短編小説『夢を見なくなった男』



睡眠時に見る夢を絵のモチーフにした作品を描き始めて、もう十年になる。作品数は現在、百枚を超えている。そう、僕は画家の端くれである。

周りの人間にはいつも「気楽でいいね」と言われていた。自らの作品を描く合間に、美大や絵画教室の講師も務めているのだが、好きな絵を描いてゆるーく後進に指導をする立場は、気楽と言えば気楽だが、潰しが利かない商売だ。

そんな折、付き合っていた女性が妊娠した。もちろん僕の子供だ。

僕は四十になったばかりだった。まだ遊びたいと言えばそうだが、そろそろ身を固めるべきかなとも考えていた。

彼女は、結婚を望まないなら子供を堕ろすと言ったが、僕は即座に求婚した。

あの時の僕の心に、若干やましい気持ちがあった事など、今はもう忘れてしまった。

周りの人間は、あいつもとうとう年貢の納め時だな、と茶化したものだった。

僕は毎晩の様に夢日記をつけていたが、結婚式の夜の夢は、たまたま日記につけ忘れてしまった。

こんな夢だった。

大きな影が、僕にある事を告げる夢だった。

「お前さん、もう絵は描かないのかい」

僕は影に、「いいや、描く」と返事をした。

影は言った。

「いいや、もう描かなくてもいいんだよ。もう、夢を見なくてもいいんだ」

僕はまた、「いいや、描く」と言った。

「……」

影が最後になんと言ったか、忘れてしまった。いや、わからなかったのかも知れない。

それから、僕は夢を見なくなった。



結婚を機に夢を見なくなった僕は、当然、夢の画家としての活動も危うくなった。

苦肉の策として夢日記を捏造し、見てもいない夢の絵を暫く描いた。しかし当然の如く出来が良くないので、嘘の夢の絵は売れなかった。

嘘の夢がダメならと、今度は他人の夢を描こうと思いついた。

手始めは妻だった。

「あたしの見た夢? 話してもいいけど、胸が悪くなるような話よ。繊細なあなたに、あんな悪夢を描かせたくないわ」

妻はそう言ったきり、黙って家事を再開した。

僕のシャツにアイロンをかける手を見ていると、「自分はきっとこの世で何番目かに幸せな人間なんだろうな」と思えてくる。理由はわからないが、本当にそう思えるのだ。

だいぶ前に聞いた妻の話では、彼女は小学生の頃から自分のシャツをアイロンがけしていたという。

つまり、妻が今こうして家事が出来るようになったのは、彼女が育児放棄を受けたからなのだ。

母親からは家事を習った経験はなく、彼女はその日その日を生き抜く為に、自ら家事をマスターしたという。

僕はそれを思い出し、これ以上彼女を悲しませるのはやめようと思った。そしてそのまま妻の見た悪夢の話は聞かないでおいた。



悲しい気持ちでその夜、夕飯を食べ終わった僕に、妻はこう言った。

「どうしてもというなら、あの夢の話をしてもいいわ」

そう言われて困った。聞きたくないような、聞きたいような、複雑な心境だった。

「どうする? 聞きたい?」

妻はまるで何の感情も持たないような顔つきで、こちらじっとを見つめた。

「いい夢の話はないのかい?」

僕は、そう彼女に問いただしてみた。

「ないわね。あるとしたら、今かしら。夢よりも現実の方があたしは好きよ。夢の中では、誰も助けてくれないし、同じ悪夢の繰り返しで飽きちゃう。たまに、今が夢なんじゃないかって思う時もあるけど、あまり深く考えるほど、あたしは頭が良くないから」

僕は妻のこう言う処を真に尊敬している。不幸な過去さえ、まるで天気の話をしている風に話す、不思議な雰囲気を持った彼女に心惹かれたのだと。

胸が悪くなるような話……彼女とは出会ってまだ一年と少ししか経っていないので、どんな話なのか皆目見当がつかなかった―—いや、こうして話をしているうちに、もしかしたら育児放棄だけでなく虐待もされていたのではと思った。

「他人の不幸を泣く人は、他人の不幸を笑う人だとあたしは思う。だからあたしは、あたしの話を聞いても泣かない、泣かないであろうあなたが好きなの」

妻は、そう言って僕の手をとり、愛おしげに頬を寄せた。

「君は、過去を思い出すのは辛いかい? 」

「さあ、わからないわ。なんでそんな事を聞くの? 」

「いや、僕は過去の積み重ねが現在だと思うから。夢は記憶の塊だと考えてる。予知夢を見る人もいるみたいだけど、僕は見たことがない」

「あなた、昨日の昼、何を食べたか覚えている? 」

「ああ。ラタ……ラタトゥイユだっけ? 野菜の煮物?」

「不味かったでしょう? 」

「ああ、僕の嫌いなセロリが入ってたからね。でも、トマトとパプリカと、あと…玉ねぎだっけ? 入ってたの」

「ズッキーニも入れたわ。ねぇ、あなたはなんで残さないで平らげたの? 」

「そりゃ、トマトが好きだからだよ。それに、君が一生懸命に作ってくれたんだし」

「昨日のラタトゥイユが不幸な過去なら、どう思う? 不幸な過去って、つらくて暗いだけではないのよ。セロリという最悪な具材があっても、トマトや他の具材があったから、こうしていられるのよ」

