想像

一人の音楽が好きな人間として、思った事だけを書く。ジョンレノンの話をする。そもそも根本として、これから記述する彼の像は、実際に会っているわけがないし伝記とかを読んで私が勝手に考えたものでしかないから、その意味では個人的なものではあるものの、一個人の感想を武器のように持って振り回して勝手に怒っているんじゃないよと思う人もいるだろう。全くその通りだ。でもだからこそ、「私は許せなかった」という話を聞いてほしい。

今年の3月11日に、こんな事を勢いに任せて書いた。

私個人は「音楽の力」なるものは全く信じてない。特に作りもしてない、例えばテレビのMCとか、そういう人たちが言うこの言葉は、その力に巻き込まれることを我々に強いているようで、そのような語用に私は危うさすら感じる。音楽は、その人個人個人が聴いて、良い悪い、響いた響かない、それだけの話だと思ってる。こんな誰とも会えない時代に、「音楽で一つに」なんてテーゼで、ふわっとした耳触りのいい応援ワードなんかに巻き込まれるのなんてまっぴらだ。

要は、音楽は個人的なものだし、そうあるべきだとも思っているという話。当然、集合的なものとして例えばこの年のヒット曲はこうで、歌えない人なんていなかったもんね、みたいな話を否定するつもりはないし、特に年末に紅白歌合戦があるこの国では、そういう一つの時代の中の標識のようなものとして音楽というものが存在していると思う。ただ、その集合的なものが例えば権力の側に使われた時に文化がどのようになってしまったか、ということは歴史をちょっと振り返ってみればわかると思う。音楽は危険だと思う。だからこそ、安易な「共感」みたいなものに取り込まれることに対してのことについて自覚的にならなきゃなーと思っている。

昨年の12月8日からおかしいと思っていた。彼が狂信的なファンに帰宅途中に撃たれてから40年、彼の作品として平和を歌ったものばかりが流されるようになった。簡単に作品は作者の手から離れて、イメージだけ先走ってしまうものなのだと、何だか気分が落ち込んだのを覚えている。風化してしまう。

彼はそんな人じゃないと思う。勝手に言ってしまうのは自己矛盾だと思うし、そんな人じゃないわけがない。実際に成し遂げたことも多いし、その考えは受け継がれているし、彼が描いた世界はきっと美しいものだったはずだ。だけどあえて言うとすれば、彼は聖人君子のような汚れなき人物なんかじゃなくて、誰よりも人間臭い人だったはず。彼の思う平和は、家庭という小さい単位の幸福や平和を前提としたものだったはず。彼、ビートルズ解散から10年のうち、半分くらいはいわゆる「イクメン(さっさとこんな単語も無くなってしまえばいい)」だったの。彼は散々な行動をしていて、色々なものを手放しながらようやく愛と平和にたどり着いた人間だという風に思っている。そしてそのメッセージが受け入れられたのは、彼の作り出す作品が尽く美しく、件の作品の前後の文脈があってこそのものだと思っている。ずっとナンセンスや辛辣なジョーク、時には「キリストよりも有名だ」と言ってのけた尊大な感情や、あるいはその裏にあっただろう虚栄心とか、そういう微妙な感情を経ないと生まれないものだったはず。

ちょっと脱線しよっと。「キリスト」発言は、イギリスの小さい雑誌が本当に少し取り上げられたものが、アメリカで切り取られ、まあ炎上炎上、って話なんだけども、最近も同じような話を聞きましたね。少し前にTwitterで私、ビートルズが今いたらとんでもない炎上商法をしてたかもねという話をしましたが、やっぱりそんな気がします。当然オリンピック(やっと言った)みたいな場ではかかわった人が理念に沿っているかどうかは問題になるだろうし、二氏に関しては到底擁護のしようもないくらい酷いし、降板などの社会的制裁は当然だとは思うけど、じゃあ実際に出演した歌舞伎役者とゲーム音楽の作曲家はどうなんでしょうね。出してしまえばそれでいいと考えているのかな。本当はこんな論法、一番幼稚だと思うし使いたくないのだけども、結局キャンセルの対象は権力によって選ぶことが可能だということが示されちゃったし、それってとても危険なことだと思うのだけどね。

