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コミュニティなんか作るよりカルチャー作る方がよくね?という話

昨年末にZINEを作る!と宣言しましたが、全く進んでおりません。

言い訳程度に、初稿を20,000文字ほど書きましたが、本当に初稿すぎて読み直す気が起きずにいます。そもそも、書きながら言いたいことが変わってきてしまったのが敗因です。
ライターと編集者は両立が難しいなぁと思った次第です。

これは、このサクラダファミリアの如く完成が見えない(いや、あっちは見えてきましたが…)ZINE作りからこぼれた話になります。

コミュニティ作るのってめんどくさい

行政の資料とか調べていると、50年くらい前からすでに「このままだとコミュニティやばくね?」という話が出てきます。
そんな前から、コミュニティという概念はありますが、この言葉が色んなところで使われるようになったのは比較的最近のことだと思います。

特に、コミュニティデザイン(山崎亮さんが有名ですね)やら、コミュニティマネージャーやら。コミュニティという言葉が仕事や肩書きにくっつくようになったのはここ数年のことのように感じます。
(それ以前はお前その辺のネタに興味なかっただろ?という反論が可能ですが。)

そんな人たちに紛れて、僕もコミュニティ作りにハマっていたことがあります。
最初はリトルトーキョーと言う、日本仕事百貨と当時はグリーンズが共同運営していたスペースに参加していた時が、コミュニティ作りを明確に意識した時でした。今のリトルトーキョーは場所も運営スタイルも変わりましたが、僕が参加していた頃は虎ノ門ヒルズの真横にありました。
(長くなるので割愛)

コミュニティ作りなんて書くと、なんだか世のため人のため感があったり、リア充っぽいですがその通りです。仲良しだし、面白いし、思わずSNSに投稿したくなるような事をするのがここで言うコミュニティでした。
要は、所属していると自己肯定感が上がるのが当時作ろうとしていたコミュニティです。
そんなものを僕も作ろうとしていました。

そして飽きた。

自己肯定感よりも好奇心を

仲良しこよしのリア充コミュニティに参加したり作ったりするのに僕が飽きた理由は、つまらなくなったからです。

割と早々に飽きました。

なんだっけ、ビブリオバトルみたいな名前の「オススメの本をプレゼンして投票で勝つコミュニティ」とかいい例です。
勝つと自己肯定感がはんぱなく上がります。
んで、勝つのは簡単です。
みんなが読んだことのある自己啓発本を誉めちぎれば良いのです。

と、思った瞬間に飽きがきました。
「ここにいても、新しい発見がなさそうだ。」

ここから僕の「新しい発見と出会えるコミュニティを作る」という方向が生まれました。

自己肯定感よりも好奇心を。

その結果、虎ノ門ヒルズの横で焚き火をしてみたり、話すだけのイベントをやってみたり。ゆくゆくは、しこたまみかんを食べたり、そもそも何もしないイベントをしたりしました。

要は「これやったら、どうなるんだろ?」を基準に考えていたのです。主催者自身が、なにが起こるかわからない、ワクワクやドキドキを企画の中心に置きました。

面白い人は、わけがわからない。

面白い、とはなんでしょうか。
そこには「興味ある」と「知らない」が同居しているように思います。

興味があるけど、知らなかったことは面白い。

この2つの要素を持つものが見つかれば、もうイベントは簡単に作れます。そして、この2つの要素を強くすればするほど、人が集まらなくなります。

なぜなら、わけがわからなくなるから。

たとえば、
「祭と平和」
をテーマにした時とか、1人来たっけ?くらいな感じでした。
お祭りがちゃんと行われるということは、コミュニティの平和維持に多きな役割があるのではないか?という問いに対して、文化人類学を研究している人に聞くトークイベントでしたが、本当に人が来なかったです。

ただ、ものすごく面白かった。
やっぱ人が集まる企画は面白くない。

でも、これすら飽きてきます。
なぜなら、どの程度、驚くのが予想できるようになってきてしまったから。面白がり期待が、予想の範囲内に収まり、面白がりきれなくなってきたから。
なんて贅沢なんでしょう。

