80日間病の旅
I 救急センター
「おう!意識はしっかりいているね」
救急センターの手術室のドアが開き、私を乗せたストレッチャーが入ると一声が響いた。私はその声に頷き、僅かに開いた虚ろな目で声主を見た。体の大きな悠々しい姿の執刀医が看護師たちを従えて整然と立っていた。
目だけを残した青一色の様相は医療ドラマのワンシーンを彷彿させたが、私を注視している複数の目は病態の緊急性を現実化していた。
淡い水色の粛然とした手術室は、天井から下がる円盤状の「無影灯」そのものがスポットライトを浴びているかのように、手術台を照らしていた。
「午後4時10分、手術を始めます」と執刀医がチームを促すと、あらゆる生命維持管理装置が始動した。私の視野は閉ざされ、部分麻酔のため鋭くなった意識は、聴覚が手術経過を推測させていた。
「部分麻酔とは手術する小範囲のみを麻痺させる方法で、痛みは最小限で短時間の手術で終えることが出来る」と概ね知っていた。
今起きている痛みの尺度で15分我慢すれば手術は終わる」と、安直な覚悟で臨んでいたが、痛みはだんだん強さを増していった。
ベルトで固定された身体は捩ることも出来ず、呻き声を上げ左手台にある棒を、力一杯握ることで痛みに耐えた。
手術が終わり、ようやく痛みとの闘いから解放された。
手術室を出るとき、ふと「あの握り棒は看護師の手ではなかったか?」、と頭を横切った。手袋をした看護師の手は人肌の感覚がなかったため、握り棒と思い込んでしまったのかもしれない。痛みで錯乱していた頭は感触さえも愚鈍にさせる。
看護師が私の手を握っていてくれたのであれば、「救いの手」とはまさにこれだと、一人悦に入っていた。
Ⅱ 敗血症性ショック
敗血症は「隠れた殺し屋」ともいわれ、日常遭遇することが多く、死亡率30%に達する病態と恐れられている。
私の病名は「敗血症性ショック」であった。敗血症により血圧が危険なレベルまで低下し、ショック状態を見せる症状である。
病原体の細菌やウィルスが、全身の臓器に障害を起こし血圧が下がる。その結果臓器に血液が供給されなくなり、機能不全になる病態で死亡率もさらに高くなる
発症源は、尿管結石が誘発した尿路感染症によって全身機能に障害を起こしたものと思われる。乏尿、発熱や倦怠感、食欲低下などの全身症状と、腹痛、嘔吐、血圧の低下、頭痛などがあった。この状態になれば意識障害が出るのだが、幸いにもそれはなく通常の会話が出来た。意識がはっきりしていたことが、 病気の重篤さを外見させなかったようだ。
Ⅲ 予兆
緊急入院する3日前の金曜日の夜、夕食後から右下腹部が痛み出し市販の鎮痛薬を飲んで早く床に就いた。だが痛みは深夜になっても治まらず、救急車を呼ばずに夜間救急病院へ駆け込んだ。
レントゲン検査により「尿管結石」と診断され、月曜日に泌尿科専門医の診察を受けるよう指示されて帰宅の途に就いた。
ところが車中で激しい悪寒戦慄に陥った。全身の震えはいまだ経験したことのない激しいものであった。
顎骨が外れてしまうのではないかと思うほどの震えは、手足も激しく振幅させて抗うことを許さなかった。電気椅子のショックとはまさにこんな感覚なのか。
Ⅳ 悪夢
激しい震えも家に着いて治まり、困憊した身体と朦朧とした意識は、眠りを誘いそのまま寝てしまった。
それからが悪夢であった。悪夢は私を翻弄し恐怖に陥れた。
黒い岩石が私をめがけて落ちてくる。巨人が私を標的して岩を落としているかと、上を見るが誰もいない。
落ちる岩石は眼前で消え、現われては消えを繰り返し私の恐怖心を煽り続けた。
ようやく夢から醒め、長い恐怖が去った。
時計を見ると針がない。悪夢が時間を阻んだかのように針が見えない。
しばらくするとこの異様な感覚は去り、2時40分を指す針が見えて来た。たった3時間だけの眠りは、悪夢に支配されていたとしか思えなかった。
急に寒さを感じ身体を見ると、着衣は汗でびしょ濡れになっていた。だるい身体をいざりながらパジャマを換え、シーツを取り外した。
ようやく不快な気分が治まり、浅い眠りのなか朝を迎えた。
V 緊急搬送
月曜日の朝N病院に来たが、泌尿科はF医大からの出張医師のため午後から診察とのこと、仕方がなく院内で待つことにした。
ところがまたあの激しい震えが出現した。
急遽、内科医師が診察し血液検査をすると、点滴投与や検圧・検温と看護師が忙しく動き出したのを、仕切りカーテンの隙間から見えた。
