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⑤『ベルリンは晴れているか』取材写真
すでに5回目になってしまった、『ベルリンは晴れているか』取材写真まとめ。需要あるのかしらとか思いながらも自分のためにやってたら「休暇が取れたのでベルリンに行ってきます!」とのお声をいただいたりして、俺も行きたいベルリンに!!!
さて取材写真です。5回目は、滞在4日目の前半。取材は最終日となります。今回はミッテ周辺から離れ、ベルリンの西側に広がる森グルーネヴァルトにある湖、連合軍博物館、そしてバーベルスベルクまで向かいます。分量的にバーベルスベルクは次回になるかな。
前日にへろへろでホテルに帰り、疲労がピークに達していたんですが眠りまくってどうにか回復、朝ご飯をもりもり食べる。
あとで食事は別にまとめますけどもパンの味が全然違ってすごく衝撃だった。日本で食べるドイツパンとも違う。めちゃうまい。
ホットチョコレートもおいしくて何杯飲んだか覚えてない
一日目と二日目にもお付き合い下さったライターの久保田さんに再びガイドをお願いし、出発!
たぶんこの旅で一番利用した駅、Weinmeisterstraße、ヴァインマイスターシュトラーセ。地下鉄Uバーンの駅。
ベルリンは早くから地下鉄が発達していて、鉄道網がとにかく便利。ちなみに初日に切符を買って写真も撮っておいたのだった。
いろいろ種類がある…カルテといえば日本では病院でお医者さんが使うカルテでドイツ語由来だということも知られているけれど、ドイツ語では病院に限らずさまざまな切符や書類にカルテを使う。ターゲスカルテは一日切符。
ちなみに私の好きなドイツ語のひとつに「Lebensmittelkarte、レーベンスミッテルカルテ」というのがあるんですけど意味は食料配給券です。
ベルリンの駅には改札がなく、切符は打刻して使う。改札がないからといってちゃんとお金を払わないと見回りが来た時に罰金+めっちゃ怒られるらしい。「怒る」というところがすごくドイツっぽいと思ってしまう。
さて出発。
電車を撮るのがあまり得意でなくてごめんなさい
はい、クアフュルステンダムです!!!クーダム!!
『ベルリンは晴れているか』でも頻出した通り名だったと思います。この取材ではあまり観る時間がなかったので次回訪問したときはうろつきたい。
ここからバスに乗ってグルーネヴァルトへ。
相変わらず道幅も空も広い。このあたりは西ベルリン側で、アメリカ領だったところ。クーダムからグルーネヴァルトの森半分はイギリス領だけどもう半分はアメリカが持っていった。このあたりは美しい保養地でもあり、ナチス党の高官が住んでいたこともあり環境がよかったので、西側連合軍のお偉方はこぞって獲得したがったとか。
集合住宅が多かった中心部や東側のプレンツラウアーベルク、労働者が多かったヴェディングなどと違い、このあたりは一軒家が多い。
ヴィラともいう。以前は(今もそうかもしれないけれど)中間層~上層階級が暮らしていた場所でもある。
戦後処理中はこういったヴィラから市民は追われることが多く(こういう場所に住めるだけの地位にいられた当時のドイツ市民はたいていナチス党員かそれに近い立場だったため)、空いた家に占領軍の将校が家族を連れてしばらく滞在したりしていた。通訳やメイドにドイツ人を雇ったりも。
※写真に写しているのは取材資料で、実際に建物が当時のまま残ったものかは不明だし、現在住んでいる人は過去とは無縁の場合が多いと思います念の為。
それではグルーネヴァルト湖へ向かいます。
森。針葉樹が多い。実際、マップを見ると1944年も針葉樹林だった。
写真撮るの下手だな!!!
寒い1月なので泳ぎに来ている人はいなかったけど、犬の散歩をさせている人がたくさんいた。夏になると日光浴をしに来たりするんだろうな。
グルーネヴァルト湖。
『ベルリンは晴れているか』の作中だとアウグステとカフカがこの近くまで来ることになっていて、歩いている最中にアメリカ兵とイギリス兵がドイツ人女性を伴って遊びに来ていた場面ですね。当時の映像資料とかも結構残っているので興味のある人はぜひ……
夏に来たいなあ。天気がいいと気持ちいいだろうな。でも雨天もよいものです。物悲しくて。
さて移動です。
ここから徒歩+バスで連合軍博物館に行くんですけれども。その途中のバス停にこんなものがあった。
あるだろうな、とは思っていたけれど実際目の当たりにするとけっこうしんどい。記録に残しておくべきか迷うけれどあるものをないとは言えない。
久保田さんに伺うと、この上に貼ってあるステッカーはカウンターで、「ナチのプロパガンダに上から貼ったぞ!」みたいな意味があるらしい。要はこういった鉤十字を見つけたら、単純に消すのではなくあったものとして残しつつ、かつカウンターとして上からステッカー貼ってナチのプロパガンダに対抗してやる、という活動をしている方々がいるそうです。
さて、バスがやって来たのでその先に進む。
戦争終結直後のベルリンを書くという小説家にとってはおいしすぎる資料館、連合軍博物館。でも見て下さい、そう、ソ連がいない!ええっ。
ここは英米仏の西側三カ国の連合軍による博物館。まあこの地区が西側なのでしょうがないのはしょうがないです。
ベルリン名物のクマに描かれているのが、落下傘につけられたキャンディ……爆弾ではなくキャンディ……いや、1946年のソ連による封鎖に対抗した西側の食料空輸作戦を描いているのかもしれない……にしても盗っ人猛々しくないか…?みたいな気持ちになりつつ(下に壊れたカイザー・ヴィルヘルム教会が描かれていて、どこまで意味が込められているんだろうかとか考える)
とかぶつぶつ言いつつも博物館はたいへん充実しており、ありがたく拝見いたしました。中は撮影OKだったのも助かった。スタッフの方も親切でいいところなので興味のある方はぜひ。
1945年9月27日に西ベルリンで発行されたDER TAGESSPIEGEL紙の初日の第一号第一版。
アウグステにさんざん言われてたジープ。
ハンドルの隣にライフルのホルダーがあります。
ライフル三種。
右からアメリカのM1ガーランドライフル、フランスのMAS 36、イギリスのリー・エンフィールド小銃No.4 MK1。
間近で見るとめちゃくちゃでかい。担ぐこともたぶんできない。片手では銃身があまってしょうがないと思う。
占領にあたってのハンドブック。兵士に配られたもの。
「Our RED ARMY ally」というのもアメリカ兵に配られたものだと思うんだけど説明文がそのまま「赤軍についてのパンフ」としか書いてなくてそこんとこもう少し詳しく!!!
