「歴史を編纂する」に宿る作為
歴史を書く、という行為が重い
とあるコミュニティのコアメンバーとして、気づけば半年ほど歩き続けてきました。
今、ちょうどひとつの節目を迎えて、これから新しく参加する人と、これまで参加してきてくれた人たちに向けて「このコミュニティがどう生まれ、何が起こったのか?」を振り返ってまとめた歴史書を作っています。
すると、たった半年の出来事とはいえ、いろいろあったなぁと。改めて半年の間に起こった出来事の多彩さに驚くわけです。
その上で、人に伝えるためには文脈が必要で、じゃあどの文脈を選択するのか?という問いと向き合っていたら、これってなかなか面白い体験だなと。
今日はそんなことを思ったメモのようなnoteです。
人間の記憶はとても変化しやすく、頼りになりません。
もし、複数の人々、特に今まであったことがない人々が同じ共同体に所属する意識を持つためには(難しく書いたけど、要はコミュニティを作るためには、です)共有可能なストーリーが必要です。
歴史をまとめる行為は、
コミュニティのナラティブ(物語)を作り上げる行為なのだ、と作ってみて思いました。
「私達はどこから来て、どこへ向かっていくのか?」
過去を編纂していく行為は、この問いから逃れることができませんでした。なぜなら、目指す未来によって、記録する過去が変わるからです。
もっと気軽なつもりでした。
「この半年、こんなことがあって、大変だったんだよ!」
「僕たちはこれを大切にしたいと思って、このコミュニティを立ち上げたんだ!」
「だから一緒にいい場所を作っていこうぜ!」
そんなメッセージを伝えたいがために、過去の出来事をまとめ始めてみたのです。
しかしその行いは、結果的に「コミュニティのナラティブを作る行為」に他ならないんだ、と。作りながら思いました。
もしこれが、僕が独裁的に全てを決めて(もしくは影でコントロールして)いきたいコミュニティであれば、話は違ったことでしょう。
都合の悪いことは書かずに済む文脈を作って、それに沿って起こった出来事をまとめていけばいいのです。
でも、やっかいなことに僕が作りたいのは究極的には自立型のコミュニティです。天然林のように自分の力で成長できるコミュニティ、を目指しています。するとこの、歴史を編纂する行為そのものが、どう影響したらいいのか?という問とぶつかるのです。
もしかしたら、
「自立していくコミュニティのための歴史」
という考え方もあるのかもしれません。
一方で、
「歴史を書くことが、コミュニティの自立を妨げる可能性」
も考える必要があるのかもしれません。
歴史をまとめる行為。
小学校の卒業アルバムを作るくらいのテンションで始めてみましたが、
思った以上に沼でした。
さて、どうなることやら。
やってみて、どうなったか(どうしたか?)というこの話の続きはまた今度どこかで。聞きたい人がいればお伝えします。
これは「#週1note」という企画の中で作ったnoteです。
詳しくはこちら
https://note.mu/hiromi_okb/m/mcb1a9c4cee2c
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