼きそばだのりんご飴だの、沢山の屋台が境内にひしめき合っていた。ミミさんは焼き鳥が食べたいと言って、とり皮とレバーともも肉を一本ずつ、合計三本を塩で頼んだ。

 「昔は食用蛙があったけど、ぷりぷりしてて美味しかったよ」

と、ミミさんはにやりと笑って言った。

 「げ、グロい……本当に食べたんですか?」

 ミミさんは更に悪趣味な笑いを浮かべながら言った。

 「みーの家の裏に、食用蛙のファームがあってね。モーモーと牛のような鳴き声がしたもんさ。昔はイート出来るものが少なかったからね」

 ふと、足を止めると、花火が上がった。

 その時、ミミさんは一瞬、怯えるように私にしがみついた。 

 「どうしました? ミミさん……大丈夫?」

 「ああ、花火かい。ふう……爆弾か何かかと思ったよ」

 ミミさんが戦争体験者だと言うことを、この時実感した。ミミさんは空襲だとか疎開だとかのシリアスな体験をしていたのかも知れない。戦争の事は今まで何となく聞けずにいたのだった。

 次々と花火が上がり、夜空を明るく照らした。周りの人は、歓喜の声をあげて花火を楽しんでいた。

 「日本は今、ピースなんだね」

 ミミさんはそう呟きながら、冷や汗をハンカチで拭った。

 そんなミミさんの心の内には、私には想像できない辛いことがあったのでは、と思いながら、花火に照らされたミミさんの顔を見た。 

 


 十一、

 祭りが終わった後も、ミミさんは毎週決まって金曜日の夜に、ボーイフレンドとデートを重ねていた。

 季節はすっかり秋に変わり、私は長袖のシャツを二枚買った。フォトバンクに預けていた写真が売れたので、臨時収入があったのだ。ミミさんに何か買おうと、商店街を歩いた。寂れた看板が並ぶが、まだ少しは活気が残る商店街だった。始めは杖を買おうかと思ったが、前に、うっかり杖を失くしたと言っていたので、他の物を考えた。本当は何か貴金属店で宝石を買いたがったが、予算の都合上、無理だった。色々と考えた結果、八百屋で梨と葡萄と栗を買った。

 雄二からの連絡が途絶えて、もう一ヶ月以上経つ。そろそろこちらから電話をしようとも考えたが、雄二がこのまま私を忘れてくれるなら、その方がいいとも考えた。

 栗をナイフで剥きながら、夕飯のカップ焼きそばのお湯を沸かした。明日は栗ご飯と秋の果物をご馳走しようと、わくわくしていたら、携帯電話が鳴った。ミミさんからだった。

 「はい、ミミさん?」

 「俺だ、俺、雄二」

 一瞬、何で雄二がミミさんの携帯で電話をしてきたかが分からず、困惑した。

 「なんで雄二がミミさんの……」

 「転んで怪我したんだよ、ミミさんが。これからタクシーで病院に行くから、保険証持って、駅前のタクシー乗り場に来い。今すぐにだぞ、いいな?」

 そう言うと、雄二は電話を切ってしまった。私は慌ててカラーボックスの上のレターケースを開けて、保険証を探した。ごちゃごちゃとしていて、なかなか見つからなかったが、一番下の段のビニールのケースの中に、保険証を見つけた。

 駅前のタクシー乗り場へと走ると、雄二がミミさんをおぶっていた。

 「ミミさん、どこを怪我したの?」

 「右の足首……あうっ……」

 幸い、病院がすぐ近くで、夜間の救急治療もやっていたので、そこで診て貰うことになった。

 ミミさんが心配で、雄二も私も、ろくに挨拶を交わす事なく、ミミさんを見守った。

 病院でレントゲンを撮ったところ、骨折はしておらず、筋を捻って痛めただけで済んだと若い外科医が言った。

 「普通なら、骨折しててもおかしくないのに……随分とお達者でらっしゃいますね。一週間か十日は湿布して、それでも痛いなら、また来てください」

 医者のその言葉で、私はほっとした。そして、ミミさんが毎朝猫に、キャットフード水のほかに、ミルクと煮干をやりながら、自分も食べたり飲んだりしていたことを思い出した。やはりカルシウムを採るとここまで違うものかと、一同感心した。

 病院から長屋へは、徒歩五分くらいなので、雄二がミミさんをおぶっていった。

 「俺ら、夕飯まだなんだけど」と雄二が言ったので、ミミさんはピザを頼もうと提案した。

 私はカラーボックスの上のチラシを持ってきて、ミミさんと雄二に好きなものを選ばせた。電話でラージサイズのピザを二枚頼むと、三十分もしないうちに、バイクのエンジン音が聞こえてきた。 

 私はさっき作った、伸びてしまったカップ焼きそばを捨てようとしたが、ミミさんがもったいないから食べると言い出したので、水気を切ってフライパンで炒めて味付け

して出した。

 ピザと伸びきった焼きそばを食べながら、ミミさんと雄二はビールを、私はコーラを飲んだ。ミミさんは食べ終わると同時にくいっとビールを空けてしまい、眠いと言ってうとうとしだした。雄二はミミさんを奥の寝室に運んだ。

 「おっと、やべえ。終電逃した。しゃあない、これ飲んだら駅前のカラオケボックスにでも泊まるかな」

 時刻は午後十一時を回っていた。

 「ミミさんのボーイフレンドって、雄二だったんだね。いつから……ううん、なんでミミさんと知り合ったの?」

 「二ヶ月前くらい……いや、先月のはじめだから、一ヶ月半前かな。お前の携帯に朝電話したら、出たんだよ、ミミさんが。「みーの孫に何か用かい? 今ショッピングに出てるよ」ってな。面白い婆ちゃんだな、ミミさんて。で、その日の夕方に駅前の居酒屋に呼び出されて、それ以来、毎週酒をたかられてなあ。今日は居酒屋の前の階段で、ミミさんがすっ転んで怪我したって訳だ」

 私とミミさんが何で同居しているかを説明すべきか迷ったが、説明するとなると海でのオーバードーズの話をしないといけないだろうと思い、黙っていた。

 「カラオケルームなんて、ノーノー。今夜はみーのミステイクで迷惑かけたんだ。ステイヒアしておいき」

 ミミさんはいつの間にか、寝室の入り口で這い蹲っていた。トイレに行きたいと言うので、私が肩を貸して長屋の共同トイレに連れて行った。その後に洗面台で歯を磨くと言うので、雄二に丸椅子を持ってくるように言った。ミミさんはいつもの様に、洗面台で歯を磨きながら部分入れ歯を洗浄剤に漬け込み、メイク落とし洗顔料で顔を洗った。それらが終わると、鏡台に連れて行けと雄二に頼み、化粧水をパッティングしてからクリームを顔に塗った。

 「二人とも、よくディスカッションする事だね」鏡越しにミミさんはそう言った。

 今度は自分で這い蹲って寝室へ行こうとした。手を貸そうとしたが、ミミさんは気丈にも断った。

 「明日、ご家族に怪我の事、電話で知らせた方がいいですよね?」

 「ノーノー。ちょっと捻っただけだし、ドクたあも十日ぐらいで治るって言ってただろう。暫くはゆーにケアーして貰う事になるだろうけど。言ったところで看病に来られちゃ困るからね」 

 ミミさんはそう言ってベッドに座ると、冬用の掛け布団とタオルケットを雄二に渡した。

 

 

 十二、

 ミミさんの怪我が治って、湿布が要らなくなり、一人で歩けるようになったのは、怪我をして一週間後だった。雄二は怪我がきっかけで寝たきりになる事を心配していたが、ミミさんが頑張って自力で出来る事はしようと努力した甲斐もあり、その心配は杞憂に終わった。

 雄二は、毎週金曜日に長屋に来るようになった。三人で夕食を食べたり、カラオケ屋に行って歌ったりした。ミミさんは毎週決まって最後にパフィーの『これが私の生きる道』を歌っていた。