赤軍・NKVDなどの軍服や階級章も画にされていた。特に数カ国の軍がひとつの町に滞在している状況では誰がどんな階級でどこの所属なのかの情報はかなり大事。
ちなみにラジオなどで『ベルリンは晴れているか』の話題をされるときに、本書にルビを振ってなかったせいでNKVDの読み方に混乱が生じてるのを聞くことがありまして。アルファベット表記なのでエヌケーヴイデイでもいいんですがエヌカーヴェーデーと読みます。本来のキリル文字だとНКВД。
ドイツマルク
質問票、フラーガホーガン。市民に、名前、生まれた場所や生年月日、身長や髪の色、どこの学校出身かなどを答えさせるもの。学校はナチスの特別な学校や軍のものであれば必ず書くなどの記載がある。アビトゥーアには合格したかとか。
Radio in American Secter、西ドイツ側のアメリカ占領区ラジオRIASで使われたあれこれ。
録音機
RIASは1946年から放送開始だったので『ベルリンは晴れているか』には登場しないんですが、たいへん興味深いです。
あっそういうことを書いていると冷戦時代のベルリンを書きたくなる…
アメリカ軍のものあれこれ。
ほーらメスキットだよーー
ほーら軍隊文庫だよーーーー
小説だけじゃなかったんだな。
セクションが変わることを示す看板。
テンペルホーフ地区にあった軍政府の管理事務所など
アメリカ軍の軍服
マーシャル・プランの一環で開発された火力発電所の模型とか
アメリカ・イギリス軍政府主催で行われたベルリンの子どもを招待したパーティのメニュー
フルーツジュース、フルーツカクテル、チキンスープ、クラッカー、ローストターキー、クランベリーソース、グレーヴィー、パンとバター、コーンクリーム、ココア、アイスクリームクッキー、ナッツ類、りんごとオレンジ。
……だいたい軍支給品だ……兵士が普通に日常で食べてるやつをアレンジした感……
それでも当時のドイツの子どもにはすごいご馳走だった。
とはいえ子どもには優しくあろうとする姿勢があったんだなあと洋服プレゼントなどを見て思うなど
クレヨンもあった。
ベルリン市民用のトラベルビザ
連合軍側の兵士やその家族が記録したスクラップブックとか絵葉書とか
映像資料の充実ぶり。ここにあるのはYoutubeのアーカイヴでも見つけられなかったので貴重だった。
写真も。これはアメリカ軍兵士の行きつけだった理容室。
米軍従業員の身分証など。
そしてこちらがかのCAREパッケージ。
このへんになると1946年のベルリン封鎖と空輸作戦についての資料が多くなる。
投下した食料や日用品を詰めた布コンテナもたくさん展示されていた。
コンテナ積み方マニュアルにちょっと興奮する
まだまだ資料はあるんだけどきりがないのでこのあたりで。
終戦時のスターズ・アンド・ストライプスとプラヴダで締めよう。
スターズ・アンド・ストライプスの寄せ書きみたいな書き込みが気になる。
と、こんな感じの連合軍博物館でした。
博物館を後にします。
ここから更に南西へ移動して、オンケルトムズ・ヒュッテ駅へ。
なぜここに来たのかというと、『ベルリンは晴れているか』を書くための種本にもなった小説、『占領都市ベルリン 生贄たちも夢を見る』によると、このあたりの集合住宅が米軍のドイツ人従業員の住まいとして与えられていたそうなので。
相変わらず写真撮影が下手である。
著名な建築家ブルーノ・タウトがデザインした集合住宅。カラフル。
あちこち見て回る。このあたりの建物は1920年代から1930年代にかけて建てられたものが多いそうだ。
さてさて、冷えてきたのと空腹なのとでご飯どころを探す。
たどりついた駅構内のベトナム料理店のフォーが美味しかった!
そして移動移動!!
主人公たちと同じようにバーベルスベルク、ドイツ映画の産地へ向かいます。でも平時なので電車を使うぞ。
電車が動いているありがたみ。
さてこんなかんじで今回も写真たっぷりたっぷりになりましたので、このあたりで5回目はおしまいです。また次回!!次で最終回かな?!でもご飯は別にやるよ!!