『ILLUME』とはなんだったのか:第10回:M氏の場合
私の場合は、番外編で良いけど、この方の話は本編なので、第10回記念号です。
M氏とは、ILLUMEの創刊から休刊まで編集人のA氏を支え続けた、本誌のアートディレクターです。
サイエンスビジュアルについては、この回で少し書きました。
内容を捉えながらも、読者の興味を惹くように抽象化されたイメージビジュアルの創造は、毎回、デザイナーの知恵の絞りどころで、それに応えるイラストレーターたちの挑戦でもありました。
奥付に誰の名前をあげるか
あまり広報誌の奥付を見ることはないかと思いますが、本誌の奥付は少し変わっています。
奥付(おくづけ)とは、本の本文が終わった後や巻末に設けられる書誌に関する事項(書誌事項)が記述されている部分。
どんな本にもあるものだと思っていましたが、江戸時代からの和書の決まり事なんですね。日本独自のものとは知りませんでした。ISBNみたいな決まり事があるものだと思っていました。
1893年(明治26年)の出版法では発行者の氏名・住所、年月日、印刷所の名称・住所、印刷の年月日の記載が義務付けられた。今のような形では、岩波書店が始めたとされている。現在は、義務付けはされていないが、慣習として続いている。
それはさておき、だいたい、本の最後のページに以下のようなことが書いてあります。
題名
著者、訳者、編者、編集者(著作権にかかわる場合に記載されるのが例である)
発行者
発行所(出版社)
印刷所
製本所
著作権表示
検印(廃止されているものが多い。印税を参照)
発行年月、版数、刷数(刷り部数を書くこともある)
ISBNコード
本誌では、発行人が本誌発行元の責任者(TEPCOの担当部署のTOP)、編集人(A氏)、そして、編集(TEPCOの担当者、P社の担当者)、さらにアートディレクター(M氏)を記載していました。
のちに、私が編集長という項目になったり、編集の中に、翻訳会社や校閲会社の代表が入ったりしましたが、編集人とアートディレクターは、創刊から休刊まで変わりませんでした。
少し出版業界に詳しい方ならば、編集人と編集長が並んでいることの不思議さに気づいてくださるかもしれません。普通は、編集人が編集長を兼ねるのですが、A氏は「私は編集人である」と頑として譲りませんでした。
その話は別のところで。
アートディレクター(AD)とは
さて、もう1点、奥付に冊子のアートディレクターが記載されているのも珍しいかと思います。
デザインという項目でデザイン会社名が掲載されていたり、単行本であれば装丁という項目でブックデザイナーが記されていることはあるでしょうが、アートディレクターという名称で名前が入っていることはあまり他に見た覚えがありません。
アートディレクターという名称も広告では使いますが、ブックデザインの世界ではあまり使わないのではないでしょうか。
だいたいアートディレクターとデザイナーの違いってなんなのでしょう。
主にデザイン制作に関する、監督のような立ち位置になります。チームで仕事をする場合のチームリーダーです。
この説明が全てのように思いますが、さらに良いことを言っていました。
グラフィックデザインやコピーライティング、WEBデザイン、写真撮影、エディトリアルデザイン、印刷の知識、見積書作成など、ほぼすべての仕事の知識が必要であり、全メンバーの仕事に対応する必要があるマルチプレイヤーです。
M氏が行っていたのは、まさに、この全てだったからです。
ILLUMEのADとしてM氏が行っていたこと
私も、仕事柄、いろいろなデザイナーを見ましたが、M氏ほど原稿をきちんと読む人にあったことはないですね。
もともと文系出身(国学院大学)のデザイナーでもあり、決して、科学的なことを深く理解するわけではないのですが、コアを見極め、本質を掴む力が抜群で、ILLUME独特の「講義」の時も執筆する科学者が驚くほど鋭い質問や、科学者がデータを見直すような指摘をしていたものです。
デザインは配下の人たちが手を動かしているわけで、M氏は方向性とバランスを見て指示するわけです。その腕前の優れていたのは、何より80ページという全体のスペースが決まっている中で、本文と図表などをどう配置するか、どのくらいの大きさで取り上げるか、その見極めでした。