 「お前、酒やめたんだな」

 雄二は、私がお酒を一切飲んでいない事に気づき、そう言った。

 「うん。お医者さんからも、常々やめろって言われてたし」

 「よくやめられたなあ。お前、無類の酒好きでうわばみだったのに」

 何故お酒をやめたかは、この時はまだ言えなかった。

 「どっか悪いのか?」

 雄二はなんの気なしに訊ねた。

 「頭が悪いの」

 私がそう言うと、雄二は冗談だと受け取って、どっと笑った。

 「しかしミミさんの話は面白いよな。一ドル三五〇円だかのドル高の時に、アメリカで働いて日本に仕送りしたとか、凄いよな。今で言うと、一ドル千円以上の価値があったんだろう? アメリカンドリームだよなあ……こないだ言ってた話なんか、もっと凄かった」

 「何の話?」

 「強盗にあった時、犯人の車のナンバーを口紅で腕にメモして、警察に届けたとかさ。あれ、本当の話?」

 雄二はビールをミミさんに注ぎながら言った。

 「いえーす、いっつとぅるー。アメリカの泥棒は鍋でも薬缶でも、つまんないものまで持ってくからね。ハンドガンはいつも持っていたよ」

 ミミさんは上機嫌で武勇伝を語った。

 「やっぱり、あれ? デリンジャーとか?」

 「ノーノー。デリンジャーなんて二発しか撃てないからね。みーが持ってたのは、オートマチックのハンドガンさ。週に二回はシューティングレッスンに行ったもんさ」

 「ミミさんは、あっちで何の仕事をしてたんですか?」

 私がそう訊ねると、ミミさんはビールを置いた。

 「ウエイトレスから、ビルディングのクリーニングから、何でもやったよ。マニィが貯まってからは、プールバーのマネージメントをしてたよ。ビリヤードのキューをよく盗んでいく奴がいてね。マジックインキでバーの名前を書いても、いつの間にか無くなるもんだから、ナイフで彫り込んだものさ」

 そんなミミさんのアメリカでの武勇伝は、少年漫画好きな雄二にとっては興味深いものばかりだった。

 「俺、ミミさんの話を小説とかにしたら面白いと思うな。どう、ミミさん。何か手記とか書いてみれば? ベストセラーになったりするかもよ」

 「そうだねえ」ミミさんはあまり気乗りがしない様子だった。

 「どうせ暇なんだしさ書いてみなよ……と、そろそろ終電だ」

 雄二は時計を見やり、席を立った。レシートをつまむと、さっさと会計に行った。ミミさんはトイレに行ってしまった。

 「ご馳走様……大丈夫? そう毎週毎週、接待費請求しちゃって」

 私は心配になって雄二に訊いた。

 「平気、平気。それよか、お前、いつ東京に戻って来るんだよ。仕事のオファーがいくつか来てるぜ。フォトバンクからの矢の催促、断るのもそろそろ限界だ。写真、撮れよな」

 「うん……なんだか居心地がよくて」

 「だろうな。ミミさんとお前、赤の他人とは思えねえくらい、仲よさそうだからな。ミミさんの足も治った事だし……」

 ミミさんがトイレから戻ってきたので、三人で駅までゆっくりと歩いた。雄二を改札口まで見送った後、ミミさんは歩きながら私に言った。

 「ゆー達、お似合いだよ。まあ、死んだフレンドに義理立てする気もわからないでもないけど……カオルと言うんだっけ? 少なくともリブとぅげだあしてる最中に、他の男のベイビイを作るような女に、どうしてそこまでするのか、みーには分からないね」

 商店街を抜けて路地に入ると、夾竹桃の花がしおれていた。それを見あげると、ミミさんは、もう秋だねと言ってまた歩き出した。私は何も言えず、ミミさんの後をついて歩いた。

 「ゆー達、二人のラヴには罪はないさ。キルでもダイでも、同じ事だよ。しーのライフはそれまでのものだったのさ。何もゆーまで死ぬことはないさ」

 ミミさんは夏みかんの木の下で立ち止まると、上を見て「あれをひとつもいでくれ」と言った。木には青々とした夏みかんの実がなっていたが、ミミさんは熟れた腐りかけたものを採れと私に指図した。

 私は周囲に誰もいない事を確認してからひとつもいで、ミミさんに手渡した。それは私が入院した時にミミさんが持ってきたものと同じものだと気づき、苦笑した。どうりで汚れや傷があって、しかも渋かったはずだと思った。

 

   

十三、

 秋も深まり、年賀状のパンフレットが出回る頃になった。

 雄二は相変わらす毎週金曜日に来ていた。今日も長屋で私とミミさんが作った夕食を食べてから、カラオケ屋に行った。

 雄二とは核心をついた話はしなかったが、やはりまだお互いの心の中にお互いがある事には変わりはなかった。しかし、同時に私は薫の事が忘れられずにいた。確かに浮気を繰り返していたが、薫は雄二を愛していた事は本当の事だと思うし、梯子から落ちたのも、雄二を引き止めるつもりでわざと落ちたのだと私は思う。

 ミミさんと三人でいると、そんな深刻な話にもならなかった。前に二人で話し合えと言われたが、お酒が入っているせいか、そういう雰囲気にはならなかった。

 

 そんなある日、ミミさんに一枚の葉書が届いた。ミミさんは郵便受けのある玄関から、随分と長い間部屋に帰って来なかったので、どうしたのかと訊いてみた。

 「ひー……ダイ……」

 私はミミさんの台詞を翻訳するのに、少し時間がかかった。

 「ヒーって、誰です?」

 ミミさんは応えず、その葉書を持ったまま、茶の間の低い椅子に腰掛けた。その表情は暗く沈んでいた。

 ぼんやりと葉書を見つめるミミさんに、どう話かけたら良いものかと私は迷った。その様子を見たミミさんは、私に葉書を手渡した。住所は九州のものだったので、すぐに私はミミさんの元婚約者の訃報だと気づいた。

 ミミさんは涙を見せないまま、少し眠ると言って、昼間だと言うのに寝室にこもってしまった。

 

 それからの三日間ほど、ミミさんは飲食を拒み、トイレに行く以外はずっと寝室にこもってしまった。私は心配になったが、閉じられた襖を開ける事が出来ずにいた。

 そんな中、また金曜日に雄二が来た。事情を説明すると、雄二は襖を開けて、ミミさんの傍に行った。

 「ミミさん、せめてメシぐらいは食おうよ。ほら、イチゴサンドケーキ買ってきたから」

 そう言って、雄二はコンビニの袋を掲げた。

 私は寝室の入り口でその様子を見守っていた。

 「こんなに痩せちゃって……とにかく食べな」

 雄二はミミさんの半身を無理やり起こして、イチゴサンドケーキの袋を開けて、口元に持っていった。辛うじてミミさんは一口、二口それを齧った。私は野菜ジュースを雄二に手渡して、飲ませるように促した。

 「悲しいのはわかるけど、ミミさんまで死んだら、何にもならないだろう?」

 「どうせみーにも、もうじきお迎えが来るさ」

 そんな気弱なミミさんに、雄二はひとつ溜息をついてから、こう言った。

 「あのなあ、ミミさん。お迎えってのは自分から行くんじゃなくて、あっちから来るからお迎えって言うんだろう?ほら、もっと食えよ」

 雄二がそう言って、イチゴサンドケーキをミミさんに手渡すと、ミミさんは袋を握り締め、ぽろぽろと泣き出した。

 「ミミさん、そのフィアンセの分まで長生きしろよ。俺ら、ミミさんが死んだら嫌だからな。わかったか、ミミさん?」

 私が三日間もの間出来なかった事を雄二は難なくやり遂げた。私は雄二のこう言った乱暴な優しさが、堪らなく好きだと改めて思った。

 その夜、雄二は長屋に泊まる事になった。ミミさんはイチゴサンドケーキを半分と、野菜ジュースを一パックを飲んだきり、また眠ってしまった。

 雄二に件の葉書を見せると、あっさりとこう言った。

 「九十一で死んだんだって?大往生じゃねえか」

 「大往生でも、悲しいものは悲しいよ」

 「そんなもんかなあ。うちの爺さんが死んだ時なんて、親戚中、割とあっさりしたもんだったけど」

 「つい半年前までは元気だったみたいよ」

 私はカラーボックスの上の写真を見るように促した。雄二は無造作にピンで留めてある写真を手にした。

 「半年後にポックリ、か。介護とかが長引かなかっただけ、まだましだったかもな。うちの爺さんなんて、寝たきりになってから、五年も生きてたからなあ」

 「雄二、そんな不謹慎な……」

 「ミミさん、早く元気になるといいな」

 雄二は写真を元に戻しながら言った。

 「うん……」

 