時間は過ぎていき、看護師に焦りの表情が見え始めた時、ようやく医師が現われた。
来て早々「当病院では病態の対応が難しいので、受け入れ病院を探したのですが見つかりませんでした」と、病名を明らかにしないままの説明であった。
私は説明した内容が理解できないまま、「ならばこのままN病院に入院して、内科で治療を受けながら週2回訪れる先生の診察を、受ける方法しかないということですね?」
この問いに医師は「今のところそうですが」と、何とも歯切れの悪い返答であった。
不穏な空気に包まれたその時、傍にいた夫が「今、O病院、H病院、T病院、K病院とあらゆる総合病院が受け入れ出来ない状態と言いましたが、G病院が抜けているが?」と尋ねた。
「あっ!電話します」と、一人の看護師がその場を飛び出して行った。
戻った看護師は「G総合病院が受けてくれました。準備して待っているから、すぐ来るようにとのことです!」逸る気持ちを抑えながら報告した。
それからは、救急車を呼びN病院の看護師を同乗させ、30㎞先のG病院へ救急搬送された。車内で隊員の質問に、直接答えていた私の様子を、看護師がG病院へ連絡していた。このことが、私を見るや否や「意識はしっかりしているね」と、執刀医が一声を上げた理由であった。
激しい震えや悪夢は、感染が身体を巡り「敗血症」を予兆した症状の表れだったと云える。
Ⅵ 手術を終えて
緊急の手術は感染組織の除去と、尿管のステント挿入だけで終了したと考えられる。血液を急性浄化した後は、3日間個室での集中治療となった。臓器障害検査と、抗菌薬、昇圧薬投与、人工呼吸器の装着、心電と血圧などモニター管理がされた。
術後の回復力が速くすべてが順調で、朝夕回診に来ていたT医師も驚くほどであった。
私はこれまで罹る病気を、「セルフケア」で事なきを得て来たと自負していた。
その鷹揚さと固定観念が、時には大事に至らしめるということを思い知らされた。
看護師が手術に立ち入った娘に「お母さんは病気の重篤さを理解していないので、家族からきちんと話をしてください!」と諫めたらしい。
家族には、死を意識させ悲しみと混乱のどん底を、辛酸させてしまった。
人に迷惑をかけることを何よりも嫌いな私が、心痛を与えてしまった咎めが、「余生は自分の意のままに生きる」を言い通すことの難しさを痛感させた。
T医師の入念な治療の実施や細心な配慮、看護師の「心身の併せ持つケア」を受け、それに報いる私はどうすべきかを思案した。それは「良き入院者」であること。
「良き入院者」とは医師やスタッフを信頼し、前向きな自分であることと考える。
明るい気持で治療を受けることが、医療スタッを安心させ、周囲の人たちを和ませるであろうと思う。
VII 体外衝撃波結石破砕術(ESWL)
T医師から「血液もきれいになり体調も良好なので、いよいよ尿管の石を取り除こうと考えています。ただ、Kさんの場合かなり大きい子宮筋腫がありそれが尿管を圧迫しています」 CT画像を見ると、確かに子宮の下部に大きなしこりがあり、その下を縁取るように尿管が押し曲げられていた。
「筋腫をこのままにすると、結石が溜まりやすくもあり、感染を引き起こす事にもなります。病源の筋腫を除去して完全治癒となりますが。その前に結石を取らなければなりません。その手術をしますがよろしいですか?」と、私の意向を確認した。
除去方法は「体外衝撃波砕石術」で行うとのことであった。
「体外衝撃波砕石術」とは結石を放射線で体外からとらえ、衝撃波を体に傷をつけることなく粉砕し体外に流し出す方法である。数回受けても砕石できない場合もある。
衝撃波を当てる前に放射線にて結石の位置を確認し、衝撃の照準を結石に合わせるらしい。
30分前に痛み止めの座薬を投与したが、背骨から腎臓部付近を剣山の先でチクチクされるような痛さが治療中続いた。
我慢できる痛さではあるが、1回の治療時間は40分かかり、2000発の衝撃波を受ける。時計がなく時間の経過はひたすら衝撃波数を数えて終了時間を計るしかない。
だが数で時間を査定することはすぐに諦め、瞑想の中で時の過ぎるのを待った。砕石は砂状になって体外に出されるのだが、それは翌朝のレントゲンで確認される。
5回目の手術を告げられたときは、自分の抱えた結石が医学の最新技術を持っても除去出来ない頑強さに、我ながら呆れてしまった。