もう今更開催の可否についてどうこう言えるものではなくなったし、私はっきりいってめちゃくちゃスポーツ好きだし、すこーしだけ、後ろめたさと「正しさとは何か」みたいなことを思いながら、見はするし、それなりに盛り上がったりすると思う。面白いし。そうでなくたって暑くてやってられない環境の中で頑張っている人たちは素直にすごいし、応援する(選手だけでなく「現場で」関わっている人たち)。とりあえず気を付けて無事に終えられるよう、そして事後に適切な検証と責任を果たすことを当然やっていかなきゃならないだろうね(できるのかな)。

2021年7月23日。まあこんな感じにスタンスを決めて開会式を見ていたんだけど、所々に名前を外された人たちのエッセンスを感じたし、そりゃ直前にいきなり変えることはできないよなと思う一方で、尚更スケープゴートじゃんそんなの、とも思った。結局分からずに怒っている人向けのパフォーマンスに過ぎないのだったら、私はどこに怒りや抗議をぶつければいいのという感じ。

まあそんなこと思ってたら、聴きおぼえのあるコードがして、はっきりと心臓が強く脈打ったのを感じた。やめてくれ。こんなところでこの曲を使うな。もう何が正しいのか分からなくなった。オリンピックという、散々政治的な問題が俎上に上ってしまい、関係者は金もうけにいそしみ、奇妙なナショナリズムが発揚される場で、この曲を軽々しく使ってほしくなかった。ろくに国内の問題もまじめに取り合っていない奴らに、散々自分や家族の問題の中でもがいてあの境地までたどり着いた彼の何がわかるんだ。上澄みだけをすくって、「平和みたいなもの」ということを考えたときに安直にあの曲につながったのだろうけど、そんなことあってはならなかった。彼が「ただ空があるだけ」といった頭上にはドローンや花火が上がり、音楽は権力に負けた。そういうことを思いながら見ていた。

結局死に方が死に方だっただけに神格化されちゃったんだろうな、と思う。今生きてたらどう思うだろうか。案外ノリノリでうけてしまうかもしれない。だから前の段落の内容は、完全にかつ勝手に私が感想を述べながら怒っているだけです。もしオノヨーコが「オリンピックの理念に共感し、ぜひ使ってください」みたいなことを言っていたら、こちらには返す言葉もない。だからいちビートルズおたくが解釈違いでわめいてるという話として片づけてもらっていい。

でも、これを「まあいいじゃん」と言ってしまうと、多分音楽は一時の集団的なカタルシスに用いられる道具に成り下がってしまうような気がしてならない。そこが怖くて怒っているんだ。私ずっとひやひやしてた。米津玄師があの富士山みたいなオブジェ(結局聖火台だったね)から出てきたら、私はどんなことを思えばいいのだろうと。当然そんなことなく終わったけど、似たようなことは考えなければならないことなのかもしれないなと思う。あれだけのごたごたがあって、醜い部分も散々見えた、ものの中に、自分の好きなものがろくに理解もなく上澄みだけ取り込まれたものをみて、本当に嬉しいと思えるのか。私は、思えなかった。ごめん。

もう一個上のレイヤーで(下かな?)話をすると、何で日本の曲じゃなかったのだろうと。誰かが「反日的な人が中止を主張している」という、引用するだけでも不愉快極まりないことをのたまっていましたが、そういう人たちが作るセレモニー(もちろん、みんながそういうわけではないし、これ程色々なことがありながら全くの無批判であの場に望むクリエイターやアーティストなどいないとは思っている)が、ああいう場面で結局日本にゆかりのある海外の楽曲を使う(ジョンは言わずもがな伴侶が日本人、QUEENは日本でのブレイクが世界的になる足掛かり、使用された楽曲は日本語詞が含まれている)というのは、やっぱり所詮「見られ方」でしか話ができないじゃん、ということを感じた。「私たち、こんな権威ある人たちからわざわざ日本に親しみ持ってくれてるんですよーすごいでしょー」みたいな魂胆が見えて、またしてもそんな気持ちであんなに素晴らしい曲を使わないでほしいと思ったし、普段から何か「強い国になるべきだ」みたいなことを考えている人たちの方が、余程ヨーロッパにすり寄った態度を取っているみたいだなと。言葉を選ばずに言うと、こんな態度の方が奴隷根性臭いと感じました。

まあ長々と書いたけど、多分ツッコミどころだらけだと思う。感情に任せて書いているし、不誠実だと感じる部分もあると思う。だから読んでほしいし、感想が欲しい。「音楽の力」が仮にあるとするなら、それは「音楽と絡めて自分語りをさせてしまう力」じゃないかなと思う。「思う」ばっかり書いているね。想像の話ということで。

本日のBGMはCorneliusでした。敢えて聴いちゃうもんね。






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