 

 十四

 それからと言うもの、ミミさんは時々、記憶があやふやになる事が増えていった。

 「へい、ゆー。冷蔵庫にあった、みーのイチゴサンドケーキをどうした?」

 「ああ、あれなら、賞味期限が切れてましたから、捨てましたよ。昨日、古くなってるから捨てようって、ミミさんご自分でおっしゃったじゃないですか」

 「え、昨日買ってきたばかりなのに?」

 「昨日じゃなくて、一昨昨日ですよ。あれを買ってきたのは」

 「そうだったかねえ……」

 「またお召し上がりになりたいのでしたら、買って来ますよ」

 雄二があの日来てくれて、徐々に元気になったのはいいが、日に日にミミさんは物忘れが多くなっていった。

 「みーのグラっしーずはどこに行ったんだろう……ニューイヤーカードをライティングしようと思ったのに」

 「眼鏡なら…さっき、カラーボックスの上に置いてたじゃないですか」

 「ああ、そうかい。あったあった……」

 「最近、物忘れが多くおなりじゃないですか?」

 「そうかい?」

 「ええ……昨日は煙草の火を消さないで、散歩にお出かけなさってましたし」

 「そんなにひどいかね?」

 「ええ、まあ……」

 そんなやり取りが続いた数日後、ミミさんは自分の認知症が進んだのに気づいたのか、弁護士を長屋に呼んだ。遺産相続や財産分与やもしもの時の為の事を話し合うと言っていた。

 私は同席する訳にもいかない気がしたので、弁護士にお茶を出してから、写真を撮りに行く事にした。私が帰って来るまで、煙草は吸わないように念を押した。

 それでもミミさんは、煙草を吸った様子だったので、次回からは出かける時は、ライターと煙草を預かってから出かける事にした。

 ミミさんは、記憶がしっかりしている時と、あやふやな時とが入り混じった状態だった。

 

 そしてクリスマスが終わって、年末になった。私は餅を買おうかどうしようかと迷ったが、白玉団子を作って、餅の代わりにしようと決め、白玉粉を二袋買った。ミミさんはそれを見て、溜息をついた。

 「餅じゃないのかい?}

 「あ……いけませんでしたか?お餅だと万が一、喉に詰まらせるかもと思いまして…」

 「みーも、もう餅がイート出来ないぐらい、耄碌したかねえ」

 「やっぱり、食べたかったですか?」

 「ん……イエス、アンドノー……おけい、おーけい。さて、お節ををクッキンしようかね」

 やっぱり餅も買ってきて、小さく切って出したらよかったかなと、私は少し後悔した。

 お節作りの最中に、長屋の庭の方から、車が入ってくる音がした。

 「よう、こんばんは、また来たぜ」

 車の主は、雄二だった。

 「こいつで明日、初日の出を見に行こう。近くの海岸が穴場スポットなんだとさ」

 そう言うと、雄二は今しがた揚げたばかりの芥子蓮根を一つつまんだ。

 「あ、ちょっと、雄二。ダメ」私の制止を無視して雄二は、ぱくりと芥子蓮根の端っこの方を食べた。

 「うまうま……やっぱり芥子蓮根は揚げたてに限るな」

 雄二がもう一切れめをつまもうとした時、ミミさんが雄二の手をぴしゃりと叩いた。ミミさんと私は、雄二を軽く睨んだ。

 「何だよ。まだ沢山あるじゃん」

 「あのねえ。芥子蓮根は、作るのにすごく手間隙がかかるの。茹でて干して、芥子味噌詰めて、一晩寝かせてから揚げて……昨日から仕込んだんだからね」

 私がそう説教しても、雄二は生返事をするだけだった。

 「まさか、年末年始、ここに居座るつもり? 実家には帰らないの?」

 「いや、所沢には元旦の夜には帰るよ。天気予報だと、元旦の朝は快晴だとさ。三人で初日の出の写真撮ろうぜ」

 ミミさんは、車を長屋の裏庭に停めるように雄二に言った。

 

 三人で年越し蕎麦を食べながら、紅白歌合戦を観た。ミミさんはビールを早々に空けてしまい、十時ごろにはうとうとしだした。もう寝ると言って、ミミさんは寝室に行ってしまった。

 「写真、撮ってるか?」

 「うん、ぼちぼち」

 私はミミさんの家に来てから撮った写真を雄二に見せた。リバーサルフィルムを蛍光灯に透かせて、雄二は丹念に一コマ一コマ写真を見た。

 「これなんていいな。ミミさんとひまわりのやつ。夏に撮ったのか?」

 「うん」

 「いいな、これ。X展に応募しろよ……こっちの空のやつはフォトバンクだな」

 「X展なんて、そんな」

 「応募してみなきゃわからないだろう? 少しは欲を出せよ。お前、センスはいいんだから」

 全部で三十六枚撮り四十本程度を見終わって、雄二がダンマットでチェックしたのは、十コマくらいだった。

 紅白が終わって、ゆく年くる年が始まったあたりで、雄二が切り出した。

 「ミミさん、老人ホームに入るらしいぜ」

 「えっ」

 私は驚いて、剥いていたみかんを落としそうになった。

 「先週、ミミさんと酒屋に行った時に頼まれたんだよ。広告屋ならどこかいい老人ホームを知ってるんじゃないかって。お前にはまだ内緒にしとけって、言われたんだけどさ。今日、パンフレットをいくつか持ってきたんだ」

 雄二はそう言って、茶封筒をバッグから出した。

 「そんな……だって、ミミさん、そんな事一度も」

 「最近、ミミさんボケてきただろう?このままじゃ、お前に迷惑かける事になりかねないって。年明けには手続きするってよ」

 確かに、先月の引きこもり事件以来、ミミさんは段々と痴呆がひどくなってきてはいた。同じ事を何度も聞いたり話したりが多くなってきている。

 「私、ミミさんさえ良ければ、東京のアパートを引き払って、こっちで写真撮りながら、ミミさんのお世話をしようって思ってたんだけど」

 「バカ。それは家族がする事だろう? お前がしなきゃいけないのは、東京に戻って写真の仕事をする事だろ」

 「でも……」

 「もう今じゃフィルムじゃなくて、デジタルの時代が来てるからな。フィルムでとり続けるプロは少ないぜ? そろそろデジタルに替えろよ。なんなら、俺が買ってやるから」

 「そんなの悪いよ。雄二にはいつも世話かけっぱなしで……」

 「俺が好きでやってるんだから、いいんだよ。お前には才能があるんだから。このままミミさんの介護をやるようなキャラかよ、お前。ミミさんだって、この先ボケたまんま、何年も生き続けると思うぜ。介護をなめるなよ」

 「私、ミミさんに頼んでみる。お世話をさせて下さいって」

 「よせよ」

 「だって」

 「事情はミミさんから聞いてる。お前が海で死にかけた事も……確かにミミさんには恩があるかも知れないけど、介護は家族と業者がするもんだ」

 雄二はそう言うと、溜息をついて煙草に火をつけた。

 「俺らは、ミミさんの友達なんだよ。ミミさんには、行くべきところがあるんだから、笑って送り出すべきじゃないのか?」

 私はもう一人で生きるていくのが嫌になっていた。このままミミさんの世話をしていきたいと、真剣に思っていた。

 「でも、老人ホームになんて、そんな」

 「甘えるな。お前はミミさんに寄りかかってるんだよ。このままじゃ、共依存になりかねないと俺は思う」

 雄二の言っていることは分かる。だけど、ミミさんの傍から離れたくない気持ちには変わりがなかった。

 「どうせ依存するなら、俺にしろよ。結婚しよう、俺達」

 「えっ」

 雄二はまっすぐ私を見ていた。私は思わす目を逸らしてしまった。

 写真を撮る人間特有の強い目の力が、私を縛りつけた。

 「と、唐突に何を言うのよ。まだ付き合ってもいないのに、それに」

 「初めて会った時から、お前に惹かれてた。薫と付き合ってた時も、ずっと俺は……」

 「それ以上言わないで。お願い」

 私は泣きそうになった。

 ミミさんは老人ホームに行くと言うし、雄二は結婚しようと言う。私はどうしたらいいのか、混乱していた。

 「とりあえず、ミミさんが老人ホームに入るまで、三人で楽しい思い出を作ろう。俺、少し寝るわ」

 雄二はそう言って、こたつの中にもぐってしまった。

 

