ルイ13世(ショートショート)
今日はなんだかついてない。
仕事はちょっとしたミスが続き、上司にも怒られて気分が沈む。
大きなミスを1回するより、小さなミスが10回続く方が、落ち込む。
ーーお酒でも飲めたらな。
父親に似てお酒がなかなか飲めない私は、同僚がよく言う”酒で嫌なことを忘れる”なんてことはできなくて。
経済的なのはいいけれど、なんだかちょっと損した気分。
少しならいけるんじゃないか。
そんなよくわからない自信が後押しして、繁華街を歩いてみる。
楽しそうにすれ違う人を見ると、自分だけ街から拒絶されているようで、やっぱり帰るべきだと踵を返した。
振り返った目の端で、一軒のお店がチラリと目に付く。
ドラマに出てきそうな、おしゃれで、ひっそりとした雰囲気。
どこから生えているのかわからない蔦に覆われた、レンガ調の壁。
おそらく店名が書かれていたであろう場所は、蔦で隠れて名前が見えない。
扉はアンティーク調で、いかにも重そうだ。
扉の横に置いてある、2つ折りの小さな黒板には”Bar rest”と書いてあった。
蔦で隠れて見えなくなった看板にもきっと、Bar restと書かれていたんだろう。
ーー1杯だけなら、いけるかも。
rest。休む。
今私に一番必要なものだ。
ーー少し、休みたい。
先ほどまであった「今日はいける」という謎の自信がまたむくむくと湧き上がる。
履き潰し寸前のくたびれた革のヒールは、踊るように私の足を動かして、酒飲みしか入ることの許されないBarの扉まで案内した。
予想外に軽い扉を開けると、中は思ったよりも本格的なバーだった。
足が止まる。
失敗した、と察する。
店内は薄暗い照明で、中もアンティーク調な家具で統一されていた。
ジャズが心地よいムードを作っているけれど、私にはとても休めそうな場所ではなかった。
カツ、とヒールが音を立てて、一歩後ろに動く。
「いらっしゃいませ」
ーー帰ろうと思ったのに。
カウンターにいるバーテンが、気怠そうに私を歓迎する。
その声に反応するように、1人の男性が私を見つけた。
ーー綺麗な、男の人。
頬杖をつきながら、こちらを見た綺麗な男性は、カウンターの角席で琥珀色の液体を楽しんでいたようだ。
目が合う。
彼はニコリと微笑み、カウンターに向き直した。
グラスを傾ける。
カツン、とヒールは高い音を出して、私の足を動かす。
向かった先は、彼の2つ隣。
「ご注文は。」
カウンター越しに、不愛想なバーテンが話しかけてきた。
やばい。
ーーお酒の名前、知らない……。
痛恨のミスだ。酒が飲めないから、酒の名前なんてビールと焼酎、なんちゃら割、くらいしか知らない。
それはこんなおしゃれなバーで出すようなお酒ではないーーと、思う。
メニューがあれば適当に、一番上のこれ、なんて指させるのに、ない。
知っているお酒?
なんだっけ。
思いつかない。
「えっと……」
不愛想なバーテンは微動だにしない。三白眼の少し鋭い目で、私を見つめるだけだ。まつ毛が長い。
(ちょっとは空気を察してよ……)
初対面のバーテンに、ハイクオリティのスキルを要求しかける。
そもそもここはバーだ。
酒が飲めない人間が、1人で来る場所ではない。
まさかこの不愛想なバーテンも、私がお酒の名前すら知らない、ましてや、酒が飲めない人間だなんて思いもしないんだろう。
何度も言うがバーなのだ。
ーーやっぱり帰ろう。恥ずかしいけど。
スゥ、と息を吸いこんだ時、「これ、飲んでみる?」と声が聞こえた。
振り返ると、いつの間にか後ろにいた先ほどの綺麗な男性。
私だ。私に、聞いている。
吐き出す息と共に「はい。」と小さな音が漏れた。
その綺麗な男性は、隣いい?と言いながら、返事を聞かずに隣に座る。
そして、頬杖をついてこちらを見ながら、私がお酒を飲むのを待っている……ようだった。
彼が差し出したグラスを受け取り、少しだけ傾けて唇をつける。
アルコールの匂いと刺激が鼻を刺して、思わず下唇を巻き込んだ。
「あははっ」
少しだけ声を出して笑った彼は、私からグラスを受け取って「きついよね、お酒、頼んであげる」と何やら知らない名前のお酒を注文した。
不愛想なバーテンは、先ほどから微動だにしていない。
バーは初めてだが、これは正解な接客ではないだろう。
注文を聞いて、「あぃ」と間抜けな返事をした。
……これも、正解な接客ではないだろう。
バーテンは、間抜けな返事からは想像できない手際の良さで、1杯のカクテルをあっという間に作り上げた。
キラキラ、宝石のようなきれいな色。
スカイブルーだ。
好きな色だった。
「飲んでみて」
と彼はまた綺麗な口元に笑みを浮かべるから「実はお酒が苦手」とも言い出せずそのカクテルを一口、飲んでみる。
「おいしい・・・」
先ほどの琥珀色の液体とは違い、グラスを傾けても刺激が感じない。
お酒が飲めない私でも、ジュースみたいに飲みやすかった。
「でしょ。だってそれノンアルだもん」
今度はふふ、と笑いながら、彼は琥珀色の液体を飲み干す。
バーテンに空のグラスを渡し、「おなじの。」と言った。
バーテンは返事をしなかった。
ーーお酒が飲めないの、バレてた。
顔が火照る。
1口、また”ジュース”を飲んで「お酒、強いんですね」と話しかけてみた。
「そう見える?」
「だって、すごくきつかった。それ」
指を差したのは先ほどのグラス。
飲めない私だって、そのお酒が他のものよりキツイことくらいはわかる。
彼は顔色一つ変えずに、涼しい顔で飲んでいるけれど。
「ルイ13世だよ」
かつてのフランス国王の名前を口にする。恐らくお酒の名前だと思う。
ルイ13世はお酒に自分の名前がついている未来なんて予想したのかな。
そんなくだらないことを考える。
「ルイ13世が生きている時からあるブランデーなんだって。」
と彼は言う。
お酒について何も知らない私は、なんだか肩身が狭い。
彼はニコニコしながら
「俺が詳しいのはこのお酒だけだよ。特別なの。」
と、私の気持ちをフォローするように優しく言葉を続けた。
ーーさっきから、心を透かしているみたいだ。
魔法みたいに思いを汲んでくれる彼をもうちょっと知りたくなって、その綺麗な横顔を少しだけ睨みつける。
彼は口角を上げたまま、不愛想なバーテンの動きをおもしろそうに見ていた。
鼻筋が通っている。
髪の毛はサラサラで指通りがよさそう。
長くて真っすぐに伸びたまつ毛が、頬に影を作っている。
首の筋が動いた。
「俺のこと知りたい?」
急に視線を合わせた彼に、一気に顔が熱くなる。
……酔っぱらっているみたいだ。
お酒が飲めたなら”酒に酔った”を免罪符に、素直に知りたいと頷けるだろうか。
ルイ13世が特別な理由も、聞けるのかな。
でも私の目の前にあるのは”ノンアルコールのジュース”で、彼の名前すら知らないまま。
「顔、赤いよ」
いじわるに微笑む彼に、私はまた見透かされているんだろう。
お酒が飲めないって、やっぱり損だ。
誰のせいにもできない私は、お酒の弱い父親を、ちょっとだけ恨んだ。
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