見出し画像

幻の堺幕府

概略

大永7年(1527年)、室町幕府代12代将軍・足利義晴と

管領・細川高国を京都から追放し、事実上の「将軍」と

なった足利義維と「管領」となった細川晴元らは、上洛

を急がず堺に本拠を置いた。

情勢を見極めるまでの<仮住まい>だったとされるが、

それは別にしても、堺という町は様々な面でメリット

があったようだ。

なぜ堺だったのか?

その理由はー。

祖父

「堺幕府」が成立したとき、事実上の将軍・義維は10代後半

事実上の管領・細川晴元は10代前半とまだ若年者で、2人を

補佐役としてリードしていたのは、晴元の出身である阿波

(徳島県)細川家の家臣で、20代の年長者である三好元長

だった。

堺に畿内の拠点を置くというのも、軍事を握っていた元長

主導で進められたと推測される。

三好家と堺の縁は深い。

堺幕府や三好家と堺との関係について検証し発信する活動を

展開しているC会の代表は「最初に堺に目をつけたのは元長の

祖父・之長でした。」と話す。

之長は、高国と細川管領家の家督争いをしていた阿波細川家の

澄元(晴元の父)の後見人で、京都にいることが多かった。

そこで、京都に近く、本拠地の阿波と海路で行き来するのに

都合の良い堺を第二の拠点とすることを思い立った。

江戸時代に書かれた堺の地誌「全堺詳志」には、永正元

(1504)年、之長が京都から堺に来て、「一大宅を泉州海浜

の浜(堺のこと)において起こさんと欲して」館の建設工事

を始めたと記されている。

これが「海船政所」で、元長の代に完成をみる。

位置は、堺を取り囲む環濠の北端で、「東西約650メートル

南北はその倍」

と広大な敷地を有していたことから、単に三好氏の大邸宅が

あっただけでなく、1万人近い軍勢を収容できるべースキャンプ

でもあったのではないかとも推測されている。


いいなと思ったら応援しよう!