往来

 勝手なものである。ゼミの発表をどうやってすればよいのか、本を読みすぎたあまりアウトプットが全くできていないからと言ってまさか自分から「音楽批評をやってみた」みたいな3流YouTuberみたいなことをしだすとは。無理やりアウトプット回です。まああくまで年間ベスト回に向けての練習、「試論」なのでね、お手柔らかに。

 

 色々な形の愛を歌う曲がある。家族愛、恋人への愛、またその欠如を歌う曲もあるかもしれない。ここで取り上げるのは、うまく形容できるものではないが、あえて言うなら「人類愛」を歌ったものといえるだろう。ハロー!プロジェクト(以下ハロプロ)のグループの一つ、アンジュルムが2018年にリリースした、「46億年LOVE」という楽曲である 。林田健司さん(SMAP「青いイナズマ」なども作曲)の作曲もさることながら 、ここでは作詞家、児玉雨子さんの書く子の楽曲の詞に着目して考えていきたい。この曲では、まさにミクロとマクロな視点が交互に入れ替わることにより、「人類愛」というスケールの大きい楽曲でありながら一人ひとりに「響く」という、高度な作りになっている のである。

まずは件の楽曲を聞いてみてほしい 。

 制作スタッフからも明らかなように、いかにもな「ポップス」であり、アイドルファンが掛け声を発したり、メンバーと共に手拍子をしたりする空白などが周到に用意されている、「会場鳴り」も素晴らしい楽曲と思われる 。しかし、この楽曲の魅力は何より歌詞にあると考える。以下リンクで歌詞を読んでみてほしい。

 では1番A~Bメロから。いきなりカメラがズームインとズームアウトを繰り返すような、場面移動の連続である。

”「一生守る」とすぐに誓うけど
あなたの一生って何度目?                      「好き」ならわりと言えるもんだけど
「ぎゅっとしてよ」ちょっと恥ずかしい                 目が回っちゃうくらいに忙しい日々
白黒淀んだこのグレーなシティ                     今朝は駅前で何人と
すれちがったかな…”

  Aメロ部分である1、2行目では「一生」というワードが出てくる。「一生のお願い」など、死を予測できない私たちからは想像しにくいせいで、ともすれば屁理屈で反論されかねない、現実感のない単語であり、実際「すぐに誓うけど~何度目?」と語り手である「私」から反論されている。3,4行目でも「好き」→「ぎゅっとしてよ」の身体的な距離感の近さが近づくにつれ言いにくい(恥ずかしい)という感情が現れている。

 Bメロ5,6行目では疲弊し孤独な「私」が描かれているが(ここはミクロな視点で、現実的な描写)、7,8行目ではその疲れ、下を向いた「私」が少し顔を上げ、見知らぬ他人に目を向ける描写が浮かぶ。ここはいわばサビに向けての、この楽曲の世界観の「個人から普遍へ」の助走部分と捉えられるだろう。

 そして1番サビ。

来てよ!優しい愛の時代                                女も男もみな人類
歴史に名を残す前に
アツい電話くれなきゃ
無理 無理                               I say ノってこう
結局はラブでしょ
地球回る 宇宙もDance Dance
ノってこう
大きなラブでしょ
愛は超える 46億年

  だいぶ大きく出たな、と思う。いきなり「来てよ!」である。そんな簡単に来ないよ、とも思ってしまうが、ここが大事なのである。個人である「私」が叫んでいるだけでは、当然「愛の時代」は来ない。来るようにするためには「人類」みんなの力が必要なのである(とても単純な世界観だが、これにはとても個人的には救われた)。そしてそこには「女も男も」ない。さらに次はミクロ→マクロの視点である。「歴史に名を残す」、さぞかし大層なことを成し遂げたのだろうが、「私」に電話一本くれないという。すぐ前に「人類みんなの愛が必要」などといってみたが、その実愛は一人ひとりの所からスタートする、そこから積み重ねていくものだと、聴き手ははっとするわけである 。

 「I say~」以降では、物凄い視点移動が行われている。ここまでまとめると、個人→一人ひとり→人類→地球→宇宙である。そしてそこを包む力として「ラブ」が提示されている、という仕組みである。その中でも私は、「結局」というワードに着目したい。「結局」とか「なんだかんだ」などの単語を使うとき、私の頭の中ではいつもブーメランのイメージが浮かぶ。投げたブーメランは様々な物事を観察し、自分になり替わってその物事について考えながら、「とはいえ結局、生きるためにご飯作らなきゃ」といいながら最終的に投げた自分のもとへ帰ってくるという感じに。このような風に、「忙しい日々」を生き抜くのも、「すれ違った」他人に思いをはせるのにも、「ぎゅっと」するのにも結局、「ラブ」、が必要であり、取り敢えずそれさえあれば、という切実さも持ち合わせているのである。そして時間という面でも視点移動である。最初からまとめると、一生→日々→歴史→46億年である。スケールが大きすぎる。1番だけでも規模の大きさを十分に感じさせられる楽曲である。

