見出し画像

お友達のなちゅさんの本と、わたしの本を繋いで考えてみる

わたしにはインターネットにお友達がいる。なちゅさんという。なちゅさんと初めて遊んだのは、集まれどうぶつの森というゲームの世界だ。どうぶつの森の世界のなちゅさんちに行って、チャットをしながら遊んだ。もう4年以上前だ。わたしはまだ小学生だったと思う。

なちゅさんは、わたしに月の椅子をくれた。わたしは月が好きだったので、すごく嬉しかった。それから何度も、なちゅさんちに行って島の隅々に行って遊んだ。

あつまれどうぶつの森の部屋


自閉症を持つわたしは、リアルの会話は苦手である。しかしチャットは得意である。最近も、あるゲームのチャットで遊んでいる。その場所ではわたしは猫となって「ニャア」と言っている。人間ですらなく、自閉症とも告げず、わたしは楽しく遊んでいる。

そんなインターネットの世界で出会ったなちゅさんが、本を出した。驚くことに、わたしが本を出したのと、ほぼ同時であった。

こんな偶然ってなかなかないと感じる。二人とも打ち合わせをしたわけではない。偶然にインターネットで友達になった二人が、偶然に本を同時期に出す。そして内容は二人とも、発達障害に関連する本だ。

わたしの本は、自閉症のわたしから見た日常を書いたエッセイ。「わたしは、あなたとわたしの区別がつかない」

なちゅさんのは、発達障害の親子が学校とどんなふうにコミュニケーションをとるかを書いた本だ。「発達障害と生きる親子のための小学校コミュニケーションハック」

両方の内容について似たところを書く。考え方が似ていると思うからだ。

わたしの本にも「学校を敵にしてはよくない」と書いた章がある。なちゅさんも「こんなふうにして、学校とうまくやっていこう」と書いている。

わたしの本に「発達障害と共存する」と書いた。なちゅさんの本も「発達障害と生きる」と書いている。

なちゅさんの本に「何かに秀でた人間になる必要はない」とある。発達障害というと、時々すごく何か得意なことがあると思う人がいる。わたしはこうして文章を書くが、すごく上手いわけではないことを知っている。

だったら、なぜ本を出版できたかというと、それは文章が上手いことが理由ではない。自閉症の世界をかくことができたからだ。

これは秀でているかと考えると、そうではないと考える。たとえばギフテッドという言葉がある。わたしはこの言葉があまり好きではない。発達障害とギフテッドをセットに考えると、重荷だ。発達障害は不幸ではないが、スーパーマンでもない。真っ暗でもないけど、真っ白でもないのだ。

どちらかというと、毎日が大変で、学校に行くだけで息切れしている。実際はしていないが、そういう気分であるということだ。

なちゅさんの本に、「学校を嫌いにならないようにする」とあった。わたしの家族もそこをすごく気持ちを払ってくれた。

なちゅさんが撮った写真。書店でわたしたちの本が並んでいる。

なちゅさんは、わたしに本を贈ってくれた時、可愛いおまけをつけてくれた。すごく嬉しくて、クリップは学校に持っていっている。あとは大切に引き出しにしまった。ありがとう、なちゅさん。

わたしたちは、発達障害とも、いま居る世界とも戦わない。一緒に暮らすのだ。

可愛いおまけと一緒にやってきた本。


いいなと思ったら応援しよう!