見出し画像

物書き(ライター)が陥る、煩悩と本当

自分の文章を読み返して、鼻につくことがたまにあります。どうして気に食わない文章を書いてしまうのか。その理由を考え続けて分かったことが、自分をよく見せようと書いたとき、それが起きるということです。

「自分を○○のように見せよう(見られたい)」。こうした背伸びは、文章を書く上において邪魔になる煩悩です。しかし、この煩悩は物書きなら常についてまわるものです。たとえば「センスがあるように見せよう」「教養があるように見せよう」「語彙が豊かであるように見せよう」「幸せそうに見せよう」「お金があるように見せよう」など、あなたも経験があるのではないでしょうか。

煩悩がある状態で書いた文章は、得てして読者の心に届かないものです。反対に、素直に率直な気持ちか考えを綴った文章が高い評価を受けたり、バスを起こしたりすることがあります。私自身も、「えいや!」と勢いだけで書いた文章がバズを起こした経験が何度かあります。これはいい感じで煩悩が取れた状態で書けたからだと思います。

心をいかに「煩悩がない」状態に持っていけるか、この感覚をコントロールできるかが物書きとして大切なのではないか、そんなふうに私は思うのです。

私が煩悩と戦ってきた(今も戦っているけど)からなのか、他人の文章からでも煩悩は見て取れます。「この作者、自分をインテリに見せたいんだな」とか。

同じ名門大学の教授が書いた文章でも、人によっては小難しいものもあれば、平易なものもあります。この差は、作者の文章力よりも煩悩の大小のほうが要因としては大きいのではないかと考えます。小難しい文章を書く人は自分を賢く見せようとし、一方、平易に書く人にはそれがない。

文章はいくらでも飾ることができます。何度も推敲したり、ツールや辞書を用いて自分の頭にはない言葉や表現を用いたり。つまり、いくらでも「見せたい自分」を作ることができるのです。そういう意味では、煩悩をいくらでも肥大化できます。

自分の文体、自分だけの文体。たぶんそういうものがあると思うのですが、それを見つけ出すには、たくさん書いて技術を磨くこと、そして、自分の煩悩を見つけ出してそれを払拭すること。この両方ができて、はじめて自分の文体を見出だせるのだと思います。

ではどうしたら、煩悩を捨て去ることができるのか。ここが一番知りたいですよね。私も知りたいです。

私の経験から有効だと思うのは、「人に見られない(見せない)文章を書く」です。人に見られないのですから、煩悩を持って書く必要がありません。自分だけが読者の文章を書くことで、いつも何を書いているのか、どんなふうに表現しているのか、素の自分が見えてくるはずです。

「自分だけが読む文章」と聞いて、「日記」を思い浮かべた人もいるでしょう。ネットのなかった時代、日記は自分を見つめるいいツールだったと思います。非公開という形のブログ記事でもいいです。間違っても公開しちゃダメですよ。ブログは公開しようと思った瞬間、煩悩が顔をのぞかせます。

ブログに限らず、私たちのポケットに入っているスマホには、煩悩を拡張させるアプリでいっぱいです。「自撮り」してSNSに投稿したり、リア充自慢を投稿したり、煩悩を満たすことに躍起です。飽くなき煩悩はもっともっとと膨れ上がり、ネット空間に虚構な自分を築き上げていきます。そして本当の自分を見失います。

文章でもSNSでも、「自分を○○に見せたい(見られたい)」といった煩悩を払拭できた時、本当を見出だせるのではないでしょうか。

「この話を書いている深井さんは、もう煩悩を払拭されたのですか?」ですって?

偉そうに文章について語っている時点で、私は煩悩まみれですよ。


いいなと思ったら応援しよう!