   

 十五、

 「近頃私たちは、いい感じ」

 初日の出を見るために、朝四時半に長屋を出て、海岸へと車を走らせた。お決まりのパフィーの歌を三人で大合唱しながら。

 海岸線には、何台もの車が路上駐車していた。適当な所に車を停めて、海岸に降りた。砂浜に三脚とカメラをセットして、日の出を待った。

 私は標準レンズの絞り値を二十二にセットして、シャッターチャンスを待った。ミミさんはカメラケースに腰掛けている。雄二は最新式のデジタルカメラを使っていた。

 紫色の夜明けは、手が凍えるほど寒かった。

 「『レインマン』って、知ってるかい?」

 ふいにミミさんが言った。

 「え、なんですか、それ」

 「ダスティン・ホフマンの出てるムービーさ。レイモンドがレインマンで、メインマンっていうオチさ。観た事ないかい?」

 「メインマン……?」

 私はその映画を知らなかった。

 「ダスティンが雨男なら、ゆーはみーの晴れ女だね。ファインウーメンてところさね…ああ、今朝はよく晴れてる」

 ミミさんはそう言うと、東の方を見て立ち上がった。

 「ほら、サンライズだ」

 太陽が東の対岸から昇った。私は暫くレリーズから手を離して合掌した。雄二がシャッターを切る音で、はっと我に返り、私もファインダーを覗いて、レリーズを手にし、シャッターを切った。

 写真を撮り終えると、私達三人は車に戻った。せっかくだから、少しドライブしようと言う事になった。暫く海岸線を走ると、ミミさんが言った。

 「次のシグナルを右に入っておくれ」

 「どうした、ミミさん?」

 「みーが昔買った家がすぐ近くにあるんだ」

 海岸からほど近いところに、小さいビルが建っていた。あそこだとミミさんが言った。

 「そこにビルディングとアパートメントと一軒家が建ってるだろう? 今は人手に渡ってしまったけど、あの三つがある所が、みーの家だったんだよ」

 車を停めて、三人でミミさんの家の跡地を見に行った。

 「この辺に井戸があってね……ああ、椿の生垣もみんな刈ったんだね。見事な椿だったのに」 

 「写真、撮りますか?」

 「ノーノー。今撮ったって、面白くもなんともない。ああ、波の音がここまで聞こえるよ」

 ここにあったのは、元々は華族さまの家の別荘だと前に聞いた。何年か前に、ミミさんの娘さんが売り払ってしまって、帰る家がなくなってしまったので、長屋で暮らしていると言う話だった。

 「こんなに海に近いんじゃ、井戸を掘ったって、海水だったんじゃねえの?」

 雄二がそう言うと、ミミさんは缶コーヒーを飲みながら言った。

 「ディープに、ディープに掘られていたから、塩辛くなんかなかったよ。夏にはスイカを冷やしたもんさ……さて、アイムハングリー。帰って雑煮をイートしょう」

 ミミさんがそう言ったので、私達は車に乗り込んで、帰路に着いた。

 

 

 十六

 正月明け早々に、介護老人ホームの営業マンが長屋に来た。雄二が紹介した所だった。ミミさんはさっさと営業マンの車に乗って、見学に行ってしまった。

 私は世話をさせて欲しいと言おうかと思っていたが、雄二の言葉を思い出し、とうとう言い出せなかった。

 確かに、介護をしながらの写真の仕事は難しい。ロケや何かで外出している間、ミミさんがもしも、もっと認知症が進んで、徘徊したりする様になったら、大変な事になるだろう。

 ものの数時間でミミさんは営業マンの車で送られてきた。

 「来月始めに、入ることにしたよ」

 ミミさんはあっさりとそう言った。

 「本当に、行っちゃうんですか?」

 「いえーす。これ以上ボケる前にね」

 ミミさんは私の淹れたコーヒーを飲みながら電話帳を取り出し、私に廃品処理業者と古物商を探させた。

 

 そして、次の日からミミさんの荷物整理が始まった。 

 「この浴衣はゆーにあげるよ」

 ミミさんは、夏祭りに借りた藤色の浴衣を私に差し出した。

 「いいんですか?こんな高価なもの……」

 「いえす。みーは着ないし。そっちのボックスに入れとくれ」

 「なんか、寂しいですね」

 「片付けってのは、片をつけるから片付けって言うのさ。みーもゆーも、これまでのライフにに片をつけないとね」

 私は自分のダンボールに、浴衣をそっとしまった。ミミさんが買ってくれた夏服と一緒に。

 「ミミさん、私……」

 「もう死ぬんじゃないよ。ゆーにはまだまだやることがあるじゃないか」

 「やること?」

 「沢山フォトを撮ってみんなをハッピーにしたり、メリーしてベイビーを産むとか。この先のライフの方が、今までよりもロングなんだからね」

 「私、時々遊びに行きます」

 「ノーノー。雄二とメリーしたら、ポストカードをおくれ。それだけでいい」

 「雄二と……? ミミさん、なんで」

 「プロポーズされたんだろう?」

 「ええ、まあ。でも……」

 私は大晦日の雄二とのやり取りをミミさんに聞かれていた事に気づき、顔を赤くした。

 「迷うことはない。雄二とメリーしな。ああ、寒いね。ヒーターをもっと強くしとくれ」

 ミミさんはそう言って、電熱器の温度設定を上げるように促した。すでに温度設定はマックスだった。窓の外を見ると、ちらちらと雪が舞い降りてきていた。

 「ミミさん、雪ですよ、雪」

 ミミさんは窓にゆっくりと近づいた。暫く二人で雪を見た。

 「雪なんて見るのは、何年ぶりだろうね。サンディエゴには雪は降らなかったからね」

 

 そして、とうとう別れの日がやって来てしまった。その日は澄んだ青空が広がっていた。

 鍋や釜などの生活用品は、みんな処分したので、私が朝食のパンを買いに行った。帰りに見事な椿が咲いていたので、携帯で写真を撮った。

 コンビニのパンを二人で食べながら、ラジオをつけると、今日もまた雪が降るという予報だった。

 雄二が車で来たのは、昼過ぎだった。東京の方はもうすでに雪が降っていたので、タイヤにはチェーンが施してあった。

 ミミさんは雄二が来る少し前に、残っていた缶ビールを飲み始めていた。老人ホームに入ったら、お酒は飲めないだろうね、と呟くミミさんは、名残惜しそうにビールを飲んでいた。

 缶ビールが飲み終わってすぐに、老人ホームの迎えの車がやってきた。ダンボール三箱分の荷物を、ミミさんは運転手に運ぶように申し付けた。

 ミミさんは、雄二に何かを握らせて、何かぼそぼそと耳打ちしてから、車に乗り込んだ。

 「ゆー、今までありがとう」

 「いえ、そんな……こちらこそありがとうございました」

 「元気でな、ミミさん」

 「しっかりおやり、ゆー達」 

 そう言って、ミミさんは車を出すように言った。

 ミミさんを乗せた車を見送ると、晴れた空に雪がちらついてきた。

 

 

 十七

 二月も半ばに入ると、寒さはよりいっそう増してきた。

 東京に戻った私は、すぐに働き先を探した。最初は工場での日雇い派遣のアルバイトで食い繋いだが、間もなく現像所でのアルバイトが決まった。今回は撮影や現像の現場だけでなく、受付と営業の手伝いもこなさなければならない職場である。前に務めていた現像所よりもハードだが、それでも、長引く不況の中で、すぐに仕事にありつけたのは、幸運としか言いようがない。雄二からの仕事の依頼を受けたり、またフォトバンクの仕事もやりつつ、週に五日のアルバイトする事になった。

