突然
帳尻合わせってほどじゃないし義務にするつもりもないけど、最近更新してないなということで、ある授業のレポート課題をほとんどそのまま、せっかく書いたので、載せます。音楽についての話です。エリック・サティについて知ったとき、その先見性がビートルズにつながる気がしたので(というかそれ以外書けそうな繋がりが19世紀の音楽素人には見出せそうになかった)、多少こじつけ臭くてもやってみよう!ということで書きました。だから多分この人知らんがなって人も読める気がする。本当はもうちょっと長いけど、削った部分はもう完全なこじつけだから消しました。最後に本文中に登場した楽曲をまとめたSpotifyプレイリストをご用意しましたので、そちらと併せてどうぞ。
エリック・サティの音楽~その現代への接続
1.はじめに
フランスの作曲家、エリック・サティ(1866-1925)は、その生涯を通じ当時西洋音楽において伝統的なものとなっていた手法や考え(調性や和声)を疑い、その作風はクロード・ドビュッシーや、アヴァンギャルドな方向で言えばジョン・ケージへと影響を与え、音楽の在り方の新たな位相を切り開いた作曲家といえる[1]。
彼の音楽性は自身の内面に依る面もあるだろうが、当時の音楽界ではかなり前衛的であり、特異な存在として位置づけられよう。しかし、彼の新進性や当時の主流な音楽に対する反抗が現代のポピュラー音楽に受け継がれ、影響を感じさせる部分があり、直接的なリファレンスこそ見られないが、彼の精神が浸透しているのではないかということを、ビートルズの楽曲を例に挙げつつこのレポートで主張したい。
2.楽曲紹介と両者の共通性
まず、サティとビートルズの両者において、各々の活動期において先進的と考えられる作品群を挙げる。
サティの楽曲においては、まず《Vexations》が挙げられる。この曲はまさにタイトルの意味である「嫌がらせ」のように、楽譜にして1ページの同じモチーフが840回繰り返される楽曲であり、テンポの指定が無く演奏時間に幅はあるが、演奏者や聴衆に対し長時間演奏の苦痛を強いる(2020年にはイゴール・レヴィットが休憩をはさみ15時間余りで弾き終えた[2])。この絶え間なく、盛り上がりのない繰り返しの演奏は、現代の技術で可能になったループ音源の手法に通ずるだろう。
続いて《ナマコの胎児》である。この楽曲はピアノ曲《胎児の干物》全3曲の第1曲であり、楽譜には小節線や終止線が存在せず、「歯痛で悩むウグイスのように」や「朝の外/雨が降っている」といった奇妙な書き込みが加えられており(いずれも秋山邦晴訳[3])、実際に演奏する者は困惑するほかないだろう。しかし一方で、楽譜の書き込みを見られず演奏を聴くのみの我々にとっては、その複雑さや不可解さは感じずに「普通の曲」として耳に入ってくるだろう。
一方ビートルズの作品群の中で先進性を感じ、サティとの接続が考えられる作品を挙げるなら、まず《Tomorrow Never Knows》だろう。この曲はテープループや逆回転を中心に、音を圧縮したりテープの回転数を変えて楽器では到底出せない音を作り出すなど、録音技術の発展を後ろ盾に作られた前衛的なもので、タイプライターの音を取り入れたサティの《パラード》のような、既存の楽器のみを普通に演奏することに拘らない点で、相同性が感じられる。
次に、彼らの活動の終盤に発表された《I Want You (She So Heavy)》がある。この曲の後半ではモチーフとなるギターのアルペジオが15回続き、シンセサイザーのノイズにその音が飲み込まれていく中突然終わりを迎える。これはサティの《Vexations》を彷彿とさせる。
最後に挙げられるのは、ビートルズというよりもジョン・レノンとオノ・ヨーコとの共作とすべきかもしれない《Revolution 9》である。この曲は電子音やテープループを応用しつなぎ合わせたサウンドコラージュや無意味な音が8分以上続く実験的作品で、予定調和的な従来の作曲技法を無視し、様々な音(時には沈黙すらも)を用いる。戦後に興った、作曲家、聴取者両者にとって楽曲の展開が予測できない偶然性を取り入れた、従来の西洋音楽の二番煎じとなり得ない前衛的な要素を持つ音楽の影響を感じる。
このようにビートルズにも、有名な楽曲のみを知る人からすると相当に違和感を覚えるような楽曲が存在し、またそれらの前衛性にもそれぞれ述べたようにサティからの影響を感じさせる部分があるのだ。
3.本論:共通性の根拠