コミュニティは、維持するのがめんどくさい

飽きた、なんて言うと「けしからん!」と言う人がいるかもしれません。だからもうひとつ理由を書きます。

コミュニティは、一度作ったら終わりではありません。特に、いろんな人がコミュニティを作りたがる今の時代、コミュニティは維持するのが大切です。
コミュニティへの参加とは、ざっくり分けて2つの要素からできています。

「時間」と「やる気」です。

コミュニティのメンバーから、この2つの要素を提供してもらうほど、コミュニティは大きくてパワーを持つようになります。コミュニティの維持とは、この2つがたくさん集まるように頑張ることと同じです。

たとえば、コミュニティを立ち上げた最初のうちは割と簡単に集まります。「なにするんだろう?」と、みんな気になるからです。
でも、そんな理由は長続きしません。だんだんと、時間とやる気を集めるための労力が増えていきます。

僕はそんなのは嫌なので、最小限の労力でもこの2つを集める方法を探してきました。そして、考えれば考えるほど、コミュニティは維持するために頑張るべきではない。という結論に達します。

コミュニティは巻き込む。カルチャーは伝染する

コミュニティを作る人はみんな「巻き込む」のが大好きです。巻き込まれると、時間とやる気を吸い取られます。
僕は巻き込むのは必要に応じてやりますが、そもそも巻き込まれるのが嫌いなので、あんまり強要したくはありません。

では、強要せずに人々の「時間」と「やる気」を集めるには?それを考えていた時に思いついたのが、文化を作る、という方法です。

文化=カルチャー

たとえば、僕はごはんを食べるときに「いただきます」と言います。この瞬間は自覚的に日本の「文化を実施」しています。
同じように「日本の文化を実践している」時は、生活の中で無数にあります。

「いただきます」は、日本というコミュニティの中にあります。つまり、カルチャーはコミュニティの中にあります。

コミュニティとカルチャーの違いは、その広がり方にあります。
コミュニティは、さっき書いたように「巻き込み」ます。

一方、カルチャーは「伝染」します。
コミュニティの中にあるものなのに、コミュニティの壁を越えて広がります。まるでウィルスのように。

あと、コミュニティとカルチャーの大事な違いはもうひとつあります。

コミュニティも、カルチャーも、新しいコミュニティを生み出す起点になる、という共通点があります。
ただ、コミュニティの場合はよっぽどのことがない限り、新しく生まれたコミュニティが起点となったコミュニティを超える大きさにはなりません。なぜなら「分割」されて増えるから。
一度別れたものが、もとより大きくなるには時間も労力もかかります。

一方、カルチャーの場合は「繋がる」増え方をします。「お!お前も食べるときいただきます言うの!一緒じゃん!」カルチャーから生まれるコミュニティはこんな増え方をします。
増えるので、コミュニティを作るより楽です。なんなら勝手に増えていきます。

カルチャーを作れれば、よくね?

良いコミュニティをローコストで作るには?
を考えていたら、カルチャーを作ればよいという考えに至りました。

では、カルチャーはどうやったら作れるのか?これが今の僕の興味の方向です。

今のところ、ひとつ見えているのは、価値観を作ることです。

これはよい、これはわるい。

この価値観の尺度を意識的に表現すると、どうやらカルチャーっぽいものが生まれる気がします。意識的に表現するとの中には、理由をつけるということがあります。

そうすると、僕がやっていたことを他の誰かがアレンジして始めてくれるはずです。そうなると、面白がり要素に新しい風が吹いて、僕の予想の範囲を超えたものが生まれてくるのではないか?
それは、とてもとても、面白そうです。

このあたりまで書いて、言語化できている世界の崖っぷちに立ったことがわかりました。要は、この先はまだ人に話して理解してもらえるほど腑に落ちてない状態です。

なので今日はこの辺りで。また気が向いたら書き進めようと思います。

#ブログ #エッセイ #コミュニティ #ZINE #コラム

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