 今日はアルバイトの初出勤だった。現像所の仕事が終わる少し前に、雄二からメールが来た。閉店前に車で迎えに来ると言う内容だった。

 午後六時に現像の機械を止めて、午後八時までが店頭での受付で、受け取りのお客さんを待ってからの閉店である。週末は、フォトバンクの仕事をするべく、山へロケに行く予定だ。

 午後八時過ぎに雄二の車が現像所の前に停まったのをが見えた。私は閉店作業をしていた最中だった。

 「よう、初出勤おめでとう」 

 私が車に乗り込むと、雄二はそう言った。

 「それを言う為に来たの?」

 「いや、チョコレートの催促に来た。くれるんだろう?」

 雄二のその言葉で、今日がバレンタインだと思い出した。

 「チョコなんて買ってないよ」

 「なんだよ、それ。今日はバレンタインだろう? チョコくれよ、チョコ」

 雄二は半分笑いながら、駄々をこねる素振りを見せた。

 「はいはい、分かったよ。好きなチョコ買ってあげるから。どっかの店で停めてよ」

 雄二は車を走らせ、渋谷に向かった。

 「渋谷じゃ車停められないんじゃない?」

 「デパートの駐車場があるだろ。そこで買ってくれ」

 「やっぱ、ゴディバとか?」

 「あれ、美味いよな。一粒でケーキが買える値段だけあって」

 「ゴディバなら、せいぜい四粒入りくらいしか買えないよ?私、今月まだお給料入ってないんだから」

 「四粒入りのでいいよ。メシも奢っちゃる」

 「会社の経費で?」

 「まさか。今日は自腹だよ」

 車をデパートの駐車場に入れながら、そんなやり取りをした。デパートに入ってから、チョコ売り場を店員に訊いて、エレベーターで一階に降りた。

 一階の正面玄関付近に、バレンタインフェアのチョコレート売り場があった。

 「四粒でいいのね?」

 私は四粒入りの生チョコレートトリュフの箱を二個、店員に包装してもらった。

 「なんだよ、二箱も買ったのか。他にやる奴いんのかよ」

 雄二は不満そうに言った。

 「こっちは自分用だよ」 

 私がそう言うと、雄二はほっとした表情を見せた。

 チョコをその場で手渡してから、またエレベーターに乗った。最上階のレストランで食事をする事にしたのだ。

 平日とは言え、バレンタインデーだけあって、店は混雑していた。店の前で十分くらい待ってから、やっと順番が来た。席に着くと、雄二はステーキセットを、私はピザセットを頼んだ。店の前にはまだ何人もの待っている人がいたので、食事とコーヒーだけですぐに店を出た。

 「ほれ、バレンタインチョコのお返し」

 雄二は紙袋を後部座席から取り出して、私に手渡した。電気店の紙袋だったので、もしやと思った。

 「デジカメ……?これも自腹?」

 「うん。今夜は晴れてるから、夜景でも試し撮りしよう」

 「ありがとう…こんな高価なもの。安月給が吹っ飛んじゃったんじゃない?」

 「給料三ヵ月分に比べれば屁でもないな。ほれ、追加」

 雄二はそう言って、胸ポケットから何かを出した。駐車場の中は暗いので、何かは分からなかったが、わずかな光に反射していたので、何か光物である事だけは分かった。雄二は車の中のライトをつけた。

 「ミミさんから貰ったんだ」

 それは、ミミさんがいつも左手の中指にはめていた、オパールの指輪だった。

 「三人での酒代で、婚約指輪代がなくなっただろうってな。サイズ合うかな」

 私は驚いて声が出なかった。その様子を見て雄二は、左手を出せと私に言った。私はおずおずと左手を出した。

 指輪をはめて貰うと、薬指にちょうど良かった。

 「どうですかね、お嬢さん。感想は?」

 雄二はかりかりと頭をかきながら、おどけて言った。

 私は身体が熱くなり、胸がどきどきしていて、言葉がうまく出なかった。

 「ダイヤ代、ケチったわね」

 思わずそんな憎まれ口が出てしまった。

 「十月生まれだろう?」

 「そうだけど」

 「やっぱりダイヤの指輪、追加しないとダメか?そうなると、引越し代が減るけど」

 「ううん、これでいい。これがいいの」

 私は目頭が熱くなり、涙をこぼした。

 「おいおい。泣くのはわかるけど、これから夜景撮りに行くんだからさ。涙で曇ってピントが合いましぇん、てか?」

 雄二はティッシュ箱を私に差し出して言った。

 「ううん。一応プロだもん。そんな事ないよ……すぐに泣き止むから、ちょっと待ってて」

 

 

 十八、

 私のアパートの契約が三月いっぱいで切れるので、私と雄二は、三月中に一緒に暮らす事になった。結婚式は六月に教会で身内だけでひっそりと挙げる事になった。披露宴はしないが、親しい友人と知人だけを呼んで、飲み会をする事になった。

 先週から十件程のマンションの下見をしたが、なかなか良い物件には出会えなかった。三月末にアパートを引き払わないといけないので、とりあえず雄二のアパートに引っ越した。二人ではちょっと狭すぎて暫く不便だったが、かえってお互いの性格が出るので、その方が良かったのだと思う。

 しかし、いつまでも雄二のアパートに住む訳にも行かなかった。私のバイト先の恵比寿から雄二の練馬のアパートまでは遠く、また、雄二の勤め先は青山なので、新居は世田谷辺りにしようと、再び物件を探した。撮影用の部屋を含めても、三部屋は必要なので、家賃は十数万円以上が相場だと言う。

 雄二との生活は、割とすぐに安定した。どうせすぐに引越しするのだからと、ダンボールに入った荷物は殆ど開けなかった。必要最小限の荷物で暮らしたが、未整理の写真の整理だけでもしようと、私は休日に写真のファイリング作業をしていた。

 ミミさんと暮らした時の写真が主だったので、しみじみとキャビネサイズにプリントしたものを見入っていた。中でも、ミミさんとひまわりの写真の出来映えが良かった。あの半年間は、私にとっての宝物だ。

 「そろそろ昼飯にしようぜ。俺、パスタ茹でるから、ソース頼むわ」

 写真の整理に没頭していて、私は雄二が声をかけるまで、空腹に気づかなかった。

 「何パスタにする?」

 「トマトとバジルとベーコン……かな」

 私はベランダの鉢植えのバジルの葉っぱを千切った。ベランダから外を見ると、あちこちにピンクの木々が見えた。

 「桜、咲き始めたね」

 私がそう言うと、雄二もベランダにやってきた。

 「午後は近所の桜でも撮りにいくか?」

 「うん、イメージ写真だね。いいのが撮れたら、フォトバンクにまた預けるよ」

 「X展、締め切り今月だろう? 出す写真、決めたか?」

 雄二はパスタを茹で始めた。キッチンタイマーを八分にセットしてから、ソースを作る用意をした。

 「うん、決めてある」

 私はバジルの葉を洗って、トマトとベーコンのソースを作るべく、フライパンを火にかけた。

 

 二人の新居が決まったのは、葉桜の頃だった。世田谷線のある駅から徒歩十五分くらいの古いマンションである。

 引っ越してからすぐに、雄二の家族に挨拶する事になった。雄二の実家は所沢にある、古い一軒家だった。雄二が小学生の時に建てられたものだと言っていたので、築二十数年と言ったところだろう。いかにも昭和の建売物件と言った感じの、いい具合に寂れてて、何となく温かそうな印象を受ける家だった。

 私は着慣れないベージュのスーツに、これまた履き慣れない黒のピンヒールで、着く前からかなり疲れていた。いつもは仕事の関係もあって、動きやすいパンツとTシャツとスニーカーばかりだったので、余計に肩が張るし、つま先は痛いし、踵には靴ずれが出来てしまって、所沢の駅から雄二の実家までの徒歩数分が何十分にも感じた。その様子を見た雄二は、タクシーを使おうかと提案したが、私は、数分なら頑張る、タクシーは帰りでいいと意地を張った。途中のコンビニのトイレで踵に絆創膏を貼ったら、少し楽になった。