TSWL担当者に「こんな優秀なスナイパーが2000発的中させていながら、完全に敵を打ち落せないとはよほど手ごわい敵ですね」と、ため息交じりに愚痴った。
この独りよがりのメタファーを「ふぅむ、スナイパーですか、なるほど。Kさんは理数系を専攻したのですか?」と、真面目な顔で聞いてきた。
私はあわてて「いえ私は映画、“アメリカンスナイパー”の主人公を衝撃波装置に見立てただけです。訳の分からないことを言って、ごめんなさい!」
すると「Kさんは映画が好きですか?わたしも洋画が好きですが、専らビデオで観てます」と、話に乗って来た。
「しめた!この話が続けば、2000発のチクチク弾の痛みも気にならず、時間が過ぎる」と目論んだ。
彼の話を進展させようとしたとき、「ではこれから始めます。終了時間は〇〇分になります」と、改まった口調で話を切ってしまった。
「ああ!仕事モードに入っちゃった。衝撃の照準を合わせてスイッチONにしたら、話をしても支障がないと思うけど。真面目な性格の方だなぁ」と、妙な感心をしてしまった。
私の目論見は失敗に終わり、それからは衝撃波の音を聴きながら雑念に身を置くことで、チクチク弾の痛みから意識を遠ざけた。
衝撃波法砕石術は8回行われたが、結石はまだ数個取り切れずに残されていた。
T医師は私の体力を懸念し、「経尿道的結石摘出術」で一気に除去することを勧めた。その手術後に引き続きステントの交換を行うこととなった。もちろん私に異論はなく、その日の夕方急遽手術は予定された。
この急遽の手術に看護師は、私の心の準備時間がないことと、連日のESWL通いを同情して労わる言葉を掛けてくれた。
当の私は「決まったことは早急にやるべし」主義なので、不満などあろうはずはなかった。
VIII 経尿道的結石摘出術(fーTUL)
「経尿道的結石手術」とは、尿道から石のある場所まで内視鏡を挿入し、水を流して石を見ながら破砕装置を使って石を割り、破砕片を体外に取りだす方法である。
手術の終了が確認できれば、挿入していたステント交換も行う。
手術が始まる前にT執刀医が、「手術中痛かったら我慢しないで言ってください」。私の性格を見抜いてか言葉を掛けてくれた。看護師も繰り返し念を押した。
それに答えて私は「我慢出来ないと言ったら、手術は途中でやめざるを得ないですよね。そうなれば手術のやり直しをすることになるので極力我慢して、手術を終わりにしたいです。チームの皆さんにも二度手間はかけさせたくありませんので」と、演説をぶってしまった。
確かに一回目の手術のトラウマはあった。だが痛みに陥落して中止させたら、生き様を語る私の言葉は空言になってしまう。長い痛みに耐えている人を思えば、私の痛みは一時の辛抱である。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」
心や頭を空っぽにすれば、火さえも涼しく感じられるという、この譬えを現況で唱えていたのは、「いかなる苦痛も心の持ち方しだいで、痛みは凌ぐことが出来る」と、自身に言い聞かせるためである。
T医師の「もう少しで手術が終わりますよ」の言葉を聞いて安心したのか、急に気分が悪くなり嘔吐してしまった。終了間近で嘔吐することは珍しい現象なのか、T医師は「え!本当に吐いたの?」と思わず看護師に聞き直していた。
看護師は「はい!でも昇圧剤投与して血圧が正常値になっています。顔色も赤みが差してきました」。と答えていた。
その晩は高熱を出し2本の点滴を投与しながらの安静状態であった。
IX 入院部屋の小話(しょうわ)
1
11階のH病棟の私の部屋の窓から、聳え立っているNTTの高い鉄塔が眼前に見える。その鉄塔に毎朝一羽のカラスがやってくる。
私は鉄骨の梁に止まるそのカラスを「ハグレ」と名付けた。単独行動する姿が気に入って名を付けたが、ハグレてしまって来ているのではないようだ。
「ハグレ」は梁に止まると、しばし思案しているかのように動かない。それから体を少しずつ回転しながら、まだ目覚めぬ朝の街を俯瞰した後、飛び立って行くのである。
私は「ハグレよ、君はたった一羽でこの高い鉄塔に来るが、その理由は何なのか?」と呟く。「考えるカラス」を思わせるハグレの姿に、私は「カラス哲学」を感じるのである。飛び立つハグレを見届けた後は、これから始まる私の1日に思いを巡らしていた。
2
H病棟の看護師たちは、アイドルグループが結成出来るほど、タレント的な可愛い人たちばかりである。