それを聞いて、僕は彼女は賢いなと改めて気づかされた。



 妻から夢の話を聞けなかったので、僕は高校時代の友人に矛先を向けた。週末に駅前の居酒屋に呼び出して、彼に事情を話した。

「夢を見なくなった? 」

彼はビールの泡を口につけながら、少し驚いたように言った。

「ああ。眠れるんだけど、夢が見れないんだ。昼寝をしても、二度寝三度寝してもダメなんだよ」

「幸せだからじゃないのか? 」

「始めは僕もそう思った。でも、もうすぐ子供も産まれるし。新婚生活にも慣れてきたのにな」

「十歳も若い嫁さん貰って、みんな僻んでたがな……そうか、夢をね。で、俺の夢の話を描くのか? 」

「是非とも協力してほしい」

「今日はお前の奢りだぜ? 」

「ああ、じゃんじゃん飲んでくれ」

「お姉さん、ビールピッチャーで! 」

彼は意気揚々として、店員にビールを追加オーダーした。

僕にとっては死活問題なので、これも必要経費だと思うことにした。自分も元を取ろうとビールをおかわりすることにした。

「で、お前の最近見た夢ってなんだ? 」

「最近、というよりも。何度も同じような夢を見るんだ」

「ふむふむ……」

僕は身を乗り出して、彼の話に聞き入った。

「まあ、軽いトラウマかもしれないんだが……笑うなよ? 」

「うん、それで? どんな夢だったんだ? 」

「そうだな……まあ、たいてい俺は、まだ結婚してなくて実家にいるという設定なんだ。あの四畳半の部屋で、俺が寝てたり起きてたりする夢なんだが」

 僕はメモを取り始めた。

「おいおい、メモなんか取るのかよ? そんな大した夢じゃないんだよ。お前も見ないか?あーゆー夢」

「あーゆー夢? 」

「男なら、誰でも持ってるだろう? アダルトDVDとかグッズとか、ポルノ雑誌とか」

「まあ、持ってたな、そういえば」

「あれをおふくろが、俺の部屋で発見するんだよ。『あんた、何これ? 』ってさ。そんな夢ばかり見るんだ」

 僕は半笑いになりながらも、余りにもお粗末な話で絶句した。

「お前は見ないのか? あーゆー夢? 」

彼はビールを飲む手を止めて、まじめに僕にそう訊いた。


 結局、その日は二人とも酔っぱらってしまって、それ以上の話は出来なかった。

翌朝、二日酔いで痛くなった頭を抱えていたら、妻が頭痛薬と水を用意してくれていた。

「で、お友達からはいい夢の話は聞けた? 」

大きくなったおなかを擦りながら、彼女はにっこりとほほ笑んだ。

「えーと」

僕は言葉を失っていた。

「あ、動いた。今動いたわ、おなかの子が」

「え、本当に? 」

「ええ。ほら、また……」

僕は彼女のおなかに耳を当てて、子供が動くのを確認しようとした。大きなおなかからは、ぼこぼことまるで水中で生き物が暴れているような音がした。

「……なんか、すごいな。本当に人間て、こうして産まれてくるんだな」

「やあねえ。そうでなきゃ、人類は滅亡してるわよ」

「そりゃそうだ」



結局、いろんな人間を取材したが、揃いも揃ってたいしたネタはなかった。そして他人の夢を描いても、面白くないことが分かった。

だから自力で夢を見ようと、心理カウンセリングを受けることにした。

電車で三駅行ったところの商店街にある、心理クリニックを訪ねたのは、夢を見なくなって数か月たった頃だった。

カウンセラーは、と同じ年くらいの男だった。どこか、のほほんとした雰囲気を持っていた。

