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小説の登場キャラクターの設計方法(episode0)
長かった本厄を終えたので、頑張って小説を書こうと想いたった今日この頃です。
物語を作るメソッドは幾つかあると思うのですが、その中で一番響いたのが日本映画の重鎮である撮影監督の木村大作さん(代表作:『鉄道院(ぽっぽや)など』)の言葉でした。
『映画にとって最も重要なのは「役者」と「ロケーション」である』
この言葉には当時、衝撃を受けました。僕の本心は、『脚本と映像じゃないの??』(脚本と映像も勿論大事です)
黒澤明監督も映画制作においての脚本制作には妥協を許さない姿勢であり、彼はいつも複数の脚本家と執筆にあたってました。
ではここで、木村大作さんの『映画における最も大切な「役者」と「ロケーション」』とはどうゆう事なんでしょうか。
【一元論的に構築するキャラクター設計】
人の構成を二元論で考えると「心」と「身体」となります。
「心」はその人の記憶や性格、固定概念や好き嫌いなどの様々な要因で構築されていて、「身体」はその人の身長や体型、顔つき等がそれです。
「身体」と「心」は密接に関わっている為、それを二元論で分けるべきではなく、一元論で考えるべきというのが個人的な考えではあります。
例えるなら、「心」と「体」は「水」と「ペットボトル」の関係に似てるかなと、、(つまりは「水」の形は「ペットボトル」の容器に依存するという感じです)
と、いうわけで「心」と「身体」を一元論的に考えて「キャラクター」があるわけです。
まずは、この「キャラクター」を大前提として上で「ロケーション」を乗っけていきます。
【自由に物語を創作できる「神」の存在という落とし穴】
「人」を形作る「記憶」「性格」や「身体」、そして重要なファクターとして「環境」が関わってきます。
仮に同じ、「性格」「身体」を持っている人間がいたとして、その人間が全く違う「環境」で生活したのであれば全く違う「ストーリー」が生まれるわけです。
「ストーリー」とはその「環境下」において「キャラクター」が紡ぎ出すものであり、作者にとってはここの設計が重要になってきます。
注意しなければいけないのは、「ストーリー」の作者はある意味で自由に物語を創作できる「神」の存在であり、容易に「登場人物」の人生をコントロールできる訳です。
ここが、大きな「落とし穴」となります。
アニメーション映画の巨匠:宮崎駿は、ここの観点で漫画・アニメの神と言われる手塚治虫を否定しています。
手塚治虫は時に、物語性を重視するためにキャラクターの行動原理とは相反する展開にする傾向がありました。
キャラクター第一主義とする宮崎駿はこれをアンチテーゼとし、彼のアニメ制作はある意味で独自のメソッドで進められます。
本来、長編のアニメ映画制作には脚本があり制作サイドは全てのストーリーの流れを理解した上で進める訳です。
しかし、宮崎駿の現場には脚本が存在せず、制作スタッフは宮崎駿が順番に書き上げる「絵コンテ」をもとに原画や動画、彩色の肯定を進めていくのです。
制作段階において「ストーリー」の全体像は宮崎駿監督の頭の中だけで存在してる訳です。
と、いうか宮崎駿でさえその「ストーリー」の結末が分からずに進めているのが現状です。
つまりは、その「ストーリー」は登場する「キャラクター」が紡ぎ出していくからです。
【魅力的なキャラクターが勝手に紡いでいくストーリー】
それは、正に我々の人生と同じであると言えるでしょう。自分の人生はその環境下で自分が選択して創り上げていくものであり、「小説」や「映画」の制作工程においても、共通点があると言える訳です。
今回のメソッドは一つの例であり全ての作品が同じ工程で作られているわけではありません。
しかしながら、魅力的な「キャラクター(演者)」がどのような「環境下(ロケーション)」に置かれることが重要と考えており、そこの設計が非常に重要になります。
そんな訳で、今回の小説に登場するメインのキャラクターが三人いて、その内のひとりをより深くイメージする為にキャラクターデザインしてます。
イラストの女性がそれ。
どのような家族構成でどんな性格でどんな過去があり、何を喜びとし、どんな服をチョイスして、何に苦しんでいて、どんな物を好んで食べて朝は何を飲み、どんな音楽を聴いて、何の仕事をしているのか。
その解像度が鮮明であればあるほど、その「ストーリー」がドライブしていき、「キャラクター」が勝手に物語を紡いで行ってくれる訳です。
これから、この彼女がどんな物語を創っていくのか、これか楽しみで仕方ありません。