顔もさることながら、ネームプレートの名前も読めない洒落た漢字が多く、聞いても覚えられない。そこで、苗字の持つ地域性、名前のイメージが持つ本人との共通点や人物像を作り上げて覚えた。
バイタルチェックに来た時が話かけるチャンスである。人間観察や医療の知識を得るには「始めは言葉ありき」であり、入院生活を楽しくもしてくれる。
話の切り口はこうである。
Aさんならば、ネームプレートを見て「AさんはS市生まれですか?あの地域はAという苗字が多いけど、集落のほとんどがA一族なのかしら?郷土史でそのルーツが解かると面白いでしょうね」
Mさんならば、「Mさんの声は鈴の音のよう。細く響く声は余韻が残り心地がいいですね。平安時代であれば“鈴音の君“として源氏物語に描かれそう」
そんな私のジョークに見せる笑顔は、仕事顔から離れた天真さが感じ取れた。話が弾めば私自身も無垢な良い気分になれる。
入院という特異な環境の人たちとの交流は、心身の弱さをさらけ出し、ヒエラルキーも存在しない。
3
右大腿骨内側に2cm幅のL字型黒テープの貼り跡が残ってしまった。
私は清拭してくれる看護師に「これはテープ跡ですので決してタトゥではありません」とふざけて言うと、「実は私はタトゥしたかったのです。」と意外な言葉が返って来た。
「でも日本ではまだ偏見がありますし、看護師という職業柄、許されるべきことではありませんので。
オーストラリアに研修で行った時、たくさんの国の人がタトゥを入れていて羨ましかった。民族意識の違いで外国は文化ですが、日本では裏社会のイメージがあるので仕方がないですよね」
私が「そのきれいな肌に傷をつけるのは忍びないな。でも刻まれた蝶々は美しいでしょうね」とは言ったが、可愛い看護師がタトゥの腕で患者に注射を打つ姿を想像すると、異様に感じざるを得なかった。
「タトゥを彫る痛さは衝撃波のチクチク弾なんてもんじゃないだろうな」と、あのチクチク感覚が蘇って来た。
外国の研修生は自分の体の一部となったタトゥによって、永遠の美と強さの象徴を誇示し自信となっていたのであろう。
だが限りある命を持つものは肉体の衰えを伴う。若い肌に描かれた美しい蝶が、いづれ翅や触覚は垂れ落ち、鱗粉の鮮やかな色は褪せてしまう。
ネガティブに考える私は、日本人ならではのタトゥを否定する所以なのかもしれない。
X 同室の二人
同室には二人の腎臓がん治療者がいた。
45歳のEさんは、夫、小学生の子、舅姑と義兄同居の6人家族である。手術後2回目の抗がん治療入院であった。
Eさんは姑との諍いや障害のある義兄など家族の問題を抱えていた。
だがその顔に深刻さはなく、ケセラセラ的明るさがある。
病院のスタッフに対してもフレンドリーな態度で無遠慮な言葉を吐くが、皆笑顔で聞き流す。この人には気遣いを見せる優しい面もあるからだろう。
再婚前のEさんは自由奔放な行動で、人生を波乱にさせたようだ。その痛手がポジティブに考える自分を育てたのかもしれない。
Eさんは尿カテテールバックを常備した生活を強いられていた。そのことで同情と偏見に晒されたくないと、食品会社を退職し弁えた仕事を探したいと言っていた。
まだ若い彼女には、非情な現実が待ち受けているかもしれないが、そんな自分と向き合う姿に、頭が下がる思いであった。
84歳のSさんは、上品な顔立ちのいかにも「奥様風」の人であった。
Sさんのカーテンはいつも閉められ、食事を摂る時だけ半開きになり、座位姿を見ることが出来た。
ある日私は思い切ってカーテン越しに話をかけた。
「Sさん気分はどうですか?」。すると「あまり良くないのです。どうしても自分の病気を受け入れられなくて。毎日が不安でいます。どうしたらいいのでしょうか?」と、か細い声が聞こえた。
Sさんの落ち込んだ心を少しでも救えればと、話をするが効果は見いだせなかった。
回診に来る担当医や看護師が「抗がん治療も順調で数値も良くなっている」と説明するが、納得出来ず気持ちは沈んだままだった。
Sさんの容態が回復に向かっていることは、カーテンの中で動き始めたことや、完食していることで判断できた。
おそらくSさんは、がんを宣告されるまで大病もせず年齢を感じさせないお年寄りだったのだろう。「そんな私が何故?」との思いが現実を否定してしまったのかもしれない。