 雄二の両親と姉は、温かく私を迎え入れてくれたので、私は頑張った甲斐があったなと思った。手土産の菓子折を差し出すと、お決まりの「気を使わなくていいのに」と言う台詞が、雄二のお母さんの口から出た。お姉さんは「ありがとう」とだけ言って、菓子折りを持って茶の間に案内してくれた。 

 茶の間では、気さくな感じのお父さんが、でんと座っていた。私を見るなり、欠けた前歯の笑顔を見せた。茶の間の入り口で、座ってお辞儀をする社交辞令が終わると、すかさずビールがいいか、日本酒がいいか、それともチューハイがいいかと私に訊ねた。私はアルコールが飲めないので、お茶をお願いしたら、お父さんはちょっとだけつまらなそうな顔をした。

 そのやり取りを見たお母さんが、昼間からそんなに飲むなとお父さんを戒めた。もちろんお父さんはそう言われても、ビールを飲み続けていた。お姉さんは、こんな大事な日に飲むなと文句を言ったが、お父さんは祝い酒だと返したので、お姉さんは私に申し訳なさそうに、お父さんはお酒が好きで、仕事以外では毎日飲んでいるのだと言った。

 やはり家はその家族を反映するのだと、私は雄二の一家を見て思った。直感的にうまくやっていけそうだと思った。雄二の乱暴な優しさや普通の感覚は、この両親と姉の影響だと妙に納得した。

 お母さんが、お手製のちらし寿司と野菜の煮付けやなんかで、私をもてなしてくれた。食後に煙草が欲くなったが、この場では吸わないほうがいいような気がしたし、煙草がなくても苦痛ではなかった。と言うよりも、初めての対面で緊張して吸う気になれなかったし、煙草がなくても寂しくなかった。

 「雄二は末っ子で甘やかされて育ったからねえ」お姉さんがぽつりと言った。

 「そんな事ないよ。親父にはよく殴られたしなあ」雄二は反論した。

 「お前が悪いからだろう? 悪い奴を殴ってどこが悪い」お父さんはそう言って、雄二を睨んだ。

 「まあ、そうだけどさ……でも、今で言うDVだよな、あれは」

 「最近の親は躾の仕方が下手なのよねえ。怒ると叱るをごっちゃにしてるのよ、あれは」お母さんがお皿を片付けながら言った。

 私が片付けを手伝うと言ったら、お母さんは遠慮する事なく、手伝う事を許してくれた。二人で一緒に台所に立ち、食器を洗った。食器をお母さんが洗い、私が水ですすぐと言う段取りだった。

 「よく気がつくわねえ……うちの子達に、爪の垢を煎じて飲ませたいわ」

 「いえ、アシスタントの仕事が長かったので」

 「あなたのご両親はもう亡くなったんですってね…苦労したでしょう?」

 「はい。でも、もう、昔の事ですし……年をとってからの一人娘だったから、私の方こそ甘やかされて育ちました」

 「そうお? でも子供のうちは、ちょっと甘やかすぐらいがちょうど良いのよ。情操教育上、あたしはそう思うわ」

 お母さんのその言葉が胸に刺さった。実は私は甘やかされて育った記憶はなかった。どちらかと言うと、厳しく育てられた方だと、人に言われた事がある。年老いた両親は、恐らく、私が一人でも生きていけるようにと思って、厳しく教育したのだと今では思う。

 「亡くなった薫さんのお友達だったでしょう? 薫さんのお葬式で、お見かけしたわ、あなたを」

 そうだ、三年前の薫の葬式には、雄二の両親も出席していた。でも、私はそんな事はまったく気にしてなかったし、気にする余裕もなかった。

 「薫さんには悪いけど……あたしは雄二には、薫さんよりもあなたの方が良かったんじゃないかって、内心思っていたのよ」

 「なんで……ですか?薫に何か問題でもあったんですか?」

 「いえいえ。これはあくまで、あたしの勘だけど……妊娠していたのは、雄二の子供じゃなかったんじゃないかなって。ほら、薫さんてモデルさんもやっていたでしょう?一度挨拶にうちに来たんだけど、なんだか、その。ろくにお仕事してないのに、電話しても留守がちだったし、バッグやアクセサリーや服なんかが、高価なブランド物だったし。仕事をしていない若い子が、そんな物を持ってるのが、なんか不自然に思ったんだけど」

 私は、薫のブランド品の数々が、浮気相手からの貢物であることを隠した。そして、浮気の疑惑を払拭すべく、こう話した。

 「そうですか。ああ、留守がちだったのは、私や他の友達と遊びまわってたからだと思いますよ。勤めていた時の貯金がかなりあったみたいでしたから、そのお金で買ったんだと思いますけど?」

 私はこの勘の鋭いお母さんに感服した。そして、これからの結婚生活では、ある程度の緊張感がある関係になるんだなあと思った。

 「あら、そうなの。あなたが言うなら、きっとそうなのね。ごめんなさいね、お友達の悪口みたいになってしまって……」

 「いえ、薫が誤解を招くタイプだったから、仕方ないですよ。美人でモデルだったから、確かにファンは多かったですよ。うちの現像所には、薫目当てで来るお客さんも多かったし」

 「そう……そうなのね。そうそう、あなた。煙草は子供が出来る前におやめなさいな。まだ三十代なんだし、子供が欲しいなら控えるのよ?」

 お母さんはにやりと笑いながら言った

 「はい……」私は返事しか出来なかった。この洞察力の鋭い未来の姑に、脅威を感じた。

 「来週末にでも、ウエディングドレスを選びましょうね」

 「はい、仕事は休みですし、梅雨時はロケもそうそうないので、空けておきます…でも、私のサイズがあるかなと……」

 「だったら、こうしない?ドレスはあたしが縫うの。これでも洋裁学校出たのよ、あたし」

 「おいおい、おかんの手作りなんて、貧乏臭いじゃねえか」

 冷蔵庫からビールを取りに来た雄二が口を挟んだ。

 「あら、いいじゃない。ねえ、あたしの手作りでよければ、作るわ。田町に安くていい布屋さんが沢山あるのよ」

 お母さんはそう言って、茶菓子を皿に盛り付けて、茶の間に戻った。

 「いいんじゃないか。母さんは自分のドレスも自分で縫ったぐらいだからな」

 お父さんが雄二からビールを受け取りながら、赤い顔をして言った。

 「じゃあ、来週末、田町で待ち合わせしましょう…背が高いから、きっと見栄えがすると思うわ」

 「いいんですか? お忙しいでしょうに」

 私は嬉しかったが、お母さんに悪いと思って遠慮した。

 「専業主婦だし、四、五日もあれば作れちゃうから大丈夫よ。ねえ、あたしに作らせて。披露宴もしない地味婚なんだし、買ったり借りたりするよりはずっと安く上がるわ。引越しで貯金も少ないでしょう?ねえ」

 「はい、喜んで」

 「よかった……明日にでも、デザインの本を買いに行くわ」

 つくづく、雄二を取り巻く環境は健全なものだと、この時思った。当たり前の幸せの大切さをこの一家から学ぶのも良いなと、心の底から思った。

 


十九、

 六月半ばに挙式して、七月には暑中見舞い兼結婚報告葉書を作成し始めた。

 そして七月半ばの日曜日に、雄二と二人で手分けして百数十枚の宛名書きの作業をしていた。写真は雄二と私の結婚式でのツーショット写真である。雄二の美大時代からの友達が撮ってくれたもので印刷した。雄二のお母さん……今では姑だが、お義母さんの作ってくれたドレスを着た私と、貸衣装の雄二が写っている。ベタ過ぎるくらい普通な葉書だが、それが何となく当たり前の幸せを手に入れた様な感じがして、感慨深かった。

 「なあ、パソコンで打ったほうが良くね?」

 雄二はさっきまで黙々と宛名を書いていたが、二十枚くらい書いた辺りで飽きたらしく、文句を言った。

 「葉書が業者の印刷なんだから、せめて宛名ぐらい心をこめて書かなくちゃ。雄二、あんたもう少し丁寧に書いてよ。先方に失礼だよ、そんな字じゃ」

 雄二は元々字が汚い上に、走り書きだったので、宛名の字はまるで小学生が書いた字みたいになっていた。私がそう注意すると、生返事をしてテレビをつけた。

 「コーヒー淹れるよ。ブラックでいいんだっけ?」

 「ありがと。疲れてるから、アイスカフェオレにして……テレビなんか観てる場合じゃないでしょ…まだ後百枚は書かないと。雄二の仕事先にも送るんでしょう?殆ど雄二の分なんだよ?」