「……で、結婚してから夢を見なくなったと? 」

「はい、そうです」

僕は身を乗り出して、カウンセラーの話を聞こうと一生懸命だった。

「夢が見られなくなると、絵が描けないんですか? 」

なのに、カウンセラーはのほほんとした態度を変えなかった。

「はい、長年夢をモチーフにして描いているので」

「それは思い込みではないですか? 夢は現実のリハーサルのようなものですからね。結婚なさって、夢を見る必要がなくなったのでは? 今、あなたは幸せですか? 」

「はい、幸せではありますが……」

「ならいいじゃないですか。それが何よりですよ」

カウンセラーは、あっさりとそう言った。

「先生、とにかく僕は、どうにか夢を見られるようになりたいんです。お願いです、夢を見る方法を教えてください」

「そう言われてもねえ。麻薬とか覚せい剤を使うわけにもいかんでしょう」

「薬でトリップ出来るんですか? 」

僕は思わず、飛びつくように反応した。

「出来ますが、お勧めしません。法に触れますから」

「出来るんですね。じゃあ、市販の睡眠薬とかをちょっと使ってみるのはどうでしょう」

「いやいや、やめておいた方がいいですよ。なんかの拍子にバッドトリップしたり、依存症になったりしますからね。本当に夢が見れるとも限りませんし」

「じゃあ、どうすればいいんですか? 僕は、どうすれば……」

絶望する僕には関心を持たないのか、カウンセラーは相も変わらず至って平静だ。

「簡単です。現実の絵をお描きになればいいんです。さっき、ご自分は幸せだと仰ったじゃないですか。夢の絵に拘ることはないでしょう。大事なのは、今、ここにある現実が幸せだということです」

結局そのカウンセラーに一万円も払ったのに、僕は夢を見る方法を聞き出せなかった。

やはり薬に手を染めるか、とも考えながら商店街を歩いていた。



その日の帰り際に、商店街をぶらついていたら、何やら怪しげな店を見つけた。黒い黒板にチョークで「あなたの夢を占います」との宣伝文句がある。どうやら占いの店らしい。

「占い一件につき三千円」とあったので、僕はさっきのカウンセラーの料金よりも安いなと思った。財布の中に、一万円札一枚と千円札三枚と小銭が入っていたのを確認した。

僕は最近、夢が見られないのだから、占ってもらうネタがなかった。どうしようかと店の前で考えて、「そうだ結婚式の夜に見た夢を占ってもらおう」と思いつき、その店の重そうなドアを開けて入った。

中に入るとお香の匂いが立ち込めていた。何やら怪しげな黒を基調とした装飾の部屋だった。奥のテーブルには、一体いくつなのか分からないような老婆が座っていた。彼女が占い師のようだ。

「あのう、こんにちは。夢を占ってくれるって本当ですか?」

僕は水晶玉の置かれたテーブルの前の占い師に声をかけた。

「いらっしゃい。そうだよ、夢占い師だからね。一件三千円だよ」

「じゃあ。お願いします」

僕はまず先にお金を払って、それからテーブルの前に置かれた椅子に腰かけた。占い師は目の前でじっとしたまま動かない。

「で、どんな夢を見たんだい? 」

「夢を見たのは一年近く前ですけど、それ以来、夢を毎日見てないんです。見たくても見れなくて……一応仕事で絵描きをしてまして、夢をモチーフにして描いているんです。僕、夢を見れるようになりたいんです」