時々、意味が薄い図のサイズが大きくて、重要な図が小さい科学本などがありますが、デザイナーが中身を読んでないんだろうなと思ってしまいます。
M氏は、図表と本文との連携を重視し、どの図をどこに入れるかには毎回相当腐心しました。
また、編集意図を表すために名画と言われる絵画を使ったり、年表や地図などの学術資料をきれいにリメイクしたり、誌面全体の色合いやデザインの変化と流れをバランスよく調整したり、まさに本誌のディレクション(方向性)をアートの力で示してくれたものでした。
原稿を読む、現場に行く、一緒に戦うAD
さらに、イラストレーターにイメージビジュアルとしてイラストを書き下ろしてもらうのですが、その打ち合わせも相当しつこく行い、ラフ段階での描き直しが数度に渡ることもしばしばでした。そしてイラストレーターにも「原稿を読め」と繰り返し言うのでした。
数多くの素敵なイラストを描いて下さった高橋常政さんが、私も同席した打ち合わせの時に「Mさんは原稿読めと言うんだけど、難しくてね」と穏やかに笑って話してくださったのを覚えています。
フロンティアレポートのために写真を撮り下ろしている回も多数あります。当初は海外からのレポートが多かったので写真と原稿を同時にもらっていましたが、私が参画した6号からは、国内の企画は現地に撮影に行きました。
北は小樽港でのロシア船から南は鹿児島・内之浦宇宙空間観測所でのロケット発射台まで、またハワイ島に建設中だったすばる天文台にも一緒に撮影に行きました。
そのほとんどが、写真家・岩切等さんと3人での旅でした。
撮影の際のディレクションもM氏は厳しくて、帆船のマストの上からとか、Spring- 8の全体が見える山の上からとか、なるべく見たことがないアンクルで、思い切って大胆な構図でライティングでと、岩切さんに高いところに登らせて写真を撮らせていたのを覚えています。岩切さんも普段は高所恐怖症なのに、カメラを持って撮影するときは平気だと言っていたのが不思議でした。
数えてみると17回は3人で一緒に旅に出たようです。
二人からいろんなことを教わった取材旅行でした。
アナログからデジタルへの移行
この回でも書きましたが、ILLUMEの20年は、ちょうど、時代がアナログからデジタルにシフトして行く時代でした。
また、制作方法もアナログからデジタルへのシフトが進んでいきます。原稿が手書きからワープロになり、ワードデータに変わっていきます。レイアウトも手書きの指定紙による入稿から、クォークエクスプレスさらにインデザインとレイアウトソフトを利用したものに変わっていきます。
M氏自身はデジタルへの対応が遅くて、なかなか自分でメールを書いたり、スマホにしたりしなかったのですが、事務所のデザインシステムをデジタル化するのは早かった。同時期で言うと、一般企業に比べ、印刷や出版社のデジタル化が一番遅かったのではないかと思いますが、元来新し物好きだというM氏は配下のデザイナーにデジタル化を推進させます。
本誌は大日本印刷が印刷を担当していましたが、デジタル入稿のテストケースとして本誌を使っているようなところもありました。
私もクオークエクスプレスの画面上で文字直ししたり、ワードデータを入稿用にテキストにしたりといったデジタル化を一緒に進めた覚えがあります。
こうしたデジタル化への対応の迅速化は、本誌が科学情報誌であることからTEPCO側の信頼を集めることにもなり、広報誌としても長らえる要素となっていたように思います。
デジタル化に対応できない編集プロダクションやデザイン会社が仕事を失っていく例は数多あったからです。
また、M氏の会社としても、ILLUMEで身につけたデジタル化が他の出版社との仕事に役立ったり、また、個人的に趣味で3Dイラストを作っていたデザイナーがサイエンスイラストレーションの自社内製化に対応するようになって仕事が膨らんだと言うこともあったようです。
これもまたM氏のディレクションだったと思います。
M氏が本誌にもたらしたものは大きく、また、本誌がM氏にもたらした物も多かったように思います。
M氏は本誌のAD として細江英公先生と出会い、後年、同じビルに事務所を移し、細江先生の写真展や写真集のADも数多く行いました。
これもまた、本誌とM氏との相互作用の賜物だったのではないかと思います。
ILLUMEでのアートディレクションの成果の一部は、このサイトから見ることができます。