 少し飛んで、2番サビへ。

作ろう!まばゆい愛の時代
それしかないよ 実際問題
夢に見てた自分じゃなくても
真っ当に暮らしていく
今どき                                  

先程は「来てよ!」だったところが「作ろう!」になっている。「来てよ!」と待っているだけでは「愛の時代」は来ないという思いが、主体的行動に「私」を走らせる。その後の「実際問題」も、先程の「結局」という所と繋がる、「ブーメラン」的な歌詞であって、「愛」というスケールの大きい話題を自分ごとにする働きをしている。なんだかんだ言っても、「愛の時代」は作っていくしかないのである。そしてそこには「夢に見てた自分」(ここもスケールの大きい話)はいなくとも、「真っ当に」生きることによって、その時代を作ることはできるという、人類普遍を巻き込もうとする歌詞なのである。

 といった感じに、この楽曲は現実的問題とその奥にある宇宙や人類といった普遍的な概念や、愛について語ろうという、それは壮大なものといえるだろう。
この曲を作詞した児玉雨子さんは、この他にもアイドルを通じて普遍性のあるメッセージを届けている。例えば、

人間~! きちんと手を洗ってるかー?!
人間~! よく寝て、よく食べてるかー?!
人間~! 不機嫌まきちらしてないかー?!
人間~! 明日のことを信じてるかー?!

― BEYOOOOONDS「Now Now Ningen」(2021)

 「人間」全体に呼びかけているような歌詞がある。この曲もサビでは、

Na Na Naにしてたこと
ちゃんと直して進もう
Now Now Nowに生きてゆこう
大丈夫 がんばろうね                         Na Na Naに暮らしてた
それじゃ今から変わろう
Now Now Nowに生きてゆこう
一緒に作ろう New Normal                      

 「大丈夫 がんばろうね」といったように、一人ひとりに寄り添うというような、普遍→個人への視点移動が鮮やかに行われているといえるだろう。このバランス感覚が児玉さんの詞の肝だと、私には感じられるのだ。

 他にも、ここら辺。

  この楽曲でも「世界」「10億年」などスケールの大きいワードが並べられるが、その一方で「君」「うちら」という聴き手に近い単語も並置され、2番サビでは「同じ眼光の 君へ」と、急にこちらに指をさされたような、ドキッとした感触を得られるのだ。このミクロ/マクロの移動やバランス感覚が児玉さんの詞の肝だと私は思うのだ 。

 そして、アンジュルムというグループについて。私は今年このグループを知ったので、彼女たちの歴史のようなものはよく分からない。そして、実際に彼女たちが曲を書いているわけではないので、ここまで書いてきた文章はアンジュルムというグループというよりは児玉雨子さんを「すごい」と言っているものだ(多分この辺りがアイドルを語ることの難しさだし、歌詞を分析することの難しさ。メロディや編曲、歌声、歌割、振り付け、MVの演出などが複合的に歌っている内容や詳細な意味を決定づけているから、文字だけで音楽の何かを語るのは本来、とても難しい )。その中で、ひょんなことからこの楽曲を知ることができて心底良かったと思う。この曲には、私と作品の中の「私」を同一視させることのできるようなエネルギーがあると感じるし、そのことをこのように文章として書き、残しておきたい!と思わせるエネルギーも有しているように思える 。そしてそれを可能にしているのが、足元を見つめる現実的な視点と、そこから大きな物語に敷衍させる、児玉雨子さんの詞作の力なのである。


 いかがでしたでしょうか。これ、どれほど自分が出来るかというのを試したくて頑張ってみたんですよ。卒論書くうえでフィードバックが欲しいので、ケチを付けたり、良かったところ、改善点等くれたら嬉しい。お菓子買う。

 


 ついでに、あるところに書いた(公開してない)ものも。藤原さくらさんの楽曲についてです。

          Kirakira/藤原さくら(2021)
 思うような行動が制限されている現在の世界の中で、心地よい朝の訪れとここから眠りにつくまでの間に「何かいいことあるぞ」と思わせてくれるような感覚が、一音目のピアノの音色からいきなりくっきりとした形で伝えられる。この曲は今年4月9日に行われたワンマンライブ「Sakura Fujiwara Live 2021 "SUPERMARKET"」にて初披露された。ライブが延期になったことを受け新たに制作されたこの楽曲は、ライブタイトルと同名のアルバム”SUPERMARKET"と、「日常生活を描く」という位相でリンクしている。
大きく変化した社会の中で、私も何かと塞ぎ込み、ある程度の恐怖心を抱き続けるような毎日を送っていたが、この曲を聴いたことで、そんな毎日に実は緩やかにしかし確実に自分の中に存在している「自分が生きる日常の尊さ」に気づかされた。この曲はその中の新しい一日の始まりに原色ともマーブルともつかない彩りを加えている。ピアノや管楽器などの多様な音が調和をなし、ステップを踏みたくなるような重量感のないビートの上には、<きらきら/からから/さらさら>などの、サビの展開を前に連続するオノマトペの跳ねるような音が心地よく、<光と音のマーブル>の言葉から始まるサビで、普段の日常はこれほどに色と音に彩られ、木漏れ日のようにささやかながらも光を放っているのだということに気づかされる。
この曲は、ささやかで内省的な歌詞を持ちながらも、私たちが生きる日常はどこまでも自分自身のもので、自分で楽しくしていくものだという藤原さくらの現在のモードをもっとも感じさせる曲のように思う。3分14秒、この曲が終わる瞬間に、玄関を開けて買い物にでも行こう、何かいいことがあるかもしれない。