「年齢より若い」といわれる世間の評判と自負心が、「老い」の認識を遠ざけ、忍び寄る病魔の足音に耳を塞いでいたか、気づかなかったか、その心意は分からない。
この老若二人のパラドックスな考え方が、病気を抱えて行く人生に、どのように明暗が別れるのかを考えてしまった。
Sさんのような問題は、長寿社会では起きうる事と見なければならない。
それから、固執した頑なSさんの態度に、誰もが声掛けをしなくなった。
会話のない孤独な毎日のなかで、カーテン越しに聞こえる話声は耳障りでもあるが、慰みにもなっていたのではないだろうか。
数日して、Sさんはまだ退院許可が出ないうちに本人の強い希望で退院することとなった。自宅で過ごすことが、Sさんには最善な治療であるように思えた。
XI 退院
手術後早々に開始したリハビリが順調に進み、その後の手術後にも休みなく行われ、日常生活動作に支障がないまでになった。私自身も院内散歩や下肢筋力運動を実践した。
1ヶ月の入院を経て、在宅での維持期のゴーサインが出た。
もっともこの退院は、次回の筋腫手術のための体力回復を兼ねての帰宅であった。3週間後の再入院の予定が組まれ、その間も治癒確認や検査などで通院を繰り返した。
XII 再入院
子宮筋腫卵巣全摘出手術は1週間の入院予定であった。
手術前日に万が一に備え、健康な左尿管にもステントの挿入手術が行われた。
手術は全身麻酔で無意識のうちに終了したが、術後の痛みが3日間続き、痛み止めの投与を切らせなかった。手術は記憶外で済んだがその分、リスクを負うはめになってしまった。
婦人科病棟は若い女性がほとんどを占めていた。だが病室の誰もがカーテンを引いたままの、一人沈黙の世界に浸っていた。
その理由は、「プライバシーを侵害しない、させない」ことが、暗黙のルールとして受け継いでいたらしい。
私はこの病棟には、出産という最大の喜びと、病気治療のための入院者もいるが、それに立ち向かう若さのエネルギーを感じさせる病棟であると推察していた。
このような閉鎖的入院環境は良くない。入院者は「暗黙のルール」を望んでいるのか、破ってみたい衝動に駆られた
隣のMさんに「もし迷惑でなければ、お話したいですが、よろしいですか?」図々しくも尋ねた。
するとMさんが「どうぞ。この病棟では話をしてはいけないと思ってカーテンを引いたままでいたのです。スマホばかり見ている1日も退屈していますので良かったです」と答えてくれた。
「郷に入れば郷に従へ」とばかり、息を潜めてスマホいじりで過ごすことも、この上ない自由ではある。確かに一人世界でいればトラブルはない。
年齢差があったとしても、育児は先輩であり、職場の不満は吐き出せばスカッとする。退院すれば会うこともないので、気兼ねなく愚痴ることが出来る。話をすれば共通する話に辿り着くこともある。
高齢な私などは「聞き役」に徹すれば若者は懐を見せてくれる。
病棟から聞こえる新生児の泣き声は、眠っていた母性本能を蘇らせ切ない気持ちになる。我が腹に慈しんで生まれた子が、ネグレクトされてしまう現実は一体何であろうか?と話し合わずにはいられなかった。
子どもの成長過程で愛情が薄れる瞬間は何か、世代を越えて一緒に考えた。
今回の手術も早い回復で、1週間で退院することができた。同室の36歳の一児の母親は筋腫削摘出のみの手術ではあったが、お互い術後の痛みを共感しながら入院生活を楽しんだ。
XIII 退院―旅の終わり
私の80日間に及ぶ病の旅は退院という終了を迎えた。
ある日、突然嵐に襲われ暗い海原に放り込またのが旅の始まり。大型客船に救出され、手当てを受ける旅を続けて80日間、ようやく対岸が見えて来た。
家族は今でも語る。
あのとき、緊急搬送されず病気の処置が遅れていたなら、こうして語ることもなかったであろうと。
生と死の境は危ういものである。死の淵にスタンディングしていれば自他とも覚悟もあるが、いきなり境界線を越えて走り抜けてしまう場合もある。
意識ある自分があれば、死の間際をしっかり視ることが出来るかと思いきや、意識がある以上は、此岸の現実しか視ることが出来ない。
生還した人が「夢の中であの世を視た」というならば、私が見た「悪夢」があの世の入り口であったろうと思う。
私を死までに至らしめず、現世に踏み止めさせたのは医療の場で「めぐり合った人々」の力である。
その「良き人との巡り合わせの偶然性」を、自分の生き様の「ご褒美」と考えると、余命の使い道も、これまでの心構えを貫きたいと思う。