 「まあまあ、今月中に出せばいいんだしさ。ゆっくりやろうよ」

 「あと半月しかないじゃない。日曜日しか休みがないんだし。私、来週はロケの仕事もあるんだから」

 テレビには、古そうな洋画がやっていた。トム・クルーズの若い頃の映画だったので、私はテレビを消さなかった。

 「あと半月もあるじゃんか…ほれ、アイスカフェオレお待ちい」

 雄二は呑気そうにそう言って、インスタントのカフェオレを私に出した。

 「どもども……映画、途中だから、話分かんないね……この変なおじさん、誰?」

 「ああ、ダスティン・ホフマンだろ」

 私はどこかで聞いた名前だなと思いつつ、映画を眺めた。

 「なんて映画?新聞の番組欄に載ってない?」

 雄二はソファの上に置きっぱなしの新聞を掴んで、読み上げた。

 「えーと…『レインマン』だってさ。中途半端に古い映画だな」

 『レインマン』と聞いて、私はミミさんを思い出した。

 「この映画、ミミさんが前に言ってた映画じゃない?ほら、お正月に海で初日の出の時に」

 「そうだっけ? おいおい、葉書にこぼすなよ?」

 私は葉書を書く手を止めて、その映画に見入った。ちょうどカジノで大儲けするシーンだった。

 ダスティン・ホフマンが脳に障碍のある兄で、トム・クルーズがその生き別れの弟と言う設定だった。兄のレイモンドと言う名前を弟がレインマンと覚え間違えていた、と言う内容だった。最後に、レインマンはメインマン、つまり親友、大切な人の意味だと分かった。

 私はさっき書いた、ミミさん宛ての葉書の隅に、こう書き加えた。

 『私の雨女様へ。あなたの晴女より、友愛をこめて』

 

 その後まもなく、X展の受賞通知が来た。成績は金賞ではないものの、銀賞と言う意外なものだった。『Mimi』と言うタイトルをつけたその写真は、ミミさんとひまわりが写っている。初めて自分の写真が世間に認められて、私は有頂天になった。

 雄二が個展を開けと言うので、急いで都内のギャラリーをいくつか問い合わせた。幸いにも、再来週からの一週間なら空いていると言う場所があったので、大急ぎでパネルをプリントした。現像所でバイトしているで、仕事中に自分の写真を自らプリント出来たのもラッキーだった。同時に個展の招待葉書も急いでプリントしたので、徹夜で百枚位の宛名を書く羽目になった。嬉しい悲鳴だが、百枚余りの宛名書き作業で、右腕が腱鞘炎になってしまった。

 夜九時過ぎると、雄二が帰ってきたので、手伝わせようと思ったが、何やら暗い顔をして帰ってきた。

 「結婚葉書……ミミさんの分だけ宛先不明で帰ってきちゃったよ」

 「えっ?」

 雄二はマンションの集合ポストに、これが入っていたと言って、一枚の葉書を私に差し出した。

 「お前、住所間違って書いたんじゃないか?」

 私は嫌な予感がしたが、慌てて払拭しようと思った。

 「N介護老人ホームだったよねえ。でも、番地が違っても、大きいホームだし、郵便屋さんが親切なら届くはずだし」

 私は手が震えて、葉書を落としそうになった。番地間違いに違いないと思って、急いで取って置いたN老人ホームのパンフレットを探した。

 「おいおい、もう夜中だぜ。問い合わせるなら、明日にしろよ」

 雄二は半泣きの私の肩を抱いて言った。

 「明日も仕事だろう? もう今日は寝ろよ。宛名書きは俺が代わりにやっとくから。その代わり、パソコンで印字するからな。いいな、落ち着けよ」

 雄二はそう言って、私に先に寝るように促して、宛名書きのリストを手にして、パソコンを起動させた。

 「でも……眠れないよ、こんなんじゃ」

 「ミルクあっためてやるから、寝ろ。ラベンダーの入ったミルクティにするか?それとも、ブランデー落とそうか?」

 「うん……うん。分かった。私、寝る」

 私は寝室に行って、ベッドに潜った。なかなか眠れなかったが、ラベンダーのミルクティのせいか、日付が変わる頃には眠りについた。

 

 その晩、夢を見た。ミミさんの夢だ。あれからミミさんの夢は時々見ていたが、今日は少し様子が違っていた。

 真冬の雪景色。長屋の庭には、原色のムームーのミミさんが歩いていた。風邪をひくからと私は白いニットのストールを持って後を追ったが、なかなか追いつけなかった。

 そして、ミミさんは長い髪の女の人の後姿を追いかけていたのに気づいた。あの茶色い長い髪は薫だと、最初は気づかなかった。薫は振り向いて、雪女の様に微笑んで、ミミさんの手を引こうとしていた。

 「薫、待って。ミミさんを連れて行かないで、お願い……」

 そんな自分の寝言で、飛び起きた。身体中が冷や汗でびっしょりだった。時計を見ると、まだ早朝の五時前だった。私の寝言で起こしてしまったのか、隣には、心配そうな雄二の顔があった。

 「悪い夢だったみたいだな。大丈夫か? 今日は仕事休めよ」

 雄二はそう言って、私の頭を撫でた。

 「ダメよ、個展でバイト休むんだし、仕事に穴が空いちゃう」

 「俺が店に電話しちゃるから。熱があって動けないって言っとくよ。今日は九時になったら一番に老人ホームに電話しろ、な?」

 私は雄二の言うとおり、仕事を休んで、九時になった途端にN老人ホームに電話をかけた。

 しかし、ホームの受付担当者が、電話での問い合わせでは個人情報保護の為、応じられないと言った。私は一瞬、絶望的になったが、とっさにある事を思いついた。

 「それなら、営業のTさんに繋いで下さい。H広告代理店さんの紹介で、祖母は入所したんです」

 「お孫さんなら、ご家族から情報が入るはずでしょう。あなた、本当にお孫さんなんですか?」

 私はとっさに嘘を思いついた。 

「両親とは、うまくいってなくて絶縁状態なんです。お願いです、Tさんには私の名刺をお渡ししてますし、長屋で同居していた時にお会いしてますから、ご記憶がおありだと思います」

 受付の人は、渋々と営業のTさんに電話を繋いでくれた。

 Tさんの話によると、ミミさんは春に受けた健康診断で癌が見つかって、すぐに近くのホスピスに移されたとの事だった。

 私は愕然とした。まだ入所して数ヶ月しか経っていないのに、ホスピスに移されるなんて信じがたかった。半年前の冬に会った時は元気だったのに、何故…と疑問に思った。

 雄二は昼休みに電話をくれた。訳を話すと、溜息をついて深呼吸をする音が聞こえた。雄二もミミさんが心配だったみたいだった。

 「どうしよう……雄二。私、また友達を亡くすんだよ…もう沢山だよ、人の死に目に遇うなんて。薫といい、ミミさんといい…何で私の友達はみんな先に死んじゃうの?」

 雄二は忙しいにも関わらず、私の話をじっくり聞いてくれた。

 「そりゃ、ミミさんに死なれるのはしかたないだろう、年寄りなんだから。先に死ぬのは分かってたはずだろ? それに、まだ死んだと決まった訳じゃなし」

 「そうだけど、でも」

 「ミミさんに会って来いよ、明日。ミミさんにプレゼントする分に焼いたパネルと結婚式の写真持ってさ。俺も行きたいけど、明日大事な会議があるから……ミミさんによろしく言っとけ」