前段で挙げたサティとビートルズ両者の作品からは、サティやその時代の前衛的な作品の発想法が、活動時期や使用楽器、ジャンルすら異なるビートルズの作品に見られることを確認した。例えば「楽曲が突然終わりを迎える」というものや「今まで楽器として用いられなかったものを楽曲内で演奏する」というものである。ではそのような共通項が見出せるのはなぜだろうか。
岡田暁生が示す通り、サティの時代はロマン派音楽が主流で、それについて語る言葉は、宗教的比喩を用いた実感を伴わないものであり、ストラヴィンスキーをして「高額なチケットをもつステータスを鼻にかけ、「素晴らしい」と品定めをしながらまるで信者のように厳かにふるまう聴衆」と批判せしめた[4]。つまり、聴衆は批評家の評価を通じてただコンサートホールで聴くだけの存在となり、音楽が専門的な言語を持つ一部の人々のみのものとなっていたのである。
サティが楽譜の中で残した奇妙な演奏記号は、そのような表現力や言葉を批評家のいう「語れない形而上学的なもの」から作曲者や演奏者、そして聴衆の下に取り戻そうとする抵抗の意思表明だったのではないか。彼の書き込みは、岡田が言う、感情や動きや感覚を比喩を通し表現する「わざ言語」[5]という概念に通じるものと考えられる。「わざ言語」の、運動感覚を生々しく伝える語彙は、意味不明でありながらもだからこそそこに演奏者の主体性が入り込む余地が存在しており、彼らに対し楽曲のより具体的イメージを喚起させ、かつそれぞれにそのイメージの解釈が異なった、一義的でない自由な音楽を作ったといえる。またそれらの演奏記号を当時は知ることのなかった聴衆は、記号と同様奇妙なタイトルを読むことで、音楽的な言語に拘束されない自由な想像力を搔き立てられただろう。
だがその一方で、同じサティが提唱した「家具の音楽」には、集中して聴こう、という感覚が起こることはない(それこそが彼の狙いだと考えられるが)。再び岡田の指摘を参照すると、彼は音楽に感動する条件として「音楽と共に一つの時間を共体験しようと思えるか」[6]を挙げている。サティはこの条件を極度に内面化し、また終止線や調性が定かでない楽曲を作ることで「わざ言語」が通用しない、語り方以前に語ることが不可能な、聴くことに徹するどころか集中して考えることを許さないような音楽を意図的に作り上げている。
以上を総合すると、サティは特権的なロマン主義音楽と、批評家によるものだけでない「民主的で、解釈可能な」音楽の両方を拒否し、単純に音を音のまま捉えてほしいと考えたのではないか。そしてそれは、ケージ以降の「傾聴するばかりが音楽の聴き方ではない、環境のように聴いても良い」[7]という考えや、音楽の背後にあるような意味や内容を排し、楽音という概念をも否定した現代音楽の在り方へと接続していくことが分かる。
では、ビートルズの音楽性は聴衆に何を求めていたのだろうか。ステージ上で歓声や嬌声に囲まれ、碌に曲自体を聴かれなかった経験や、公の場で自らの言動が各国で思わぬ影響を及ぼしていた[8]体験から、彼らはスタジオに籠りライブでは再現不可能な実験的なサウンドの追求に取り組んでいく。このことは、アイドルバンドとしてのパブリックイメージからの逸脱として、解釈や属人的な聴かれ方を拒否する形での前衛性を提示したと考えられる。つまり、戦後ほどなくケージの前衛音楽を経由したビートルズにおいても、聴き手に対して純粋にサウンドを聴いてほしいという思いがあったといえる。また20世紀前半の現代音楽では、コラージュやパロディが多用されたが、ビートルズはそれに録音技術の発展を応用させ、様々な音を録音したテープを切っては繋げるという技法の先駆者であった点でより現代的なものといえる。
つまり、サティとビートルズ両者の作品における共通項は、両者共に自身の楽曲を通じて、各々の当時に主流であった音楽やさらにはその音楽を享受する聴衆の在り方を似通ったものとして捉え、それらに対しての反発を表明していたことによって存在したのではないかと考えられる。ビートルズ(特にジョン)は、特にエリック・サティの音楽を聴くことも、それを参照したことが明確な楽曲制作もおそらく行っていないだろうが、そうした知らず知らずの類似点も、上に述べた両者の背景の相同性において結び付けられると考える。両者は共に当時のメインストリームやイメージに抵抗した作品を発表したことで、音楽史の流れを進歩させた、あるいは分流を作り上げたのである。
4.終わりに