「そうかい。で、どんな夢を見たんだい? その最後に見た夢の話をしておくれ」

「黒い大きな影が、言うんです。『もう夢の絵を描かなくていい、夢を見る必要はない』って。『僕は描きたい』って言ったんですが」

「そうしたら、その影はなんて答えたんだい?」

「それが……聞こえなかったというか、覚えてないというか」

占い師は大きくため息をついた。

「ふうむ……なにか実生活で変わったことはあったかい? 」

「結婚しました。もうすぐ子供が産まれます」

占い師は水晶玉に手をかざして、何かを念じているようだった。暫く沈黙が続いた。

なんだか、一回一万円のカウンセラーよりも、三千円の占い師の方がまじめに相手してくれているので、最初からここに来ればよかったと思った。

「なるほどね……お前さんが夢を見れなくなったのは、獏のせいだろうね。夢を食っちまう獏だよ。知ってるかい?」

「獏? 」

意外な回答に、僕は呆気にとられた。

「そう、あんたの嫁さんのおなかには、獏がいる。嫁さんは獏を孕んだんだよ」

「え、獏を孕む? 」

「そうさ、みんな獏の仕業だよ。間違いないね」

「僕が夢を見れないのは、女房が獏を妊娠したからってことですか? 」

「その通り。その獏はかなりの食いしん坊だね」

占い師は、水晶玉から手を放し、こちらを真剣に見て話していた。

「僕はどうしたら夢が見られるようになりますか? 」

「おなかの獏を始末するしかないね。」

「ええっ? 子供を殺せって言うんですか? 」

まさかそんな展開になるとは思わなかったので、僕は素っ頓狂な声を出してしまった。

「そうさ、獏を殺さないとお前さんは永遠に夢を見ることが出来ないだろうね」

「そんな無茶苦茶な! 殺人罪で逮捕されますよ」

「獏を始末して夢をとるか、このまま獏に夢を食べさせ続けるかの二択だね」

占い師はそう言い切った

「そんな……! ほかに方法はないんですか? 」



「おかえりなさい、あなた。夕飯の支度、出来てるわよ」

家に帰ると、いつものように妻が待っていた。今夜はカレーらしく、玄関を開ける前から匂いがしていた。たぶんチキンカレーだろう。

日に日に大きくなる妻のおなかを見て、僕は複雑な気持ちでいた。

あのおなかの中には、本当に僕の夢が詰まっているのだろうか。僕が見るはずの夢が、あの中にあるのだろうか。

「あら、食べないの? 」

「うん、ちょっと眠いからもう寝るよ」

「そう、疲れてるのね。わかったわ」

せっかく妻が作ってくれたカレーを食べることなく、僕は寝室へ行った。そして、上着を脱ぎ、そのままベッドへと倒れ込んだ。

とにかく、僕は精神的に参っていた。早く眠りたかった。それこそ、夢なんか見ずにぐっすりと眠りたかった。

何時間かのあいだ僕は眠ったらしく、起きたら妻が横で眠っていた。すやすやと寝息を立てていた。

僕は冷蔵庫のビールの缶を持って、アトリエに行った。飲みながら過去の絵でも振り返ってみようと思った。夢日記帳をぱらぱらめくって、過去の絵をもう一度描きなおしてみようとも思った。暫くビールを片手に、キャンバスやスケッチブックを眺めていた。

——ボクノユメヲカエシテ。

ふと、後ろからそんな声がした。

振り返ると、大きな影が僕の真後ろにいた。あの時の夢の影だ。

僕は怖くなって逃げようとしたが、どんどんと影は大きくなり、僕を呑み込んだ―—いや、僕の中に影が入っていった、といった方が正しいかもしれない。

——コロセ、コロセ、バクヲコロセ。バクヲコロサナイト、オマエハ——

身体の中からそんな言葉が響いていた。

その時の僕は、もう僕でなくなっていたのかもしれない。油絵用のパレットナイフを持って、寝室に行った。

そして気が付いた時には、妻のおなかをパレットナイフで、何十回もめった刺しにしていた。

血がこんなに赤く生暖かいなんて、知らなかった。妻は声も立てずにぴくぴくと痙攣して、そのまま動かなくなった。

すると、血まみれのおなかの辺りから、色とりどりの夢の映像や音が出てきて、僕を包み込んだ。僕は突然眠くなり、そのまま眠りについた。血まみれのまま、夢を全身に浴びながら。



八、

「おはよう、おねぼうさん。もうお昼よ」

 僕は目を覚まし、横で寝ていたであろう妻にそう声をかけられた。

「えーと。おはよう」

何が何だか分からない僕は、妻のおなかを見て仰天した。なんと、彼女のおなかはぺたんこだったのだ。

「え、どうなってるの? 」

 しかも、血の色も全くない。確かに昨日の夜、獏を殺したはずなのに。

「なにが? 」

「えーと、君、妊娠してなかったっけ? 」

「妊娠? 私、あなたとはまだ、そういう関係じゃないじゃない」

「そう、だっけ? 」

「あ、もしかして、誰か他の女の人と? 」

彼女はちょっと意地悪く、僕をからかうように言った。

「いや、違うよ。君以外に女はいないよ」

僕の方は、若干後ろめたかったのもあったが、とにかく彼女が妊娠してなくて、そして僕に殺されていなくてよかったとほっと胸をなでおろした。

「そう、ラタトゥイユ作って持ってきたから、食べる? パンにのせて」

「あ、うん。セロリは入ってる? 」

「あなた、前に言ったじゃない。セロリが嫌いだって。入れてないわ」

「そうなんだ」

「そうよ、あなたがセロリ嫌いだからって、わざわざセロリなしのを作ったのよ」

「そうか……」

「なんだか、変よ。何か悪い夢でも見たの?」

「いや、別に」

「ほら、夢日記を書いたら、朝食にしましょう」

「うん……」


僕は長い夢を見ていたのかもしれないし、あれはパラレルワールドだったのかもしれない。もしそうならば、異空間での僕はどうしているだろうか。警察に捕まっているかもしれないし、獄中であの夢の絵を延々と描いているのかもしれない。

それとも、あれは予知夢というものだろうか。彼女と関係を持って妊娠させたら、僕は夢が見られなくなるのだろうか。


その日の夕方、彼女を駅まで送って行った後、あの時の占い師に会いに行くことにした。だが、三駅先の商店街までわざわざに行ったが、あの夢占いの店はなく、同じ場所には煙草屋がかわりにあった。あの占い師は普通の老婆として居眠りをしながら店番をしていた。

老婆はなんの夢を見ているのだろうか。声をかけずに回れ右をして、家路についた。



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