 「ミミさんは来るなって言ってたよ」

 「押しかけろ。アポなしで行け」

 「私が行っても喜んでくれないよ。会う気がないから、ホスピスに入った事も教えてくれなかったんだよ。きっとそうよ」

 「そうネガティブになるなよ。とにかく、会って来い。大事なメインマンなんだろう? 嫌われる理由なんて無いし。嫌がられても、そう言う時は行くもんだ」

 そう言われて、私はほっとした。

 雄二からの電話が来る前は、ミミさんに言われるまま東京に帰って来てしまった事や、介護を含めて、老後の世話を強く申し出なかった事を後悔していた。でも、雄二のこう言った優しさに、これからずっと包まれて生きていける事に幸せを感じた。不安と嬉しさが入り混じった涙が流れ出た。

 少ししてから、私は明日、仮病を使ってミミさんに会いに行くべく、アルバイト先に電話をかけた。

 

 

 二十、

 真夏のホスピスは、海に近い丘の上にあった。一緒に住んでいた長屋のある町からそんなに遠くなく、同じ沿線の終着駅からホスピスまでのバスが出ていた。しかし、バスの便は一時間に一本しかなかった。

 駅に着いて、ちょうどバスに乗り損ねてしまった。時間つぶしも兼ねて、その駅の周辺を散策した。駅前の花屋でひまわりの花束を買った。それでも、まだ時間があったので、東京名物の和菓子の他に、何かお土産はないかと探した。少し離れたところにコンビニがあったので、ペットボトルのお茶とイチゴサンドケーキを買った。そしてちょうどいいところに夏みかんの木に出会った。あの時と同じように、夏みかんは熟れて今にも腐りそうだった。私はその木の持ち主に許可を得て、三個ほいもいで袋に入れた。

 バスはホスピスのある丘の手前で停まった。私はゆっくりと海と緑の空気を味わいながら、丘を登った。

 この道の先には海しかない。ここは関東の極地なのだと思った。東京よりも南に位置するが、海が近く風が爽やかだからか、暑さは幾分和らかだった。

 バス停から五分ほど歩くと、ホスピスの白い建物が見えた。正門をくぐると、すぐに受付があった。私は名刺を差し出し、ミミさんの孫と偽って面会の許可を得た。東病棟の奥の二人部屋に、ミミさんの名前のプレートだけがあった。

 部屋に入ると、ちょうど介護人がミミさんにお粥を食べさせていた。最後に会った時よりも痩せてやつれているミミさんの左腕には、点滴の管が刺されていて痛々しかった。私は介護人に、孫ですと言って挨拶をした。

 「ミミさん、お孫さんがお見舞いに来てくれたよ。早く食べちゃって、お孫さんとお喋りしようよ、ね?」

 介護人は、ミミさんにそう言ったが、ミミさんは少しぐったりしていた。今日はもう食べないと言って、ミミさんは介護人にお膳を下げさせた。すると介護人は食後の薬を飲ませ、早々に立ち去っていった。隣のベッドが空になっていたので、それを見てぎくりとした。ミミさんが死んだら、こうなるのだと思った。

 「こんにちは。私です」

 ミミさんは私と目が合うと、ぽかんとした表情で、じっと私の顔を覗き込んだ。私はさっきまで介護人が座っていた椅子に腰掛け、ひまわりを渡そうとした。

 「……はじめまして」

 私はミミさんのその一言に耳を疑った。身体が石になった様にこわばった。

 すると、ミミさんはにっこりと笑って、こちらを再び見た。

 私は呆然として、言葉が出なかった。でも、どうにか花束を渡す事は出来た。

 「ゆー、誰だい?」

 「えーと」

 私はミミさんが記憶を失っている事に気づき、改めて名刺を出して名乗った。

 すると、ミミさんは『ラ・ボエーム』の一節を歌った。前よりもしゃがれた弱々しい声ではあるが、初めて会った時と同じ様に「皆は私をミミと呼びます」と歌った。

 「ああ、ミミさんとおっしゃるんですね」

 「いえーす。ゆー、クアルチュアアがあるね。ないすちゅーみーちゅー」 

 そう言って、ミミさんは私に握手を求めた。白く美しい手には、いつもはめていたルビーの指輪はなかった。きっと介護人がミミさんが誤って口に入れたりしない様と外したのだろう。いつも首に着けていたプラチナの鎖もなかった。

 「ゆー、いいリングしてるね。オパールかい、それ」

 私の左手を見ると、ミミさんは目を輝かせて言った。

 「はい。このオパールの指輪は、大事な人から頂いたんです。私の一番の宝物なんです」

 「おーいえー。みーも前に、そのオパールとおんなじ様なリングを持っていたよ」

 指輪を見れば、私が誰だか判るのでは、と言う私の淡い期待は見事に外れた。

 私はなんだか、一年前のあの夏から冬にかけての夢の様な日々が、無かった事の様に話されて、寂しくなって泣きそうになった。

 しかし、気を取り直して、話題を変えた。

 「ひまわりはお好きですか?」

 「いえーす。夏はやっぱりひまわりに限るね。てぇんきゅう、レディ。いいひまわりだ。えくすきゅーずみー、花瓶がそこにあるから生けてくれるかい?」

 私は部屋の隅にある流しに行き、ひまわりを生けて、しょう頭台に置いた。

 「これ、夏みかんとイチゴサンドケーキです。あと、お茶も」

 「おー、てぇんきゅう。みーの好きなものばかりだ」

 ミミさんは嬉しそうにそう言ってくれた。食べ物の好みは変わっていなかったので、少し安心した。ビールも買ってくれば良かったとも思ったが、さすがにそれは出来なかった。

 「お食事したばかりでお腹がいっぱいでしょうから、後で召し上がってくださいね」

 私はペットボトルのお茶を小さい冷蔵庫に入れ、後は全部、しょう頭台に置いた。冷蔵庫の中には、エンシュアという栄養補助ドリンクの缶が沢山入っていた。きっと、もう食欲が落ちて普通食だけでは栄養がたりないのだろう。大好きなイチゴサンドケーキも、ここでは手に入らないらしかった。後で介護人に、イチゴサンドケーキなら好んで食べるだろうから、なるべく買ってきて食べさせてあげて欲しいと頼もうと思った。

 私は喉が渇いたので、リュックサックから自分用のペットボトルのお茶を出して飲んだ。

 「ゆー、知ってるかい?イートはデリィシャスで、ドリンキンはテイスティって言うんだよ」

 私は前にもそんな話を聞いたと思い、苦笑した。

 「英語がお出来になるんですね」

 「しゅわあ。四十八年もアメリカにいたからね」

 そう言うと、ミミさんはママス・アンド・パパスの『カリフォルニアドリーム』の一節を口ずさんだ。歌が好きなのは以前と変わらないミミさんを見て、来て良かったと思った。だいぶしゃがれているけど、まだ歌が歌えるだけ元気でほっとした。

 「ああ、カリフォルニアですか。良さそうな所ですよね」

 「いえす。サンディエゴだよ。ロスよりずっと南の、メキシコとの国境の街だよ」

 ミミさんは夏みかんをひとつ、しょう頭台の上から取り出し、匂いをかいだ。弱々しい手でそれを弄んだ。

 私は、これ以上ここに居たら、悲しくて泣いてしまうだろうと思い、帰ろうとした。その前に、紙袋に入った四つ切のパネルをベッドの横にそっと置いた。

 「何だい、それは」

 ミミさんが夏みかんを持ち替えようとした時、手から夏みかんが滑り落ちた。私はそれを拾いながら言った。

 「私が写真のコンテストで銀賞をとった写真ですよ。差し上げますから、後でご覧になって下さい」

 「おお、そうかい。それはグレイトだね」

 「それじゃあ、お邪魔しました。お大事になさって下さい」

 私は拾った夏みかんをしょう頭台に置こうとしたが、ミミさんが取ってくれと言うので、夏みかんを手渡した。今食べるのかと訊ねたら、ミミさんは首を振った。

 病室を出る前に、ふと、背後からミミさんの歌声が聞こえた。

 「もぎたての果実の、いい感じ。そういう事にしておきな。多分私も、いい感じ」

 私はその歌声を聞いて、足を止めた。涙が溢れ出るのを止めることが出来なかった。

 ミミさんと雄二と私とで過ごした半年間、ミミさんがいつも口ずさんでいた、パフィーの『これが私の生きる道』だったので。

 振り返るとミミさんは、あの写真と同じく、真夏のひまわりの様な笑顔で夏みかんを手にしていた。

                                              了

 

 

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