ここまで、サティの音楽とその現代(ビートルズ)への接続について述べた。属人的なものとして社会的に承認され権威づけられた芸術としての音楽に対し、サティは抗おうとしたのであり、またビートルズが属するジャンルとしてのロック文化にも、権威に抗おうとするカウンターカルチャーのような、同様の精神性が現れているのではないか(そのようなロック音楽からの逸脱を図ろうとしたのが上記の楽曲群であるが、根底にある思いは変わらないのだろう)といえる。
最後に今日の音楽の聴き方についても、サティの音楽性が反映されているのではないかということも付け加えたい。現代は時間場所問わず比較的良質な音楽を享受できるようになり久しい。そして、自由な場所やタイミングで音楽を聴くということは、集中して音楽を聴く姿勢が必ずしも要請されないことと同義だろう。これはサティの目指した「家具の音楽」の概念に近いといえる。彼の「曲が流れている間雑談しても構わない」のようなメッセージは、多様化した聴き方の中で可能になったのではないか。またビートルズに代表されるポピュラーな音楽でも、例えば移動中などでの「ながら聴き」が可能となり、ジャンル問わず音楽全体で「家具化」が進行しているともいえる。その中では歌詞すら意味として伝わらず音として消費されてしまうということも起こりえる。この現象の善悪の議論はここでは措くとして、ここで言えるのは、ビートルズは50数年前、サティに至っては100年余り前にこのような聴き方がされることを予見していたような作品を発表していたという、両者の音楽性とその先見性である。そして現状多様化した視聴環境の中では、後世に残る作品の条件として、両者の先見性を反映するような「いかなる状況での聴取に耐えうる」というものが加わるかもしれない。
(参考文献)
・有田英也、1992、「音楽とテクスト:エリック・サティの音楽論をめぐる 一考察」『ヨーロッパ文化研究』第11巻、74-50頁。
・エリック・サティ『ピアノ全集』(高橋アキ校訂、秋山邦晴訳詞)、第6
巻、東京:全音楽譜出版社、1986。
・福嶋彩、高橋美樹、2014『エリック・サティに学ぶ新しい芸術の在り方』
高知大学教育学部研究報告、第74号、89-114頁。
・Gowers, Patrick.「サティ・エリック(・アルフレッド・レスリ)」『ニュー
グローヴ 世界音楽大事典』講談社、1997年、第7巻、260-263頁。
・Norman, Philip. 2006、『SHOUT』(島田陽子訳、斉藤早苗監修)、
主婦の友社。
・岡田暁生、2009、『音楽の聴き方』中公新書。
・岡田暁生、2005、『西洋音楽史』中公新書。
・Ray, Anne./村松潔訳、1985、『エリック・サティ』、ソルフェージュ選書
6,白水社。
・田中唯士情報提供、1979、「第3章[1]サウンド・ルーツ」『ビートルズサ
ウンドTHE BEATLES SOUND』CBS・ソニー出版。
・イゴール・レヴィット演奏の《Vexations》 Igor Levit: "#igorpianist - Eric
Satie Vexations Live"
________________________________________
[1] Patrick Gowers「サティ・エリック(・アルフレッド・レスリ)」
『ニューグローヴ 世界音楽大事典』講談社、1997年、第7巻、260-
263頁。
[2] https://www.pscp.tv/igorpianist/1rmxPAyRgyMKN
[3] エリック・サティ『ピアノ全集』(高橋アキ校訂、秋山邦晴訳詞)、第6
巻、東京:全音楽譜出版社、1986。
[4] 岡田暁生, 2009, 47。
[5] 同上, 65。岡田は「わざ言語」を「「わざ言語」とは、身体の共振を作り
出す言葉である。それまでばらばらだった自分の気分(感情)/動作
/身体感覚の間の関係。あるいは自分と他者との間の身体波長のよう
なものの関係。それが、一つの言葉を与えられた途端、生き生きと共
鳴し始める。そうした作用 を持つのが、わざ言語ではないのか」と表
現しており、素人には理解しがたい専門的な語彙に頼ることのない、
一般的な言葉による比喩を用いることによって、演奏者だけでなくそ
れを鑑賞する者の「リアルな身体感覚(66) を喚起することができる
ものを指している。
[6] 同上, 29。
[7] 同上, 124。
[8] ライブ活動を停止する前後のビートルズの多忙さについては、Norman,
Philip.2006、『SHOUT』(島田陽子訳、斉藤早苗監修)、主婦の友
社、第3部に詳しい。